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第3章-長安編・第9話~西涼の狼~

 後退していく李確軍が視界から消えた後、一刀は隊の者に構えを解く様指示を出した。自身も太刀を鞘に収め、ふうっ、と息を吐く。ようやく安堵した。


 大きな問題も無く済んでよかった。一刀が特に心配していたのは、馬鎧を装備されていないか、という事だった。


 馬鎧とは、字の通り馬に装備する鎧の事だ。重量が増加するため機動力は低下するものの、特に矢に対する防御力が大きく上昇する。それは弓より高い威力を誇る弩に対しても同じで、有効射程距離は半分以下になってしまう。


 当然そこまで近付かれてしまえば、三段撃ちをやったところで押し切られてしまう。なので、その場合用に詠から別の作戦も預かっていたが、ここまで被害を抑えて勝つ事は出来なかっただろう。


 「上出来だったわ」


 「ほんと凄かったよ、一刀さん」


 戻ってきた琥珀と蒲公英が馬上から彼を褒めた。


 「そんな……。今回は、ここまで見事に敵を誘導してくれた2人のお陰ですから」


 謙遜ではなかった。予定通りに敵を誘い込めた時点で、9割方勝利は決まっていたからだ。


 その言葉に気をよくした蒲公英が、調子に乗って長安で土産を買ってくれるよう、一刀にせがむ。苦笑いを浮かべながら曖昧に返事をする一刀に、琥珀から助け船が出された。


 「まだ、戦は終わっていないのよ。一刀君は予定通り、長安に向かいなさい。こちらは翠達を援護してから行くから」


 はい、と返事をした一刀は、森の中に繋いでいた麒麟の方へと歩き出した。背中から蒲公英が何事かぶつぶつ呟く声が聞こえたが、振り返らずに森へと入る。麒麟の手綱を引き道へと戻った時には、すでに琥珀達の姿は小さくなっていた。






 琥珀達が森から出た時には、すでに李確の首が撥ね飛ばされていた。2人の方へ馬を近付け、ご苦労様、と声をかけた。


 「すんません、わがままを聞いてもろて……」


 琥珀を見るなり礼を言う霞に向かい、彼女は柔らかく微笑んで首を横に振った。霞の手に握られている偃月刀の穂先に刺さる物を見れば、彼女の本懐が遂げられたのが分かる。


 「じゃあ、霞とたんぽぽは投降した兵の処置を。翠は私と共に長安へ先行。いいわね?」


 投降した兵の中には、元々董卓軍に所属していた者も少なくない。彼らの心情を慮り、琥珀は元上官である霞を残す事にした。






 李確が自ら兵を率いて打って出た、と報告を受けた曹操は、行軍速度を上げて一気に潼関を突破した。長安の東に陣を張り、最終的な作戦の打ち合わせに入る。夏侯惇に李典、関羽達の集まった天幕で軍議が始まろうとしたその時、斥候からの報告が飛び込んできた。内容は、馬騰軍が西門に取り付いた、というものだった。


 この展開は曹操にとって予想外だった。まさか、迎撃に出た李確をここまで早く撃退し、逆に城門に迫るなど思ってもみなかったのだ。


 こうなると、彼女達の取る作戦も変わってくる。曹操と李典が東門を、夏侯惇が北門を、関羽と鳳統が南門をそれぞれ攻める予定だった。だが、西門を馬騰軍が押さえているこの状況では、四方を完全に塞ぐ事になってしまう。相手をわざわざ死地に追い込んでやる事になるのだ。


