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第3章-長安編・第11話~関羽千里行~

 曹操は皇帝を保護すると、そのまま本拠地である陳留へと戻った。李確等の時の轍を踏まないために、献帝を手元に囲うつもりだった。


 「報告は聞いているわ。ご苦労だったわね、秋蘭」


 濮陽において対袁紹の指揮を執っていた夏侯淵は、侵攻してきた袁紹軍を返り討ちにした。この勝利により、しばらく侵攻を止める事が出来たと判断した夏侯淵は、指揮を郭嘉に任せて許緒と共に報告のために陳留へと帰還していた。


 曹操が陳留へと戻った翌朝の事。玉座へと腰を下ろした彼女の下に、荀或が息を切らして駆け込んできた。


 「どうしたの、そんなに慌てて」


 曹操は手元の竹簡から一瞬だけ視線を上げ、すぐに戻す。荀或の言葉が来る前に、脇にいる夏侯淵に竹簡を指差しながら指示を出した。彼女は袁紹との争いが一段落している間に南の豫州へと領土を拡大させるつもりでおり、夏侯淵への指示はそれに関係するものだった。


 「た、大変です! 関羽が……、関羽が劉備の母親等と共に姿を消しました!」


 「な、何ですって!? 本当なの、桂花!?」


 寝耳に水、といった感じでひどく狼狽した曹操は、思わず大声で聞き返して玉座から立ち上がった。そんな彼女に、荀或は手にしていた竹簡を手渡すべく近付く。その際、関羽の部屋に、と短く付け加えた。


 竹簡を広げて視線を落とす。そこにはいかにも関羽らしい整った、しかし、力強い字が書かれていた。


 まずは、義母を保護してくれた事に対する曹操への礼。続いて、桃香の所在が判明した事。最後に、世話になったにもかかわらず、何も告げずに去る非礼を詫びる文章でまとめられていた。


 それを一読すると、竹簡を夏侯淵に渡してひざまずく荀或を見下ろす。一目で不機嫌と分かる顔だ。


 「……で、どういう事なのかしら?」


 関羽に関する事の全般は、荀或が責任者となっている。曹操が詰問するのは当然だった。


 「申し訳ありません。細心の注意を払い、出入りする者の選定まで行っていたのですが……」


 確かに荀或の言う通りだった。劉備の居場所に関しては重要機密として管理され、それを知る事の出来る人物から制限していた。さらには、関羽達の外出にも規制をかけていた。


 一体どうやって。そう考えた時、曹操はハッとした。可能性があるとすれば、長安に出兵していた時しかない。それならば、陳留に戻ってすぐ、という時期も納得がいく。


 「北郷一刀……!」


 ギリッと音がするほど強く歯軋りをし、忌々しそうにその名を口に出した。呟く様に小さな声だったため、荀或はそれに気が付かずに話を続ける。


 「すぐに追撃部隊を編成して……」


 「駄目よ!」


 荀或の言葉を曹操は声を荒げて遮る。あまりの剣幕に、言われた荀或だけでなく夏侯淵まで体をビクッとさせた。


 「忘れたの? 私は、劉備が見つかるまで、という約束で関羽を客将として召し抱えたのよ。その約束を反故にしろ、と? 貴方は私の名を穢すつもり?」


 「い、いえ……。申し訳ありませんでした」


 もちろん、荀或もそんなつもりだった訳では無い。ただ、曹操が名を取ったのに対し、荀或は実利を優先しようとさせたためだった。


 今現在、確かに劉備は劉表の客将に過ぎず、警戒する必要の無い相手である。しかし、血筋だけが取り柄の貧しい農家の娘だったにもかかわらず、州牧にまで成り上がったのだ。いつまた、どんなきっかけで浮上してくるか分からない。


 だからこそ、荀或は桃香の母親を逃したくはなかった。彼女を人質とし、劉備に対する抑止力としておきたかった。しかし、主である曹操はそれをよしとしなかったのだった。


 「うわっ! ……どうかしたんですか?」


 と、そこへ許緒がやって来た。何やら急いでいた様子であったが、その場の空気を感じてか、扉のところで二の足を踏んでいる。


 「……ああ、問題無い。どうしたのだ、季衣」


 夏侯淵はチラリと横目で曹操の顔色を窺う。未だ不機嫌そうな顔を崩さない主の様子に、彼女が代わりに答えた。許緒は何となく気になったものの、秋蘭様が言うなら大丈夫だろう、と曹操達の方へ数歩近付いた。


