第3章-長安編・第8話~軍師一刀~
長安の西に広がる平野では、馬騰軍と李確軍が対峙していた。琥珀自らが率いる騎兵約一万に対し、李確軍はおよそ二万五千。軽く倍を超えていた。
「うわ~っ! 思ったよりも兵を出してきたね。やっぱり、西涼の狼の二つ名は伊達じゃないよね」
これだけの兵力差を突き付けられても、蒲公英は普段の陽気な口調を崩さない。武の腕前は遠く及ばなくとも、さすがは琥珀の姪である。胆はしっかりと据わっていた。
「それにしても、こうしてたんぽぽと戦場に立つのも久しぶりね。どう? 少しは腕を上げたの?」
もちろん、と自慢気に胸を反らせる。
「でも、確かにそうだよね。月ちゃん達が来てから、叔母様ほとんど戦場に出なくなった」
「もう年なんだから、少しは楽をさせてちょうだい」
「全然若いよ。だって、叔母様はたんぽぽの目標なんだから。可愛くて強い、叔母様みたいな大人の女性にたんぽぽはなるの」
年だとアピールする様に自分の肩を揉む琥珀だったが、蒲公英に若いと言われて満更でもない表情を見せた。しかし、その顔はすぐに引き締まる。馬を数歩進ませて馬首を返し、兵達の方へと向き直った。
「聞け、皆の者! 奴等は朝廷に仇なす反逆者だ! 奴等を生かしておいたとしても、この国にとって一切の利は無い!」
そこで彼女は自らの兵に背を向け、李確軍をにらむ。
「奴等の数は確かに多い。だが、所詮は数に頼らなければ戦えない連中だ! 勇猛果敢な我が軍の敵ではない! 全軍突撃! 奴等を1人残らず討ち取れ!」
琥珀の号令に鬨の声が上がる。圧倒的な咆哮が大気を震わす。その直後、今度は馬の蹄の音が大地に響いた。敵味方合わせて三万を超す馬の駆ける音だ。辺りにはその轟音しかなかった。
「邪魔だ、どけーっ!」
ぶつかり合う両軍。その先頭で愛用の三叉槍、光閃を振るい、琥珀は次々に敵兵を蹴散らしていく。降りかかる血飛沫をものともしない。彼女の周りには、あっという間に死体が積み上がった。
蒲公英も負けじと槍を手繰るが到底追い付かない。決して蒲公英が弱い訳では無く、琥珀の腕が立ちすぎているのだ。
戦闘が始まってから10分程経った頃、馬騰軍の後方から銅鑼の音が響いた。後退を指示する銅鑼だ。その音を聞き逃す事無く、琥珀とその配下の兵達は統率のとれた動きで後退を開始した。
個々の士気と兵の質の差で初撃こそ押し込んだものの、李確軍は数の利を使い包囲しようと動いた。その動きを察知し、後退の指示が出たのである。
李確軍は逃げる馬騰軍を追撃するものの、練度の違いか、馬騰軍の方がわずかに速く差が開いていく。そうしてしばらく経ち、李確軍が追うのを諦めかけた頃、馬騰軍もまた速度を緩めた。
「チッ、奴等、なめやがって……。おい、何してやがる! とっとと奴等を血祭りにあげるんだよ!」
怒りのこもった命令を受け、李確軍の兵達は再びその速度を上げた。呼吸を整える暇も無い李確軍に対し、待ち受ける馬騰軍には体勢を整えるのに十分な余裕があった。第2戦も初戦と同じく馬騰軍有利で始まった。そして、包囲される前に後退するのも同じだった。
「何だか、上手くいきすぎなくらいに引っ掛かってくれてるね」
「油断して、足下を掬われない様にしなさい」
馬を並走させながら、琥珀は蒲公英に気を引き締めるように伝える。だが、大丈夫、と笑顔で返す蒲公英に、やはり不安は残った。
蒲公英は翠の様に短絡的ではない。しかし、調子に乗りやすい傾向がある。それでも、ここは彼女に任せるしかなかった。
ある程度の距離をとり、再び歩を緩める。猛然と突っ込んでくる李確軍の先頭には、この状況に業を煮やした李確自身が立っていた。彼の大槍が振るわれる度、馬騰軍の兵士が吹き飛ばされた。
「逃げる事しか能の無い腰抜け共! 誰か、この李確様の相手になる奴はいねえのか!?」
「ここにいるぞーっ!」
李確の野太い声を切り裂く様に少女の声が飛ぶ。
「馬騰の姪、馬岱! その首、もらったーっ!」
蒲公英は見事に馬を操り、敵味方の兵が入り乱れるなかを縫う様に駆け抜けた。そのまま一気に李確に迫り、影閃を振り下ろす。だが、その一撃はすんでのところで防がれてしまった。そのまま足を止めて正面から打ち合う。