 死地に追い込まれた軍を相手にすれば、自軍の被害が大きくなる。曹操は夏侯惇に作戦の変更を伝えた。






 弩兵隊から離れた一刀は、本隊とは違うルートで長安へと向かう別動隊と合流した。大きな荷物を引いた馬車が数台と、兵が約千人。一刀はその先頭に立ち、長安へと急いだ。


 彼等が目的地に着いた時、琥珀と翠は先に到着していた。西門の前に陣を敷いてはいたものの、城攻めにかかる気配は無い。彼女達は一刀の到着を待っていたのだ。


 「すいません、遅くなりました。すぐ準備します」


 馬の背から下りた一刀は、一旦琥珀に謝ってから別動隊の方へ向き直った。彼が指示を出すと、兵達は荷車から幌を剥がす。そこには大小様々な大きさの木材が大量に積まれていた。


 それらを次々に荷車から下ろし、まるで大きな模型を組み立てるかの様に木材同士を組み合わせ、何かを形作っていく。散々訓練を重ねてきたお陰で、その動きには淀みが無い。


 「さすがによく訓練されてるわね」


 てきぱきと動く一刀とその部下を見ながら、琥珀は呟く様に言った。隣にいる翠の耳にはその声が届いたはずだが、何の返事も無い。ふとそちらを見てみれば、翠は少し惚けた顔で一刀を目で追っている。琥珀は嬉しそうに微笑むと、自分も一刀へと視線を戻した。


 そうしているうちに、そこには木製の機械が5機、姿を現した。それは一刀が知識を絞り出して開発した攻城兵器、巨大弩砲バリスタだった。


 基本的には弩をそのまま大きくした作りになっている。ただし、それでは威力が足りないため、弾性に富む動物の腱や板バネを使って強化してあった。


 弦を引くにはウインチを使って巻き上げる。これにより、弩とは違い威力の強弱がつけられる様になった。さらに、発射角度も数段階に調節が可能になっており、この2つを組み合わせる事で高い命中率を誇っていた。


 「準備完了しました。いつでもいけます」


 一刀の報告を聞いた琥珀は1つ頷き、長安の城壁へと向き直った。


 「任せるわ。しっかりとやってみせなさい」


 そう言った琥珀の顔は、普段見せる母親の様な柔らかいものではない。武人としての険しい顔に、一刀も気を引き締め直した。彼は巨大弩砲を中心とした工兵隊へと再び向き直る。


 「では、これより長安城城壁に対し砲撃を行う! 布幔車を前に出せ!」


 巨大弩砲の間から、大きな布を吊り下げた4輪の車が進み出る。


 布幔とは、麻縄を編んで作った弓矢に対する巨大な盾の事である。攻城兵器を操作する兵や城壁にとりつく味方を、守兵の放つ矢から守るための物だ。


 巨大弩砲の射程距離は、弾の種類にもよるが、長くても150メートル程度。城壁の上から弩を放てば十分に届く距離だ。そのため、布幔による防御は必須だった。


 布幔車の後を巨大弩砲が続く。一刀にとってこの状況で一番やられたくないのは、攻城兵器の破壊を目的に城から打って出られる事だった。しかし、後方から琥珀率いる涼州兵が睨みを利かせている状況で、郭氾軍の中にその選択が出来る者はいなかった。


 城壁の上から放たれる矢は、布幔に遮られて巨大弩砲にまでは届かない。焦って数を増やしてみても結果は同じだ。


 「よし、全台停止。まずは1番弾を使う!」


 予定の位置まで前進すると、今度は攻撃準備に入る。巨大弩砲の後ろから、屈強な兵が数人がかりで巨大な矢を運ぶ。切り出した丸太を形成して矢羽根を取り付け、先端に金属板を貼って補強した物だ。それを台座に乗せ、ウインチを巻き上げて弦を引く。その後、発射角度を調節して全台の砲撃準備が整った。


 一刀は城壁の方に振り返った。城壁の上では、守備兵が先程から変わらず矢を放っている。一刀は一旦瞳を閉じ、気持ちを落ち着かせた。


 「……巨大弩砲、全台発射!」


 一刀の号令を受け、5本の巨大な矢が空に向かい放たれた。丸太の様な物体が空を飛ぶ。そんな衝撃的な光景に、守備兵は驚きと恐怖で身をすくませ、逃げる事すら出来なかった。