 「さっき、春蘭様が数人の兵を連れて凄い形相で出ていったんですけど、何かあったんですか?」


 許緒の話を聞いた3人は顔を見合わせた。3人が3人共、同じ考えだった。


 「秋蘭、急いで後を追いなさい! 春蘭にやらせては駄目よ!」


 はっ、と短く返事をし、夏侯淵は外へと駆け出した。ただならぬ雰囲気に、事情を知らない許緒だけがオロオロしていた。






 夏侯惇はわずか10騎の部下と共に関羽を追跡していた。この10騎、いずれも彼女の配下の中では馬術を得意としている者達である。輜重隊もいない今の状況での馬足はかなり速い。


 一方、関羽の方はというと、鳳統と桃香の母を乗せた馬車の存在により、夏侯惇の部隊に比べるとだいぶ速度は遅かった。彼女達はまだ日の高いうちに夏侯惇に捕捉された。


 どうするべきか、一瞬悩む。義母上達だけ先行させるか、と考えたが、それは自分の中ですぐに否定された。辺りは平坦な草原である。夏侯惇だけなら自分1人でも足止め出来よう。しかし、10人もの騎兵を1人で止められる訳が無い。ならば、2人を傍において自分が守るしかない。関羽はそう覚悟を決めた。


 足を止めた関羽達の周囲を夏侯惇の部下が囲う。その間から夏侯惇が進み出た。その顔には怒りがありありと出ている。


 「貴様、華琳様より恩を受けておきながら、どこへ行くつもりだ」


 「恩ならば、長安において返したはずだ」


 「あれしきの働きで返せるほど、華琳様より施された恩を軽いと思うな! 戻れ、関羽! 戻らねば……!」


 夏侯惇は背中の大剣に手を伸ばす。


 「戻らなければ……、どうだと言うのだ。こちらは、姉上が見つかるまで、という約定で客将となったのだ。それを今さら反故にしようとするのは、道理に反するのではないか? それでもなお我が行く手を阻むというのなら、こちらも容赦はせんぞ!」


 関羽も大喝し、馬の背に付けた偃月刀に手を掛けた。


 関羽は、まさか夏侯惇が独断で追跡して来たとは思っていなかった。曹操の命令で追って来たと思っていた。それが普通だからだ。だからこそ、これ以上のやり取りは無駄だと判断し、実力行使に出る覚悟を決めた。


 それを見て、夏侯惇はニヤリと笑う。


 彼女の心の中には葛藤があった。確かに関羽の実力は高い。このまま残れば華琳様の覇道の助けになる事は間違い無い。しかし、頭ではそうだと分かっていても、納得は出来なかった。


 彼女には曹操軍最強という自負がある。曹操の事を誰よりも愛している自信がある。そんな自分より、関羽の方が寵愛を受けるかもしれない。後から来た客将のくせに。華琳様を慕ってもいないくせに。そんな思いが夏侯惇にはあった。曹操の事を思うほど、嫉妬に身を焦がす事になった。


 だからこそ、彼女は笑った。戻る事を拒んだのだ。関羽を討つ事こそが華琳様のためになる。彼女の中から葛藤が消え、シンプルな結論に辿り着いた。


 「その首、置いていってもらうぞ!」


 夏侯惇は馬を寄せながら大剣を引き抜くと、そのまま関羽へと振り下ろす。関羽は偃月刀でその一撃を受け止め、両者の一騎討ちが始まった。


 お互いの得物を激しく打ち合う2人だが、わずかに夏侯惇が押し始める。目の前の相手にのみ集中すればいい夏侯惇と違い、関羽は周囲の兵にも意識を向けながらの戦いだ。


 鳳統達の護衛についている兵は、馬車を操っている者を含めても3人しかいない。相当に不利な状況だった。


 そんな散漫な状態で夏侯惇に勝てる訳が無い。強烈な突きを捌きそこなった関羽。バランスを崩した彼女に、夏侯惇は一気呵成に攻め掛かる。連続で重い斬撃を打ち込まれ、関羽は防戦一方になってしまった。


 こうなると、関羽にも周囲を警戒する余裕は無くなってくる。その隙を突き、夏侯惇の部下は鳳統達に襲い掛かる。護衛の兵も何とか抵抗しようとするが、数で負けている上に相手は精鋭揃い。3人の兵は容易く討たれてしまった。