李確の槍術は決して上手いとは言えない。力任せに振り回しているだけ、といってもいい程だ。だが、重量のある大槍と合わさって、その威力は驚異となる。速さと技では蒲公英が上回っていたが、力とリーチでは李確の方が上であった。
拮抗する両者の力。しかし、10数合打ち合ったところで銅鑼が打ち鳴らされる。蒲公英は李確の槍を受け流し、素早くその場を離脱した。
「待て、このガキ!」
「べ~だ。待て、って言われて待つ訳無いじゃん。悔しかったら追い付いてみれば?」
相手を小馬鹿にした様な表情を見せる蒲公英は、尻をペンペンと叩いてみせる。あからさまな挑発だ。だが、これまでの戦闘でフラストレーションが溜まっている李確には、この方が効果的だった。
みるみる顔が真っ赤になり、頭に血が上るのが分かった。トドメとばかりに蒲公英はニシシ、と笑ってから逃げ出した。李確はいきり立ち、遮二無二馬騰軍へと追撃をかけた。
「李確様。奴等、我々を誘い込んでるんじゃありませんか?」
副官らしき男が李確に馬を並走させて尋ねた。彼は李確とは違い、冷静だった。しかし、その声は彼の上官には届かない。
「うるせえ! あんなガキになめられてケツ捲れるか!」
「し、しかし、こちらの被害も大きくなってきていますし……」
「うるせえっつってんだろ! てめえが先にバラされてえか!? 俺たちゃ戦争やってんだぞ、被害が出るのは当たり前だろ! それに、見てみろ。奴等も兵を減らしてんだよ!」
李確の怒声に首をすくめた副官だったが、何とか諫めようと言葉を続ける。しかし、さらに激しく声を荒げられたため、それ以上は何も言えなくなってしまった。
3度の接触により、李確軍はすでに五千人近い兵を失っていた。対する馬騰軍も、現在は七千人程にまで減っている。これだけ減れば、遠目にも少なくなった事がはっきりと分かる。
しかし、李確は重大な事を見落としていた。馬騰軍の兵の死体は三千人分も無かったのである。
ここまでで戦死したのは千人程。ならば、後二千人はどうしたのか、といえば、李確軍の目を盗みながら少しずつ離脱させていた。その理由の1つは、被害を大きく見せる事で相手の追撃意欲を刺激するためだった。自分達が一方的にやられている状況では兵の士気も下がり、例え相手が後退したとしても追撃しようとは思わない。
今回の作戦のポイントは、いかに李確軍を引き付けられるか、という事だ。彼等は見事なまでに琥珀と一刀の術中にはまっていた。
逃げる馬騰軍を追いかけるうち、李確軍は狭路へと誘い込まれた。右側は深い森、左側は崖が壁の様にそびえている。しかし、それでも追撃をやめようとはしなかった。距離が縮まりつつあったからだ。
狭路に入った事で馬足が鈍りやがった。そう考えた李確は、さらに速度を上げさせる。だが、後ろから追走する李確には、馬騰軍の先頭がそれまでにない動きをしているのが見えなかった。もし崖の上から俯瞰で見ていたら、はっきりと分かっただろう。馬騰軍の動きは、まるで川の水が中洲を避けて流れる様だった。
そこにいる一団を、先頭から縦に裂けて駆け抜けるその動きには一切の淀みが無い。こんな芸当が出来るのは、しっかりと訓練を積んでいるのはもちろんだが、何より部隊の指揮を執る琥珀の腕によるところが大きい。すでに個人の武では琥珀を超えた翠でさえ、用兵では遠く及ばないのだ。
李確がその動きに気付いたのは、最後尾の兵が駆け抜けて一団が姿を現した時だった。突然現れた兵に身構えたか、前衛の馬足が鈍る。
「何やってやがる! あんな寡兵、揉み潰しちまえばいいだろ!」
李確の声に前衛は再び速度を上げた。彼が叫んだ様に、現れた一団には千人程しかいない。しかし、この千人相手に壊滅的な被害を被る事になるなど、この時の李確軍は誰1人として考えなかった。
「一刀君、後は任せるわよ。しっかりやって見せなさい」
一番前についていた琥珀は馬を止め、普段より少しだけ早口で言うとその場を離れた。その直後、最後尾にいた蒲公英が笑顔で手を振りながら駆け抜けていく。一刀はすっかり言葉の届かない距離にまで離れた琥珀の背中に向かい、任せてください、と呟いた。
