第3章-長安編・第10話~旧都長安~
「……ご無事ですか、華琳様」
琥珀が立ち去った後、我を取り戻した夏侯惇が気遣う。彼女の息はまだ荒いままだ。
「……ええ。直接手を出された訳では無いし、問題は無いわ。……それにしても、馬騰に北郷。考えていたよりも危険ね」
呟く様に言いながら、でも、と頭の中で続けた。
大事な物に手を出したら無事に帰さない、という事は、言外にこちらからは仕掛けない、と言ったのだ。ならば今は放置しておけばいいわね。献帝を受け入れ、麗羽との戦いに決着がつくまでは。
その辺りまで考えが巡った時には、激しく上下していた彼女の肩も落ち着きつつあった。
一刀は未だにじんじんと痛む後頭部を擦りながら歩いていた。大きなたんこぶになっているのが触っただけではっきりと分かる。以前翠が言っていた、母様の拳骨は鉄鞭よりも痛い、という言葉が思い出された。
何を大袈裟な。その話を聞いた時にはそう思ったが、実際殴られてみるとあながち嘘ではない様に思えてしまう。目から火が出る、という表現ですら生ぬるい気がしていた。
そんな一刀を見つめる少女の姿があった。その少女――翠は黙ったまま一刀を目で追い、彼が視界から消えるのを見送った。
「はぁ~……」
大きなため息を吐き、その場にしゃがみ込む。
何やってんだ、あたし。
この言葉を、ここ最近何べん思っただろう。気が付くと彼女の視線の先には一刀がいる。もちろん、彼がそうなる様に動いている訳では無い。無意識のうちに翠の目が一刀を捉えてしまうのだ。その事に気付く度に視線を外そうとするのだが、その都度彼を余計に意識してしまう。彼女は知らない不安感に襲われ、時には訳の分からない高揚感に包まれた。
だが、彼女は経験した事が無いだけで、それが何であるかは朧気に分かっていた。ただ、それを認めたくなかった。
「何してるの、お姉様?」
しゃがみ込んでいる翠の背中から声が掛けられた。呼ばれ方と声で蒲公英だと分かり、何でもない、とだけ振り返りもせずに答える。
「何でもない訳無いじゃん。じゃあ、たんぽぽが答えてあげよっか? ……ズバリ、恋患い!」
ドキリと翠の心臓が跳ね、それに合わせ彼女自身も跳ねる様に立ち上がる。真っ赤な顔で振り返った。
「な、何言ってんだ、たんぽぽ! あた、あたしが一刀の事を、すっ、すっ、好き、だなんて、そんな事ある訳無いだろ!」
動揺しているのが誰にでも分かる程の激しい吃り方だった。さらに、自分で言った言葉に益々顔を赤くする。
そんな従姉妹の様子を見て、蒲公英は口元を押さえながら笑った。
「たんぽぽ、一刀さんの事だなんて一言も言ってないよ? ニヒッ」
嵌められた、と分かった時にはすでに遅かった。耳だけでなく、その滑らかな首まで真っ赤になる。こんな状態では、いくら凄んで睨み付けられたところで怖くなかった。
「素直に一刀さんが好きだ、って認めちゃえばいいのに。じゃないと、誰かに取られちゃってもたんぽぽ知らないよ」
「だ、だから、あたしは……。おい、たんぽぽ。取られる、ってどういう事だ?」
「えっ? そのままの意味だよ?」
だが、翠はいまいちピンとこないらしい。納得のいかない顔をしている。
「だから、お姉様以外にも一刀さんの事を好きな人がいるんだってば」
「へ、へ~……、そうなのか……。で、誰なんだよ、そんな物好きは」
必死に興味が無い風を装っている様が、蒲公英には可愛らしく見えた。
「えっとねぇ、まずはたんぽぽでしょ。それから、月ちゃん。あと、詠ちゃんは……、どうなんだろ?」
指折り数える蒲公英。彼女が名前を挙げる度に翠は、なっ、とか、えっ、とか声を出し、驚きを露にする。その様子が可笑しくて、蒲公英の中に悪戯心がムクムクと沸き上がっていく。
「霞さんやお清さんもそうだし、鷹ねぇもそうでしょ。あとは、叔母様」