 わずかな静寂の後、鼓膜を突き破る程の轟音が響き渡る。もうもうと上がる土煙の中、城壁の一部がガラガラと音をたてて崩れ落ちていく。悲鳴と怒声が辺りを覆い、城壁の上は蜂の巣をつついた様な有り様となった。


 5本の矢のうち2本は城壁に突き刺さり、一部を崩壊させていた。数人の兵が巻き込まれて転落している。もう2本は城壁の上に乗り、幾人かの兵を圧死させた。残りの1本も城壁の上に落ちたものの、バランスを崩して落下し、今は大地の上に転がっていた。


 人的被害は10人を少し越えた程度。怪我人を合わせても50人にも満たない。しかし、城壁という施設に与えた被害は甚大で、その威力は守備兵の戦意を挫くのに十分だった。


 一刀達が次弾の発射準備に入ると、それだけで右往左往し統率が取れなくなる始末。お陰で数種類用意した弾のテストも滞りなく進み、予定よりも遥かに早くデータを集める事が出来た。


 すると、一刀は巨大弩砲をばらしてしまった。このまま攻撃を続ければ、西門の突破は時間の問題であるにもかかわらず、だ。しかし、これには理由があった。


 琥珀達がここにいるのは曹操に対する援軍である。長安攻めの中心は、あくまで曹操なのだ。大将格の李確を討ち取っただけでなく、長安への一番乗りまで果たしてしまえば、曹操の面目は丸潰れだ。関係を悪化させたくない、というのは、一刀と琥珀の2人が共に考えていた事だった。


 こうして琥珀達が城壁を破壊した翌日、ようやく曹操軍も長安へと到着した。早速斥候が報告に来る。


 「東門に『曹』と『李』、南門には『関』と『鳳』の旗が掲げられております」


 それを聞いた一刀は眉間にシワを寄せた。


 『関と鳳? ……ああ、そういう事か』


 一瞬、誰の事かと思った。しかし、すぐに思い当たる。徐州が袁術によって落とされた事は一刀も知っている。であれば、関羽と鳳統だろう。後で会っておこうか。そんな事を思っている間にも、報告は続いていた。


 「ねぇ、北門に誰もいないんじゃ逃げられちゃうんじゃない?」


 「ああ。母様、ここはあたし達が兵を回した方がいいんじゃないか?」


 北門に兵が配置されていないと聞いた蒲公英と翠が、そちらに兵を送る事を提案する。しかし、琥珀には全く乗り気な様子は無い。霞も少し呆れた様な顔をしている。


 「ど、どうしたんだよ? 何だよ、その顔は!」


 2人の反応に、翠は焦った様子で大声を上げた。正論を言ったはずなのに、どうしてこんな態度を取られなければならないのか、彼女には分からなかった。


 琥珀は一刀に視線を送る。説明してやって、琥珀の瞳はそう語っていた。仕方無いな、という様に、一刀も1つため息を吐いてから口を開いた。


 「……自分を相手の状況に置き換えてみろよ。もし、四方を完全に囲まれたらどうする?」


 「そんなの……、敵を倒すために必死に戦うに決まってるだろ」


 若干言葉の間が空いたのは、言われた通りに真面目に考えた証拠だろう。期待した答えが返り、一刀も1つ頷いた。


 「ああ。生き残るためには戦って勝つしかないからな。でも、今回の様に包囲の一部に穴があって、逃げ道が確保されている状況ならどうなる? いざとなったら逃げ出す事が出来るんだ。死を覚悟してまで戦わなくなるだろ?」