 断末魔の叫びに関羽が気付いた時には、鳳統に向かって敵兵の1人が剣を振り上げたところだった。


 「雛里っ!」


 関羽の悲鳴に近い絶叫が飛ぶ。しかし、鳳統は恐怖で動く事が出来ない。今まさに自分の命を刈り取ろうとしているものを、怯えた瞳でただ見つめるだけだった。


 その時、何かが空気を切り裂いた。キンッ、という高い金属音が響き、兵士の振り上げていた剣が宙を舞う。その剣が落ちた隣には、1本の矢が転がっていた。


 「貴様は……!」


 そこにいる者の視線が一斉に矢の飛んできた方向に集まる。そこには馬に跨がった1人の女性の姿があった。


 「り、呂布……! なぜここに……!」


 一同が驚いた表情を見せても、恋にはまったく動じた様子が無い。普段通りの無表情で、ゆっくりと関羽の方に近付いていく。


 「……恋は、関羽に用がある」


 恋はボソッと呟く。彼女の登場ですっかり戦場の時間は止まっており、関羽はいつの間にか夏侯惇の間合いから抜けていた。


 『私に用、だと?』


 関羽は怪訝そうな顔をする。それはそうだ。彼女はかつて、恋に殺されかけているのだ。首筋が疼くのを感じ、体は自然と強張った。


 身構えた関羽が何かを尋ねるより先に、夏侯惇が2人の間に割って入る。


 「貴様の用など知らん! 呂布、この傷、忘れたわけではあるまいな!」


 夏侯惇は失った左目を隠す眼帯を指差す。それに対し、恋は覚えていないのか、小首を傾げたままで動きが止まった。誰も何も言わないまま1分が経ち2分が経ち、いよいよ夏侯惇が痺れを切らしかけたところで、ようやく恋は口を開いた。


 「……蝶々、可愛い」


 この一言に、夏侯惇はキレた。


 「貴様ぁ!」


 大気を震わす雄叫びと共に、怒りを込めた大剣が恋へと迫った。まるで、血管の切れる音が聞こえてくるかの様な激昂ぶりに、彼女の部下すら竦み上がる。しかし、恋は顔色を全く変えず、戟を片手で操ってそれを受け止めた。


 「……褒めたのに、何で怒ってる?」


 「ふっ、ふざけるなっ!」


 不思議そうな呂布の言葉に、夏侯惇はさらに怒りをたぎらせた。


 彼女の着けている蝶を模した眼帯は、かつて虎牢関で恋に射抜かれた左目を隠すための物だ。それを張本人である恋に、可愛い、などと言われれば、馬鹿にされていると考えるのは当然だった。例え恋には全くその気が無くても、だ。


 「恋の邪魔をするなら……!」


 わずかに恋の眉間にシワが寄る。両手で方天画戟を構えると、周囲の空気が冷たくなった。その威圧感に負けない様、夏侯惇も七星餓狼を両手で握り直した。両者はジリジリと距離を詰めていく。


 「姉者、待てーっ!」


 そんな緊張感が極限まで高まったところへ、馬に乗った1人の女性が駆け込んだ。ようやく追い付いた夏侯淵だ。


 「いいところに来た。私が呂布をやるから、秋蘭は関羽を止めろ」


 妹を一瞥した後、夏侯惇は呂布に正対し直す。しかし、夏侯淵にはその指示に従う事は出来なかった。


 「待て、と言っているんだ、姉者。華琳様の御命令だ、兵を退いてくれ」


 「し、しかし……」


 妹の言葉に夏侯惇は抗おうとする。その気持ちは夏侯淵にはよく分かった。双子の姉妹だ。姉の事は誰よりも、それこそ主である曹操よりも理解している自負があった。それでも、これ以上姉の暴走を許す訳にはいかなかった。


 「華琳様は関羽と、劉備が見つかるまで、と約束をされているのだ。にもかかわらず、姉者が関羽を追撃すれば、華琳様の名を穢す事になってしまうぞ?」


 同じ事は先程関羽にも言われている。しかし、頭から敵と決め付けている相手と自分の妹では、同じ事を言われても受け取り方が違う。その上、曹操の名を穢す、とまで言われれば、夏侯惇には剣を収める他無かった。


 渋々退いた夏侯惇の姿に、呂布も構えを解いた。それを見て、夏侯淵は2人から関羽の方へと向き直る。


 「姉者の独断とはいえ、すまない事をした」


 「いや、こちらこそ急いでいたとはいえ、曹操殿に一言も無しに発ったのは礼を欠いていた。申し訳無い」


 2人は互いに頭を下げ合う。そうしてから、夏侯淵は腰に下げていた袋を関羽に突き出した。


 「華琳様から。2人が仕えていた間の給金だそうだ」


 恐らくは、夏侯惇の事も含めて貸し借りを無しにしたい、という事なのだろう。だから、関羽は気兼ね無く受け取った。さっき口に出した様に、彼女にも後ろめたいところがある。それも含めて無しに出来るからだ。乗らない手は無かった。