「か、母様まで!?」
驚愕した表情を見せた翠はがっくりとうなだれる。微塵も疑う様子を見せない彼女の反応に、ついに蒲公英は笑いを堪え切れなくなった。声を上げて笑う蒲公英を見て、翠は自分がからかわれている事を悟った。
「た~ん~ぽ~ぽ~?」
笑いの止まらない蒲公英の脳天に、怒りに震えた翠の拳骨が落ちた。いった~い、と文句を言う蒲公英を残し、翠は肩を怒らせて足音高く去ってしまう。
「からかい過ぎちゃったかな~」
翠の背中を見送りながら、蒲公英はそううそぶいた。
初めて訪れる長安の街中を関羽と鳳統は連れ立って歩いていた。寂れたとはいえ、以前はこの国の首都だった都市である。いつか桃香様の下へ戻った時、この見聞が政に役立つかもしれない。2人にはそんな思いがあった。
不意に関羽の足が止まる。その後ろをキョロキョロしながら歩いていた鳳統は気付くのが遅れ、そのまま関羽の背中にぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい」
気の弱い少女は反射的に謝る。しかし、関羽は何の反応も返さなかった。どうしたのか、と横から見上げてみれば、関羽はある一点を見つめていた。その視線の先に目を遣ると、白く輝く服を身に纏った青年、つまりは一刀の姿があった。
鳳統は関羽へと視線を戻す。彼女には、一刀の事を睨んでいる様に見えた。
「愛紗さん……?」
鳳統はその小さな手で関羽の手を握る。そこでようやく気付いたのか、ハッとした表情でしばらく鳳統を見下ろした。
「……すまない。では、行くか」
顔を上げて再び歩き出そうとするが、鳳統がその手を引っ張る。
「愛紗さん、北郷さんと話してみなくてもいいんですか? もしかしたら、桃香様の行方を知っているかもしれませんけど……」
関羽はドキリとした。心の内を見透かされたか、と思ったためだ。実際には違っていた事に安堵したものの、自分で思ってもみない程に動揺していた。取り敢えず、そうだな、と考えている様な返事をして間を取り、心に平静さを取り戻す。
「……しかし、涼州といえば僻地だぞ。曹操殿がつかんでいない情報を、あの男が知っているとは思えんが?」
暗に田舎だから、と言った訳では無い。徐州と涼州とでは大陸の東と西。州を接しているエン州とでは距離が違う。距離が開けば情報は入りにくくなるのは当然だった。
だが、気弱な鳳統が珍しく引かなかった。
「確かにそうかもしれません。でも、私達には桃香様の足跡すらつかめていないんです。例えわずかでも情報があれば、そこから推論する事も可能になります。それに……」
鳳統の声のトーンが下がる。
「……曹操さんが情報を隠している可能性は否定出来ませんから」
鳳統の邪推は、しかし当たっていた。
関羽達が客将になる事を了承した日から10日と経たないうちに、曹操は桃香の居場所を突き止めていた。早速彼女はこの件に関して箝口令を敷く。重要機密扱いとなり、この事を知っているのは3軍師と夏侯淵だけ。腹心である夏侯惇にも知らせない徹底ぶりだった。さらには、関羽達が城外へ出る事も禁止する。こうして、曹操は彼女達が情報を得る機会そのものを潰していった。
鳳統が自分の意見を押し通そうとしたのはこのためだった。せっかく巡ってきたこの機会に、自分の耳目で情報を集めたかったのだ。
「さっき、愛紗さんがにらんでいたのも分かります。北郷さんに嫌悪感を抱いているのも。ですが、今は……」
そう見えていたのか。本心が面に出ていなかった事に安堵すると共に、にらんでいたと言われた事に軽い衝撃を受けた関羽だった。
一方、一刀は悶々としながら歩いていた。頭の中をグルグルと回っているのは、もちろんさっきの曹操とのやり取りだった。