 だから、わざと北門には兵を取り付かせていないんだ。そこまでは言われなくても翠にも分かった。


 「……じゃあ、逃げる敵を討つために、どこかに兵を伏せていたりとかするのか?」


 先程意見を否定されたせいか、自信無さげに顔色を窺う様にして尋ねる。一刀が首肯すると、そもそもこの話を振った蒲公英が口を開いた。


 「でも、お姉様でも分かる様な事に引っ掛かるのかな?」


 「たんぽぽも翠と一緒で見抜けていなかっただろ。それに、追い込まれた人間は罠だと分かっていても、わずかな可能性を信じてしまうものなんだ。もしかしたら、兵を配置し忘れたのかも。そんなありもしない可能性を、な」


 一刀が説明してやると、ふ~ん、と返す。あまり興味が無さそうだ。その態度に業を煮やしたか、琥珀が話に入る。


 「まったく、学問に励まないからそうなるのよ。一刀君、西涼に帰ったら詠ちゃんと一緒に2人の面倒を見てくれるかしら。真面目にやらなければ、いくらでも私に告げ口してくれていいから」


 「げっ!」


 「嘘っ!?」


 そんな言葉が思わず口からこぼれてしまう。翠は恨みがましい眼差しを蒲公英に向けるが、蒲公英自身もげんなりしている。まさに藪蛇だった。






 東門に迫った曹操にも、長安攻略に際して秘密兵器があった。


 「真桜、霹靂車の方はどうなっているの?」


 「準備は完了しとります。いつでもいけまっせ」


 そう答えた少女が李典だった。字を曼成と言い、童顔とそれに似つかわしくない大きな胸が目立つ。


 そんな彼女は曹操軍の兵器開発を担当していた。霹靂車というのは、彼女が開発した投石機の名前である。これはテコの原理を利用しており、数人がかりで巨石を飛ばす事が出来た。


 東門と南門の両方に霹靂車からの砲撃を受けた旧都長安。元々、馬騰軍の巨大弩砲を使用した攻撃により士気が下がっていた事もあり、容易く長安の守備隊は崩壊した。そして、囲まれていない北門から脱出した者は、翠の予想通りに近場に伏せていた夏侯惇隊によって全滅させられてしまった。






 こうして長安へと入城した曹操は献帝に謁見した後、西門の方へと足を運んだ。そこには衝撃的な光景が広がっていた。


 崩壊した城壁や突き刺さった丸太に飛び散った瓦礫。斥候からの報告は受けていたが、想像していたよりもすさまじい破壊の跡だった。霹靂車よりも圧倒的な破壊力を持った物の存在を見ただけで感じる。


 それと共に、これ程早く守備隊の士気が崩れた理由も分かった。これだけの物を見せつけられて、兵が動揺しない訳が無いからだ。


 後で真桜に検分させないと。そんな事を考えながら、曹操は馬騰軍の陣中に平然として入っていく。訪れる事を前もって伝えていないし、取り次ぎを頼んでもいない。普通であれば見咎められる状況であるが、曹操とその護衛である夏侯惇の放つ威圧感に声を掛けられる者はいなかった。


 「久しぶりね、北郷一刀」


 不意に背中から声を掛けられた一刀は、その声の主を見て驚いた。曹操が来るとは少しも聞いていなかったからだ。作業を中断し、慌てて曹操に向き直った。


 「馬騰さんに用が……? それなら、案内するけど」


 「ええ、お願いするわ。でも、その前に貴方に話があるの」


 早速歩き出そうとしていた足を止め、曹操に視線を向ける。


 「あれは貴方の仕業かしら?」


 顔は一刀に向けたまま、目で城壁を指し示す。一刀もチラリと横目でそちらを見てから返事をした。


 「……ああ。うちで新しく開発した攻城兵器を試してみたんだけど……」


 「天の国の知識を使って?」


 「……少なからず、ね」


 一体何の目的があるのかつかめない。俺から情報を引き出そうとしているのか。


 一刀は間を取りながら話していく。ここら辺は斥候からの報告で分かる部分なので、無理に誤魔化す必要もない。


 あからさまに警戒する一刀だったが、曹操に気にする様子は無かった。体の前で腕組みをし、右手を顎に添えて一刀の頭から爪先まで、まるで値踏みするかのごとく舐めるように見ている。


