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第3章-長安編・第12話~荊州の闇~

 徐州を脱出した桃香達は、荊州牧である劉表の下へ身を寄せていた。反董卓連合の際に桃香をいたく気に入った劉表は、彼女達を喜んで迎え入れる。そして、荊州の北部にある新野城を彼女に貸し与え、辺り一帯の統治を認めたのである。


 そんなある日の事。劉表から酒宴に招かれた桃香は趙雲を護衛に伴い、荊州の州都である襄陽を訪れた。


 宴会場に入ると、劉表にその息子、劉奇と劉宗を初めとし、劉表に仕える文武官や荊州の有力者の姿があった。その中にある女性を見つけ、桃香は頭を下げた。相手も気付いたらしく、微笑みながら頭を下げ返した。


 女性の名は司馬徽といい、一般には水鏡とよばれている。彼女はこの襄陽で水鏡女学院という私塾を開いていた。


諸葛亮と鳳統は桃香に仕える前、この水鏡女学院で勉学に励んでいた。そのため、桃香達は最初に襄陽を訪れた際、彼女に劉表への取り次ぎを仲介してもらっていた。


 朱里ちゃんも連れてくればよかったかな。そんな事を思いながら桃香は用意された席に着いた。劉奇、劉宗に次ぐ位置は、客将としては破格の待遇だ。それゆえ、彼女には視線が突き刺さる。特に、劉表配下の一部からは厳しい視線を向けられていた。居心地の悪さに、なかなか酒も進まなかった。


 「どうじゃな、楽しんでおられるか?」


 宴が始まってからしばらくしたところで劉表に声を掛けられた。気が重かった桃香だが、この頃には多少酔いが回り始めていた。


 「はい。どうもありがとうございます、劉表様」


 そう礼を言った後、笑顔を見せる。その様子に劉表は満足そうに頷きながら真っ白い顎髭を撫でた。


 「それはよかった。ところで、酔い醒ましに少し付き合ってくれんかの?」


 「はい、もちろんです」


 酔いを醒ます程には飲んでいなかったが、劉表からの誘いでは断れない。それに、酔ったところで居心地の悪さが解消される訳でも無かった。


 趙雲を見てみれば、出された酒とメンマに至福の顔をしている。邪魔しちゃ悪いな、と、桃香は声を掛けずに席を立った。






 宴会場から露台へと出た。あまり酔ってはいないが、多少なりとも顔は熱を持っている。夜風に吹かれると心地よかった。特に、襄陽の北には漢水という川が流れている。川面を滑ってきた風はひんやりとしていた。


 「荊州での暮らしには慣れましたかな?」


 「はい、お陰様で。荊州の人達は皆いい人ばかりで助かりました」


 頭を下げた後、桃香は劉表から街の方へと視線を移した。宵の口はとうに過ぎているが、人の気配はそこかしこから感じる。治安がいい証拠だ。


 荊州は漢水と長江の流れにより、非常に肥沃な土地となっている。この国を代表する穀倉地帯だ。そんな豊かな土地のせいか、ここに暮らす人々は温かい人が多い。素敵な土地だと思う。


 「劉備殿」


 街を眺めていた桃香は名前を呼ばれて振り返る。当然、そこには劉表しかいない。しかし、いつもの好好爺然とした雰囲気は無く、桃香も自然と姿勢を正した。


 「儂の後を継いで、この荊州を治めてはもらえぬか?」


 「えっ!?」


 「この老いぼれの最後の頼み、どうか聞き届けてもらいたい」


 いきなりの事に困惑する桃香に構わず、劉表は深々と頭を下げた。


 「ちょ、ちょっと待ってください。劉表さんには劉奇さんと劉宗君、立派な世継ぎが2人もいるじゃないですか」


 「……情けない話じゃが、あの2人ではこれから先、荊州を守り抜く事は出来まいて」


 顔を上げた劉表は無念そうに首を横に振った。


 次男の劉宗はまだ10歳にも満たない子供だ。とてもではないが、州牧など務まらない。


 一方、長男の劉奇はすでに20歳を越えている。聡明で優しく、人望もあった。しかし、彼は生まれつき体が弱かった。


 今は平和な荊州も、遠からず戦渦に巻き込まれるのは目に見えていた。その時に先頭に立つ者が病弱では、将兵の士気にかかわる。平時であれば何の問題も無いのだが、今の状況では劉奇に州牧の役は重すぎた。