あの時曹操が纏っていた空気は、今までに一刀が感じた事の無い物だった。殺気とは明らかに違う空気と彼女が大鎌を構えた事に恐怖し、思わず刀に手を掛けてしまった。もしあの場に琥珀が現れなければ、確実に抜いていた。そして、曹操とは分からないが、間違い無く夏侯惇には斬られていただろう。考えてゾッとした。
それにもう1つ、曹操との口論も問題だった。これが原因で、琥珀と曹操の仲が険悪なものになってしまうのではないか。せっかく手柄を放棄してまで曹操と良好な関係を築こうとしていたのに、自分の軽率な行動で全てをふいにしてしまったのではないか。彼は猛烈に後悔していた。
しかし、曹操に対して暴言を吐いた事を謝罪する気は起きなかった。覆水盆に帰らず、の言葉通り、1度口から出た文言が消える訳では無い。例え曹操が謝罪を受け入れたとしても、言った事実は残るのだ。
それに、謝罪をしてしまえば、曹操の言葉を認める事になる様な気がしていた。自分の恩人を、自分の大切な人達を、くだらないと切って捨てた。それだけは、どうしても許せなかった。
つまり、一刀は自分が悪いとは思っていないのだ。間違った事を言ったつもりもない。その状態で謝罪をしたところで、所詮はうわべだけだ。うわべだけの謝罪ならいっそ謝らない方がいい。剣の師でもあった祖父の言葉が思い出された。
「北郷殿」
後ろから不意に声を掛けられた一刀は足を止め、誰だろうと振り返った。そこには長い黒髪の美少女と、その影に隠れる様にして彼を窺う女の子の姿があった。関羽と鳳統だ。
「……久しぶりだね」
自分自身、非常に渋い表情をしているのが分かり、努めて笑顔を作った。その笑みが関羽に虎牢関での事を思い出させる。激しい動揺を呼び、次の言葉を紡げない。結局、会話を繋げたのは声を掛けられた側である一刀だった。
「徐州では大変だったみたいだね」
「……いや。我々が不甲斐無いばかりに、桃香様や領民を苦しめる結果になってしまった。まったく情けない限りだ」
徐州という言葉に、関羽はさすがに落ち着きを取り戻し、沈痛な面持ちで噛み締める様に語った。話題を間違った事に気付き、一刀は矢継ぎ早に続けていく。
「でも、2人が元気そうでよかったよ。そういえば、どうして曹操のところに?」
焦っていたせいか、聞きたいと思っていた事が思わず口からこぼれてしまった。
一刀の知る歴史でも劉備が徐州を追われた後、関羽は曹操の下にいた事がある。それは劉備の妻を守るためだった。しかし、桃香は女性だ。どういう理由があってここにいるのか、興味があった。
「私達が徐州から脱出した時、桃香様の母上を護衛していた。その後、体調を崩されたところを曹操殿に助けていただいたのだ」
なるほど、と思った。
「じゃあ、その恩を返すために曹操のところに?」
「ああ。桃香様の所在が分かるまで、という条件で客将として世話になっている。北郷殿は桃香様について、何か聞いてはいないだろうか」
ようやく本題まで辿り着いた。取り敢えずホッとして一刀の顔を見ると、彼は少し不思議な顔をしていた。
「……桃香の居場所なら、斥候から報告を受けてるけど」
「ほ、本当か!?」
関羽は一刀にズイと顔を近付ける。その迫力とあまりの顔の近さに圧され、思わず後ずさってしまった。だが、彼女はそんな一刀の心などお構い無しだ。まるで糸で引かれているかの様に一定の距離で付いていく。
両者の間はわずか数センチ。関羽が歩を進める度、彼女の長く艶やかな黒髪が揺れて一刀の鼻腔をくすぐる。そんな状況の中、関羽は期待と懇願の混じった瞳で一刀を真っ直ぐに見つめているのだ。彼の方が気恥ずかしさに耐え切れなくなり、視線を外してしまった。
「あ、あのさ、関羽? その……、近いんだけど……」
「……えっ?」
言われてやっと気付いた。お互いの吐息がかかるくらいの距離に顔がある事に。