 「礼を欠いたにもかかわらずこの様な心遣い、曹操殿に感謝していると伝えていただけるか?」


 「ああ、確かに伝えよう。……姉者、戻ろう」


 夏侯姉妹は兵をまとめて陳留へと戻っていった。その様子を見て、関羽は軽くため息を吐いた。だが、まだ安心は出来ない。


 「……呂布、私に用とは何だ?」


 関羽は偃月刀を手にしたまま、警戒は緩めていない。


 「……張飛と約束した」


 「約束? 張飛と、か? それは一体……」


 さらに尋ねようとしたところで、獣の唸り声の様な低く大きな音が辺りに響いた。周囲を見回すが、唸り声を出しそうな獣の姿は関羽の瞳には映らない。首を捻りながら視線を戻す。すると、わずかに切なそうな顔をした呂布が腹を押さえている。


 「……お腹空いた」


 呟かれたその言葉に、関羽の緊張は一気に失われた。






 「ちゃんと聞くのです!」


 音々音の怒鳴り声にハッとしたのは関羽だけではなかった。鳳統と桃香の母も呆けていた。


 恋の大きな腹の虫の鳴き声を聞いた関羽は、朝から何も食べていない自分達も空腹である事に気が付いた。そこで、近くを流れていた小川のほとりで食事を取る事にした。そんな状況で彼女達が何に呆けていたのかといえば、恋の食事の仕草だった。


 まるで、リスが頬袋一杯に食物を詰め込む様な食べ方をする恋の姿は、とても飛将軍と呼ばれる武人とは思えない。彼女を中心に、小動物を愛でるかの様な癒しの空間が出来上がっていた。そのお陰で、音々音の言葉の半分も届いていなかった。


 関羽はわざとらしく咳払いをし、恋が視界に入らない様に座り直す。


 「すまない、もう一度話してもらってもいいか?」


 まったく、と文句を言いながら、音々音は再度口を開いた。


 虎牢関で鈴々と戦った後、恋は再戦を約束していた。その約束を果たすため、春に涼州を発ち、徐州まで旅をしたのだ。しかし、2人が徐州に着いた時、すでにそこは袁術の手に落ちていた。


 しばらくは徐州にとどまり情報を集めていたものの、悪政のために人の出入りがほとんど無く、外からの情報は全くと言っていい程に入ってこなかった。そこで、一旦涼州に戻ろうという事になった。その途中、関羽らしき人物が陳留にいる事を聞いて進路を変更したところ、偶然出会う事が出来たのだった。


 「なので、張飛の居場所を知っているのなら、ねね達に教えて欲しいのです」


 そう言われて関羽は悩む。恐らくは桃香様と一緒にいるのだろうが、果たして会わせてよいのか、と。


 「呂布よ、あくまで武人としての勝負、なのだな? 殺し合いをするのが目的ではないのだな?」


 関羽の問いに、焼いた魚にかじりついていた恋の動きが止まる。関羽を真っ直ぐに見ると、恋は魚から口を離した。


 「……別に、張飛の事、嫌いじゃない。……強いし、面白い」


 それだけ言うと、再び魚を頬張り始めた。その姿に邪気は感じられない。助けてもらった恩もあり、関羽は2人を荊州まで連れていく事に決めた。






 ハァ~、と大きなため息が1つ。武威の城壁の上には翠の姿があった。


 彼女は直前まで鍛練に使っていた槍を壁に立て掛けた。そして、もう1つため息を吐く。一刀の顔がちらつき、鍛練にも全く身が入っていなかった。ふと、蒲公英の言葉が甦る。


 「やっぱりあたし、一刀の事が……」


 好きなのか、とは、例え独り言とはいえ、恥ずかしくて口に出す事は出来なかった。でも何であいつの事を、と自問自答する。あたしより弱いのに。


 翠が5つか6つの頃。彼女の父がまだ存命だった頃の事だ。翠は琥珀に、なぜ父様と結婚したの、と聞いた事があった。私より強かったから、という母の答えは翠の心に深く刻まれる事になった。母に対して強い憧れを抱いていた翠は、自分もいつか自分より強い男と結婚する、と、その時自然と考えていた。