 桃香にとってもありがたい話であった。徐州の州牧を務めていたとはいえ、現在は劉表の客将に過ぎない。新野城も貸してもらっているだけだ。本拠地も無く、これからの方針も決まっていない状態。そこへ、何の苦労も無く荊州が転がり込んでくる。大変おいしい話だった。


 しかし、桃香にはこの話を受けるつもりは無い。もし劉表に世継ぎがいなければ、喜んで話を受けただろう。だが、そうではないのだ。


 いくら乞われたとはいえ、このまま桃香が跡を継ぐ事は道に反する。少なくとも、彼女の信念、正義にはあてはまらない行為だ。


 その事を伝えると、劉表は落胆した表情を見せたものの納得してくれた様だった。ホッとする桃香。しかし、まだ話は終わってはいなかった。


 「ならば、儂の息子の嫁ではどうじゃ?」


 「……えっ? えーっ!?」


 一旦安心した事もあり、桃香の驚き様は先程以上だった。自分でも顔が赤くなったのがはっきりと分かる。


 「誰か将来を約束した相手でもおるのか?」


 それを聞いて、桃香の脳裏には一刀の顔が浮かんだ。何だか恥ずかしくなり俯いてしまう。


 いきなりの事にただでさえ混乱しているのだ。そこに一刀を思い出した事で、混乱はさらに加速していた。お陰で何も言葉が出てこない。


 「……まあ、年寄りの戯れ言じゃ」


 沈黙を否定ととったのだろう。そう冗談の様に言った劉表の顔は、やはりどこか寂しそうだった。






 酒宴が終わると、桃香と趙雲は用意されていた宿へと戻った。襄陽で一番高級な宿だ。戻った時には夜半も過ぎようか、という時間だった。だが、桃香は寝付く事が出来ず、隣で気持ちよさそうに寝息をたてている趙雲を起こさない様、気配を殺して部屋を出た。


 すでに街全体が寝静まっている。聞こえるのは虫の声と風の音だけ。そんな静寂の中を桃香は目的も無く歩いている。その頭の中には、先程の劉表との会話が思い出されていた。


 「結婚か~。一刀さんとそうなったりしたら……。きゃーっ!」


 頭の中で妄想を膨らまし、恥ずかしさで1人身悶える。端から見れば大層珍奇な行動だろう。本人にもその自覚があった様で、落ち着いてからさらに恥ずかしくなった。


 生まれ故郷の楼桑村にいた頃は、いつかは自分も普通に結婚し普通に子供を生むのだろう、と思っていた。だが、自分が中山靖王劉勝の血を引いていると知った時から全てが変わった。皇家に名を連ねる者として、苦しむ民を救いたい、と思うようになった。何より桃香自身が今の世の中を非常に憂いていた。


 そんな中、彼女は頼もしい義妹2人と出会い、共に乱世を終わらせるべく義勇兵として立ち上がった。あの時から結婚なんて事を考える暇は無くなっていた。


 3人で交わした義姉妹の契りを思い出し懐かしくなる。同時に、関羽が傍にいない事への寂しさと不安も思い出してしまった。徐州陥落からかなり経ったが、私がもっとしっかりしていれば、という思いは未だに消えていない。


 「愛沙ちゃん……」


 名前を呼んでみる。だが、当然返事は無い。鳳統や母も同じだった。


 きっとどこかに無事でいる。そう強く信じてみても、何も情報が入ってこない状況に心は折れそうだった。


 足を止めてため息を吐く。その時、後ろに人の気配を感じた気がして振り返ってみた。


 そこには2つの人影。月明かりしかないが男性だと分かる。そして、彼らがただの通行人でない事も。おっとりしているものの、彼女とて数々の修羅場を潜り抜けているのだ。彼等の雰囲気が剣呑でない事くらいは感じ取れた。


 逃げないと。そう思った桃香の足は正面に向き直ったところで止まった。前方にも同じ様な男がやはり2人。すでに囲まれていた。


 右手にあった商家の壁に背中をつけ、背後に回られない様にしてから懐に手を入れる。普段腰に佩いている宝剣、靖王伝家は、宿に置いてあるため今は無い。手元にある武器は護身用の短剣のみだった。