「も、申し訳無い!」
叫ぶ様に謝ると、大きく後ろに飛びずさる。彼女は顔を真っ赤にさせてうつむいてしまった。ゆっくりと一刀を窺う様に顔を上げ、目が合うと妙に意識して視線を逸らせてしまう。その様子を鳳統も頬を赤く染めながら見ていた。
「……で、桃香の居場所なんだけど」
「あ、……ゴホン」
一刀が声を掛けると、関羽はばつが悪そうに咳払いをして姿勢を直した。
「桃香は荊州の牧、劉表さんのところに客将として迎えられてる。そこで、新野城って城を任されているらしい」
「荊州!? それは、間違いないのか!?」
関羽は再び近付こうとして思い止まった。さすがにさっきの今で取り乱す事は無かった。
「俺が武威を発つ前に聞いた情報だけど、今も荊州にいるのは間違い無い」
一刀は言い切った。その目には自信が満ちている。関羽もそれを感じ取ったのだろう。深々と頭を下げた。
「感謝する、北郷殿。この恩は、いつか必ず……」
「気にしなくていいさ。それより、無事に会える事を祈ってるよ」
首を横に振る一刀に対し、関羽はわずかに微笑んだ。しかし、すぐに表情を引き締め直して踵を返す。
「行くぞ、雛里」
呼ばれた鳳統もペコリと頭を下げ、一刀に背を向けた。
「あっ、待って、鳳統」
一刀が背中から呼び止めると、少女の体はビクンと跳ねた。足を止め、恐る恐る振り返る。その顔は今にも泣き出しそうだ。
そんな鳳統に一刀はゆっくりと近付き、そっと耳打ちした。彼女が、えっ、と彼を見上げたのと、関羽が再度彼女の真名を呼んだのは同時だった。要領を得ない様子の鳳統だったが、もう1度お辞儀をして今度こそ関羽の後を追い掛けた。
その日の夜、曹操から酒を振る舞われた馬騰軍。将も兵も皆盛り上がっている。そんな中、その輪を離れて1人酒を飲む琥珀へと一刀は近付いた。昼間の事が申し訳無く、一刀は言葉が出てこない。
「どうしたの?」
背中越しに声が飛ぶ。そうしながら自分の座る左側を叩き、そこに腰を下ろせと伝えた。促された通りに土の上に座ると、一刀は琥珀の顔色を横目で窺った。
飲む前からそうだったが、怒っている様子は無い。だからといって、昼間の事を放っておく訳にはいかなかった。
「すみませんでした。昼間はついカッとなり、琥珀さんに迷惑をかけてしまって……」
「まったくよ。貴方は翠達の暴走を止める立場なのよ? それが、曹操と口論した挙句、刃傷沙汰に及ぼうだなんて……」
琥珀は杯を空けると、手酌で酒を注ぐ。うなだれる一刀だったが、そのせいで琥珀の表情に気付かなかった。呆れた風な言葉とは裏腹に、彼女は思い出す様にして笑っていた。
「でもね、貴方があそこで怒ってくれなければ、もっと大事になっていたかも知れないわ」
とっくりを置いて空いた左手で一刀の頭を撫でる。小さい子に対してする様な行為に恥ずかしさが込み上げてくるものの、彼はそれを嫌がる事無く受け入れていた。何だか懐かしい気持ちになる。
「……ありがとう」
一刀の口からは自然とその言葉が漏れていた。
翌日、琥珀と一刀、翠の3人は曹操の仲介で皇帝に謁見する事になった。しかし、一刀は出来る事なら行きたくはなかった。そこに曹操の思惑が透けていたからだ。
今でこそ鳴りを潜めたが、一刀がこの世界に来た当初、天の御遣いの噂話は、彼が救世主であるかの様な内容で国中に広まっていた。豪族や地方領主はともかく、漢王朝の中心に近い位置にいる者がそれを快く思っているはずがない。にもかかわらず、曹操が一刀を帝に目通りさせようとするのは、彼女が皇帝一派に対して重圧をかけるために他ならなかった。そうする事で、最初からお互いの力関係をはっきりさせてしまうつもりなのだ。
しかし、前日の事があるために一刀も拒む事が出来ず、結局は曹操に従わざるを得なかった。