この森に伏せていた北郷隊を指揮する一刀は、琥珀達を見送ると反対へと向き直った。轟音を轟かせながら李確軍が迫る。
斥候からの報告では、まだ二万弱の兵が健在らしい。まともにぶつかれば、あっという間に蹴散らされてしまう兵力差だ。逆にいえば、まともにぶつからなければ何とかなる。そして、そうなる様にここまで敵を引っ張って来たのだ。
隊の先頭に立つ一刀は、腰に下げた太刀をゆっくりと鞘から抜く。抜き身となった太刀を掲げる様に頭上に上げる。白刃に1つ、陽光が煌めいた。その瞬間、
「撃てーっ!」
と、腹の底から全てを絞り出す勢いで号令をかけ、天に掲げた太刀を振り下ろす。と同時に、彼の後ろにいた兵達は構えていた弩から一斉に矢を放った。
まるで雨の様に無数の矢が李確軍の前衛に降り注ぐ。ある者はその体を貫かれ馬の背から落ち、またある者は自らの跨がる馬を射られて大地へ投げ出される。こうして地面を覆った兵馬の骸は後続の兵にとって大きな障害となり、二重三重に被害をもたらした。前衛は一気に大混乱に陥ってしまった。
「落ち着け、お前等! 奴等の持ってる物をよく見てみろ! ありゃあ、弩だ。次を撃たれる前に近付いてぶっ殺せばいいんだよ!」
弩は弓と違い連射が利かない。弦を引くのに全身を使わなければならないからだ。どんなに扱いに慣れた者でも、次射を行うまでに1分はかかってしまう。そして、弩の射程距離は120~30メートル程。馬はもちろん、人の足でも潰せる距離だ。
部下に何とか落ち着きを取り戻させ、仲間の死体を避けながら前に進ませる。李確の指示は適切であった。相手が一刀でなければ、だが。
弩の持つ弱点を一刀はしっかりと把握していた。その弱点への対処法も、彼は知識として持っていた。
「第2班、前へ!」
一刀は部隊に弩を組み込むにあたり、3班に分けて編制していた。彼の号令を受け、一番後ろにいた兵達が先程矢を放った者達の前に出る。彼等はまだ矢をつがえたままの弩を手にしていた。
「構え……、撃てっ!」
体勢を建て直しつつあった李確軍に、再び無数の矢が降り注ぐ。
そう、一刀が弩の欠点を補うためにとった戦法は、戦国時代に編み出された鉄砲の三段撃ちを流用したものだった。弩の特徴を聞いた時、彼は火縄銃を思い出していたため、すんなりとこの戦法を思い付く事が出来た。
続けて第3班の射撃が始まる。次々に倒れていく李確軍の兵達。それに対して指揮官である李確は、何ら有効な手を打てずにいた。
「い、嫌だ! 死にたくねぇ!」
ただ死を待つだけの状況から逃げ出すべく、1人の兵が馬を下りて森へと入る。それを見て数人の兵も馬を下りようとするが、しかし、彼等の動きは止まった。兵士が森の中に足を踏み入れて数歩、うっそうと茂った藪の中から矢が放たれたからだ。矢はその兵だけでなく、茂みの側にいた他の兵にも襲い掛かる。伏兵の存在を警戒し、彼等は森へ逃げる事を諦めた。
だが、これは伏兵などではなかった。木の間に縄を張っておき、ある程度以上の力で引かれると弩から矢が放たれる、そんな単純な罠だ。それでも混乱しているこの状況では効果的で、彼等はいもしない伏兵を、自ら勝手に産み出してしまう。李確軍に森への逃走を制限させるには十分だった。
一方、李確軍の後衛も軽く混乱し始めていた。狭路に誘い込まれ部隊が長く伸びてしまった事により、彼等には前衛の正確な様子が伝わらない。しかし、全く前に進まない現在の状況と、かすかに聞こえてくる悲鳴や怒声は、彼等を不安にさせるのに十分だった。
そんな中、前から1人の兵が人混みを掻き分けやって来る。まるで何かに怯えた様な顔で、焦っているのが一目で分かる程だった。
「お、おい。前の方はどうなってるんだ?」
「前衛の連中はほぼ全滅だ! 俺は死にたくないから、下ろさせてもらうぜ!」
そう言い残し、その兵は味方を押し退け森の入り口の方へと逃げていってしまった。しばらく固まっていた後衛の兵達だったが、
「お、俺も、これ以上付き合ってられるか!」
と、1人が叫んで逃げ出すと、全員が我先にと逃げ始めた。