 それを引き抜き構える。だが、腰が引けたその構えは、お世辞にも強そうには見えない。彼女には絶望的に武の才能がなかった。


 桃香を囲んでいる男が、いつの間にか1人増えていた。恐らくは男達のリーダーなのだろう。他の4人より1、2歩前に出ている。その男が静かに右手を上げた。


 その瞬間、ドガッ、という激しい音がしたかと思うと、桃香から見て左端の男が崩れ落ちた。その影から現れた人物は桃香へと駆け寄る。


 「大丈夫ですか、桃香様?」


 「う、うん。ありがとう、星ちゃん」


 それは趙雲だった。意外な程に落ち着いている様子の趙雲は、桃香の返事を聞いて安堵の表情を浮かべた。だが、すぐに険しい顔に戻り、男達の方を睨み付けた。


 「貴様等、この方を劉表様の客将、劉備様と知っての狼藉か! もしそうだと言うなら、貴様等全員、我が槍の錆にしてくれる!」


 穂先を向けながら、趙雲は大喝する。人々が寝静まった街に彼女の声が響いた。


 こんな深夜に大声を出せば、少なくともこの一帯の住民は何事かと起きてくるはず。人目につく事を恐れ、奴等は退かざるを得ないだろう。


 趙雲のそんな読みは的中した。2人が倒れた仲間を抱え、もう2人が趙雲を牽制しながら彼等は闇の中に消えていった。


 気配が完全に消えたのを確認すると、趙雲は面倒な事になる前に桃香の手を引いてその場を離れた。






 「では、どういう事か説明していただけますか?」


 趙雲が一暴れした通りからしばらく離れた裏通りに2人はいた。


 「説明、って言われても、いきなり襲われたから……」


 桃香には襲われる心当たりなど無かった。可能性があるとすれば、夜中に1人で出歩いていたから、としか思えない。しかし、趙雲が聞きたいのはそこではなかった。


 「襲ってきた連中も気になりますが、私が聞きたいのは、なぜこんな夜更けに1人で外出されたのか、という事です」


 「そ、それは……。星ちゃんが気持ち良さそうに寝てたから、起こしちゃ悪いと思って……」


 趙雲の顔色を窺いながら返事をする桃香。それを聞き、趙雲は深いため息を吐いた。


 「まったく……。桃香様のお命と私の安眠、一体どちらが大切だとお思いか?」


 ごめんなさい~、と情けなく謝られたが、許すつもりは無かった。淡々とした口調で説教を始める。


 普段は飄々として人をからかった様な言動の多い彼女だが、締めるところはピシッと締める。真面目一辺倒の関羽とも、常にゆるゆるな鈴々とも違う。劉備軍において一番オンオフの切り替えがはっきりしている。


 「……という訳ですから、今後はこの様な真似はしないでいただけますな? もし御身に何かあれば、皆に会わす顔がありませぬ」


 だからだろう。説教は桃香が驚くくらいの短時間で終わった。


 「もう終わりでいいの? 愛紗ちゃんだと、最低でも半刻は続くのに」


 「おや、桃香様は愛紗の様な長い説教をお望みか? ならば……」


 説教が再開されそうな雰囲気に桃香は慌てる。


 「大丈夫! 大丈夫だから!」


 首と手を振って激しく拒否する姿に、趙雲は頬が緩むのを我慢出来なかった。その表情につられて桃香も笑顔を見せた。


 「ありがとう、星ちゃん。私の事、だいぶ探し回ってくれたんでしょ?」


 趙雲が助けに現れたのはギリギリのタイミングだった。自分を見つけてくれるのが少しでも遅れていれば、どうなっていたか分からない。しかし、趙雲は予想外の答えをしれっと答えた。