 「1年前より顔つきは精悍になっているし、体つきも逞しくなっているようね。大分男らしくなったかしら」


 「あ、ありがとう……」


 いきなり褒められ照れてしまった一刀は、思わず視線を外して礼を言ってしまった。かなり気の強そうな外見をしているが、曹操も紛れもなく美少女である。その曹操に、男らしくなった、と言われた。ましてや、真意を計りかねて警戒していたところへ不意打ち気味だったのだ。照れない訳が無かった。


 しかし、そんな気持ちはすぐに吹き飛ぶ事になった。


 「北郷一刀、私の下へ来なさい」


 「……はっ?」


 無意識のうちに一刀の口から声がこぼれた。何を言われたのか分からず、ポカンとした顔をしてしまう。曹操の後ろに控える夏侯惇も寝耳に水だったらしく、驚いた表情を見せている。


 「聞こえなかったのかしら? 私の下に来る様に言ったのよ。貴方のその力、我が覇道のために振るわれるべきだわ」


 「華琳様! この様な男を引き入れるなど……!」


 「春蘭、貴方には聞いていないの。黙っていなさい」


 いきり立つ夏侯惇を曹操がたしなめる。不満そうな顔はしているが、彼女は言われた通りに口をつぐんだ。


 「天の御遣いとしての力は、我が下にあって最大限に活かす事が出来る。違うかしら?」


 わずかに微笑みを浮かべたまま、曹操は一刀の瞳を真っ直ぐに見つめた。その笑みの正体が自信にある事は、彼女の目を見れば分かった。断る事は無い、と確信している目だった。


 しかし、一刀は首を縦に振るつもりは無い。


 「曹操さん、悪いけど……」


 わずかに曹操の眉間にシワが寄る。


 「貴様、華琳様の命を断るつもりか!」


 「春蘭!」


 一刀に食って掛かろうとする夏侯惇を、曹操が先程より語気を荒げて一喝した。


 「なぜかしら? 理由を聞かせてもらえる?」


 明らかに先程よりも不機嫌で、しかし、笑顔を顔に貼り付かせたまま尋ねる。


 「馬騰さんは右も左も分からない俺を拾ってくれた。あの人がいなければ、俺はとっくに野垂れ死んでいたと思う。その恩を、まだ10分の1も返せていないんだ。何より、馬騰さんや馬超達は俺の家族みたいな物だ。家族を裏切る奴はいないだろ?」


 その言葉を聞いた時、曹操の纏う空気がはっきりと変わった。その顔からは笑みが消え、怒り、蔑み、失望、様々な感情がない交ぜになった目を一刀に向ける。


 一刀には意味が分からなかった。ただ単に断った事に腹を立てている訳では無いのは分かったが。


 「フン、家族ですって? くだらないわ」


 曹操は吐き捨てる様に言った。その言葉に一刀も怒りが沸々と湧いてくる。


 「それがこの国をここまで腐らせたのだと気付かないの? 家柄や生まれだけよくて、何の才も無く、何の努力もしない愚図共がのさばった結果が今の状況よ。家族なんて物に縛られるのは愚者のする事と知りなさい。我が覇道によってこの国は生まれ変わるわ。家柄に左右されず、才能ある者がしっかりとした地位に就ける国。努力した者が報われる国にね。そこには庶民も何も関係無いわ。これこそが、この国の民のためなのよ。貴方が天の御遣いだというのなら、民のためにも我が覇道にその力を捧げなさい!」


 曹操の言葉は一見正しい様に聞こえた。しかし、それに従う気は全く起きなかった。


 曹操が俺を求めているのは、俺が北郷一刀だからじゃない。俺が天の御遣いだからだ。天の国の知識と、天の御遣いの名を欲しているだけなのだ。曹操の言葉からはそれが透けて見えた。北郷一刀という1人の人間を認めた上で真名まで預けてくれた琥珀とは違っていた。