 しかし、母から武の才を色濃く受け継いだ翠。同年代では男女問わず、彼女に勝てるものはいなかった。唯一それが出来たのは恋だけだ。


 そんな訳で、翠は今まで異性を好きになった事が無かった。一刀も条件から漏れているはずなのだ。なのに、彼の事が気になっている自分に戸惑う。


 「あーっ、もうっ!」


 モヤモヤを吹き飛ばそうと叫んでみるが効果は無い。


 誰かに相談してみようか、と思って愕然とする。相手が全くいない。


 すぐに候補から外れたのは蒲公英と霞だった。2人に知られれば、3日と経たずに街中に、しかも尾ひれを付けて言い触らされるのは目に見えている。


 次に外れたのは鷹那と清夜だ。清夜はともかく、鷹那とは小さい頃から一緒にいるが、彼女の側に男性がいた記憶は無い。清夜も同じ様なものだろう。当てには出来ない。


 それに、長安での蒲公英の話を思い出すと、月に相談するのは憚られた。その親友である詠も同じだ。


 となると、彼女が相談出来る人物は1人しか残っていなかった。


 「……母様、か」


 「なぁに?」


 「ひゃあっ!」


 いきなり背中から声を掛けられ、翠は思わず飛び上がってしまった。バクバクいう心臓を押さえながら振り向けば、そこには翠以上に驚いた様子の琥珀が立っていた。


 「な、何なのよ、貴方は。人の事を呼んだかと思えば、いきなりすっとんきょうな声を上げて」


 「ご、ごめん、母様」


 よほど考え事に集中していたらしい。彼女にしては珍しく、琥珀の気配を感じる事が出来なかった。当然、母親である琥珀は娘の様子がおかしいと気付く。


 「で、何の用なの?」


 「へっ?」


 「へっ、じゃないわよ。用があるから私を呼んだんじゃないの?」


 少し怪訝そうな目で見られ、とっさに翠は慌ててしまった。母様に相談しようか、とは思ったが、まだ決心はついていない。


 「な、何でも無い何でも無い。母様に相談なんか無いから」


 「あら、私に相談? 珍しいわね。いいわよ、何でも聞いてあげるから」


 娘からの相談など久しぶりで、思わず琥珀は嬉しくなった。だが、翠の方はといえば、バレた事にドキッとしていた。自分が口を滑らしたのも気付いていない。だから、誤魔化そうとしてさらに傷口を広げてしまう。


 「相談なんか無いって言ってるだろ! 大体、あたしに一刀の事で相談なんか、ある訳無いじゃないか!」


 「一刀君の事?」


 琥珀がニヤリと笑うと、翠はさらに泡を食った。顔を真っ赤にさせワタワタと手を振る。必死に否定しようとするが、なかなか言葉が出てこない。


 「いいのよ、恥ずかしがらなくても。母様に話してみなさい」


 両手を広げて翠へとゆっくり近付いていく琥珀。私の胸に飛び込んできなさい、とでも言わんばかりだ。1歩、また1歩と距離を詰められ、翠もジリジリと後退る。


 その背が壁面に触れた。もはや逃げ場は無い。琥珀の目が妖しく光った気がした。


 「……だから、何でも無いって言ってるだろーっ!」


 翠は街中に聞こえる様な大声で叫び、琥珀を突き飛ばして逃げ出した。


 「まったく……」


 たたらを踏んだ琥珀は物凄い速さで小さくなっていく娘を見ながら、ため息混じりにそう呟いた。その顔には呆れた様な、それでいて、どこか嬉しそうな微笑みが浮かんでいた。






 琥珀から逃げ出した翠は、そのまま城壁の上をぐるりと反対側まで駆け抜けた。壁に背中を預け、乱れた呼吸を整える。


 せっかく母様から話を切り出してくれたんだから、言ってしまえばよかったかな。そんな事を考えてかぶりを振った。


 あの目は面白がっている時の目だ。あの目の時に相談なんかしてもろくな目にあわない。きっとあたしの気持ちを一刀に伝えてしまう。もしそうなったら、あいつはどう思うだろう。


 そこまで思いが巡り、翠はハッとした。一刀はあたしの事をどう思っているのか。翠は一気に熱が冷めていくのを感じた。


 「……そうだよな。こんな男みたいな女の事……」


 好きになる訳無い、とは怖くて口に出せなかった。


 ふと、激しい鼓動を繰り返していた胸に当てた右手が目に入った。右手をギュッと握り、それを覆う様に左手を被せる。そのままストンと尻をついた。


 小さい頃から鍛練に明け暮れてきた彼女の掌は、マメができては潰れを何度も繰り返し、かなりゴツゴツしている。小さな傷だらけの指はだいぶ節くれだっている。すっかり母と同じ手になっていた。子供の頃に握った母の手を目標に頑張ってきた成果だ。


 しかし、ついさっきまで誇らしかったこの手が、今はとても恥ずかしい。月の細くて小さな手を思い出すと、他人に、一刀に自分の手を見せたくなかった。


 そう考える事は、大好きな母を辱しめる事の様な気がして、翠は自分が少し嫌いになった。

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