 「いえ、そんな事はありませんぞ。桃香様の後をつけていましたからな」


 「……えっ? だって、星ちゃん寝てたでしょ?」


 趙雲の意外な言葉に桃香は一瞬言葉に詰まった。その表情も固まっている。


 「確かに眠っていましたが、部屋を出る桃香様の気配で目が覚めましてな。どこへ行くつもりかと、後をつけていたのですよ」


 趙雲は事も無げに答える。それを聞いて、だったら怒らなくてもよかったのに、と思ったが、それを言うとまた怒られるのが分かりきっていたので桃香は黙っていた。


 と、桃香はさっきの自分の行動を思い出した。ついてきていた、という事は見られていたのだろうか。恐る恐る尋ねてみる。


 「見ておりませぬよ。御遣い殿の名を呼び、幸せそうに体をくねらす姿など」


 きゃーっ、と叫んで桃香は自分の口を押さえる。時間は真夜中だ。そのままの体勢で恨めしそうに趙雲を見上げた。だが、主からのそんな視線にも趙雲はにやけたままだった。


 「さて、では行きましょうか」


 そう言って趙雲は歩き出す。だが、その足が向いているのは宿の方向ではない。桃香がその事を伝えても、


 「道すがら説明いたしましょう」


 と言って、足を止める事はしなかった。


 先程、桃香を襲撃した連中について、趙雲は予想を立てていた。


 後退する時の統率ある動き。劉備という名を聞いても微塵も怯む事のなかった気配。恐らくはどこかの兵士で、桃香様の御命だけを狙っていたのだろう。


 だとすれば、このまま宿に戻るのは危険な気がした。そこで彼女は水鏡女学院に匿ってもらう事にした。


 深夜に突然訪問したにもかかわらず、水鏡は2人を快く迎え入れてくれた。事情を聞くと大急ぎで寝所を用意してくれ、2人は安心して休む事が出来た。


 翌朝、趙雲は1人の生徒に使いを頼んだ。万が一に備え、新野城からの迎えを要請する文を届けてもらうためだった。






 「桃香様、何か心当たりはありませんか?」


 迎えに来た諸葛亮にそう尋ねられても、桃香には首を横に振る事しか出来なかった。元々桃香は他人から恨みを買う様な性格ではない。もっとも、乱世である事を考えれば、いつどこで恨みを買っていたとしてもおかしくはなかった。


 しかし、この件を分からない、で済ます訳にはいかない。何か変わった事はなかったか、食い下がる様に問い掛けた。すると、しばらく悩んだ後で、そういえば、と桃香は何かを思い出した素振りを見せた。


 「劉表さんに、自分の後を継いで荊州を治めて欲しい、って頼まれたけど……」


 それを聞いて、諸葛亮だけでなく趙雲と水鏡も目を剥いて驚いた。ただ1人、鈴々だけがよく分かっていない。3人の反応に、桃香は誤解されない様に言葉を繋げる。


 「もちろん断ったんだよ! 劉表さんには立派な世継ぎがいますから、って。そしたら……、結婚する気はないか、って言われて」


 頬を赤く染めて俯く桃香。それを聞いて、趙雲は桃香の奇行に合点がいった。


 「桃香お姉ちゃん、お嫁さんになるのか?」


 「お嫁さんになんかならないよ~」


 困った顔をする桃香とそれをみて笑う鈴々。そして、1人ニヤニヤする趙雲。だが、諸葛亮と水鏡の2人は真剣な表情を見せていた。お互いの視線がぶつかると、確かめ合う様に2人は頷く。どうやら同じ答えに辿り着いたらしい。


 和やかな雰囲気のところに、真面目な声音で諸葛亮の声が飛ぶ。


 「桃香様を襲ったのは、蔡夫人の一派で間違い無いでしょう」


 蔡夫人とは劉表の後妻である。その弟の蔡瑁は劉表軍の将軍で、軍事関係の最高責任者を務めていた。


 劉奇が前妻の子であるため、蔡夫人は実子の劉宗を劉表の後継者にしようと画策している。そんな話は、諸葛亮がまだ水鏡女学院にいた頃から囁かれていた。恐らくは、劉表の話が蔡夫人達の耳に入ったのだろう。


 「でも、私にそのつもりは無いのに……」


 「桃香様のお考えは彼等には関係無いんです。劉表様が桃香様に荊州を譲る考えを捨てない限り、彼等は桃香様の御命を狙い続けるでしょう。とりあえずの措置として、これから外出時には必ず鈴々ちゃんか星さんに護衛についてもらいます」


 その後もテキパキと指示を出していく諸葛亮。教え子の成長した姿に、水鏡は目を細めた。

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