 それにもう1つ、どうしても許せない事があった。


 「覇道、か。そんな物、何の興味も無い」


 その物言いに再び夏侯惇が怒りを露にするが、曹操が手で遮った。しかし、そんな彼女の顔は怒りで歪んでいる。


 「……そんな物、だと? 貴様、我が覇道を愚弄するか!」


 「先に人の大事な物を馬鹿にしたのはそっちだろう!」


 「私の覇道と貴様の家族を一緒にするか!」


 「同じ事だ!」


 一刀はさらに語気を強くする。そうしなければ、曹操に押し切られてしまうからだ。どうあっても退けない。


 「人は皆、別の道を生きているんだ! 大事な物だって人それぞれに違う! それなのに、それを考えずに人の大事な物を簡単に踏みにじる様な真似をする奴が、誰かのため、なんて言葉を口にするな!」


 ぐっ、と曹操が言葉を詰まらせる。しかし、それも一瞬だった。彼女がスッと右手を出すと、夏侯惇が1振りの大鎌を差し出した。曹操愛用の大鎌、絶だ。


 「……私にそこまでの大口を叩いた以上、覚悟は出来ているのでしょうね」


 曹操が大鎌を振り上げようとするのに合わせ、一刀も太刀の柄へと手を伸ばした。が、次の瞬間、


 「……てっ!」


 ゴンッ、という鈍い音と共に一刀の声が漏れ、彼の首が前に傾いだ。後頭部に激しく鈍い痛みがある。両手でそこを押さえながら振り返ると、背後には琥珀がまなじりをつり上げて立っていた。


 「何やってるのよ、貴方は。さっさと残った仕事を片付けてきなさい」


 でも、と口ごもる一刀の目の前で、琥珀は右手に握り拳を作った。


 「もう1発殴られないと分からない?」


 やんわりとした笑みを浮かべてはいるものの、その目は笑っていない。それが逆に怖く、一刀は後ろ髪を引かれたもののその場を後にした。それを見送り、琥珀は曹操へと向き直る。


 「ごめんなさいね。うちのが失礼な事を言って」


 「……いいわ。私も熱くなりすぎたようね」


 すっかり毒気を抜かれ、曹操は大鎌を夏侯惇へと返す。彼女は感情的になり過ぎた事を反省していた。


 「寛大な心に感謝するわ。でもね、曹操。覚えておきなさい」


 琥珀の雰囲気が不意に変わる。曹操と夏侯惇はハッとして彼女の方へと視線を向けた。


 「私はね、貴方程心が広くないの。私の大事な物に手を出すのなら、無事にエン州に帰れると思わない方がいいわよ」


 刺す様な鋭い眼差し。その顔は優しい母の物ではない。西涼の狼の二つ名通り、殺気を隠そうともしない獰猛な顔。普段、一刀達には絶対に見せない顔だった。


 それまで、にこやかな顔を見せてはいたのだが、内心はそうではなかった。曹操が一刀を勧誘するのを少し離れた場所から見ていた琥珀は、はらわたが煮え繰り返る思いでいた。


 『……何なの、これは。この私が動けないなんて……』


 圧倒的な殺気に圧され、曹操はもちろん、百戦錬磨の猛者である夏侯惇も身じろぎ1つ出来なかった。まるで、蛇ににらまれた蛙の様だ。ただただ、身体中から汗が吹き出るのを感じているしかなかった。


 「それじゃあね。何か用があるのなら、ちゃんと話は通してちょうだい」


 明るい声で言うと、琥珀もその場を立ち去っていく。残された2人はようやく金縛り状態から解放された。そうなってから息すらしていなかった事に気付き、まるで全力疾走した直後の様に激しい呼吸を繰り返す。その体は嫌な汗でぐっしょりだった。

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