李確軍は旧董卓軍や官軍を中心に構成されているが、関中で賊まがいの事をやっていた者も少なくない。将もついていない状況で、そんな連中の統制をとるなど不可能だった。そして、これも一刀の仕掛けた策だとは、彼等の誰も見抜けなかった。
最初に前方から逃げてきた兵は馬騰軍の間者である。時機を見計らって扇動する様、一刀から指示を受けていたのだった。混乱しかけていた事もあり、効果はてきめんだった。
「李確様、後衛の兵が逃走を始めました!」
この事はすぐに李確の耳に届く。何だと、と報告した副官を忌々しげに睨み付ける。だが、そうしたところで何が変わる訳でもない。
前方からは弩で連続的に矢を放つ部隊が近付き、森の中に逃げる事も出来ない。李確に残された手は1つしかなかった。
「……撤退だ。長安まで撤退するぞ!」
そう叫ぶ様に命令すると、未だ矢の雨にさらされ続けている味方を見捨て、李確は後退を始めた。後には李確軍だけの兵馬の死体が辺りを埋め尽くしていた。だが、この戦はまだ終わってはいなかった。
「……やっと出番か。随分待たせてくれたな。行くぞ! 奴等を1人たりとも逃すなよ!」
李確軍を誘い込んだ森の入り口で、周囲に伏せていた兵に号令を出す翠。彼等は喊声を上げながら、狭路よりほうほうの体で出てくる李確軍に襲いかかった。
助かった。そう思った矢先の襲撃である。強引に逃げようとして討ち取られる者。今出てきた狭路へと戻ろうとして、人の流れに飲み込まれる者。中には早々と武器を捨て、投降の意思を示している者もいる。しかし、戦って血路を開こうとする者は誰1人としておらず、彼等は次々討ち取られていった。
そうして、李確等前衛の者達がその場へと辿り着いた時には、ほとんどの兵が死ぬか投降している有り様だった。
「も、もう駄目だ!」
悲鳴に近い叫び声を上げ、副官は李確を見捨てて逃走を図る。止めようと李確がそちらに顔を振った瞬間、副官は馬超隊の兵に槍で突かれて絶命した。舌打ちをする彼の正面に翠が進み出た。
「ここまでだな、李確。観念しろ」
部下に見捨てられたその様に若干の憐れみを覚えた。彼女にしては珍しく大喝する様な大声ではなく、声の勢いを落としている。
「み、見逃してくれ、頼む! もうあんた達の前には姿は見せねえ。だから、な? 知らねえ仲じゃねえだろ!?」
知らない仲じゃない、と言っているが、恐らく旧董卓軍との共同作戦等で顔を会わせただけだろう。彼女には会話した記憶も無いし、顔を見た覚えすら無いのだ。
この状況で命乞いとは、呆れるのを通り越して少し滑稽でさえあった。と同時に、こんな奴に例え少しでも同情した自分に腹が立つ。
『仮にも武人のくせに、1合も打ち合う事無く命乞い、か……』
翠はため息を吐きながら槍を下ろす。あいつなら、そう思いかけてかぶりを振った。
今は戦闘中だぞ、何考えてんだあたし。あいつの事なんか関係無いじゃないか。
思いがけず頭に浮かんだ顔を振り払うべく、奇声を上げながら激しく頭を左右に振った。その様子があまりにも怪しくて、敵味方共に翠へと視線が集中。戦場の時間がしばらく止まった。
「……ともかく、お前をどうするか決めるのはあたしじゃない」
正気に戻った翠は顎をしゃくって指し示す。李確がそちらに目を向ければ、自分の方へと駆けてくる騎兵が1騎。肩にかけた法被をマントの様に風になびかせる霞だった。
「見つけたで、李確! あん時の落とし前、きっちり付けたるわ!」
「げぇっ! ち、張り……」
だが、李確は霞の名を呼び切る事は無かった。神速の張遼という二つ名の通り、疾風のごとき速さで駆け抜けた霞。彼女がすれ違い様振り抜いた飛龍偃月刀は、一撃で李確の首を撥ね飛ばした。李確の体は無くなった頭部の代わりに首から大量の血を噴き上げ、しばらく後に馬上から崩れ落ちた。
霞はそれに一瞥する事も無く、撥ね飛ばした首の方へゆっくりと近付く。無念さと怯えた様な表情を残す首に偃月刀を突き立て、それを高々と掲げる。
「お前等の大将は討ち取った! 大人しく投降せえや!」
霞が投降を呼び掛けると、すでに戦意が底をうっていた李確軍の残兵達は素直に従う。その様子に翠も槍を収め、こうしてこの戦いは終結した。