第3章-長安編・第6話~曹操の時~
徐州が袁術の手に落ちた事は、すぐさま曹操の耳にも届いた。その報告を受けた時、そう、とだけ返事をし、一瞬だけつまらなそうな顔を見せた。
『貴方なら、私の覇道に花をそえる事も出来るかと思ったのだけれど』
袁術ごときに破れ去るのなら、所詮それまで。曹操は頭を切り替え、これから先の事を思案し始めた。
袁術は問題無い。江東で孫策が袁術から独立し反旗を翻した以上、その対処で手一杯のはず。逆に、孫策も同じだろう。
やはり、問題は北の袁紹と西の李確・郭氾だった。
李確達に関しては、すでに外戚の一部と折り合いが悪くなっていた。献帝は現在の状況を憂いており、外戚の中でも献帝に近い者はその意思を酌んでいる。その献帝に近い一派が、以前曹操に献帝の保護を依頼していたのである。そう時間が経たない内に、再び献帝側から曹操に接触を図るのは明白だった。
青州において孔融と戦をしている袁紹は、その次には曹操の治めるエン州に攻め込んで来るだろう。しかし、持久戦に持ち込んで国力の低さを突けば問題無く勝てる。ただし、それを指揮する人材が問題だった。
今現在、曹操が全幅の信頼を寄せる事が出来る将は夏侯淵しかいない。その姉である夏侯惇は、確かに曹操の軍中でもっとも腕がたつが、いかんせん直情型であった。しかも、それを止める事が出来るのは曹操が夏侯淵だけ。とてもではないが、1人で軍を任せるほどの信は無かった。
広く人材を求めたため、文官武官問わずに有為な人材は増えてはいた。しかし、新しく登用した武官に関しては、どうしても実戦不足であった。賊でも頻発してくれれば少しは補えただろうが、曹操の治世が優れているが故の問題だった。
そんな中、曹操は夏侯惇とわずかな兵を護衛に付け、自ら偵察へと出掛けた。しかし、袁紹軍への偵察ではない。いくつか予想される進軍経路上で戦場とするのに適した場所は無いか、その選定のためだ。基本的には籠城戦を選択する事になるが、野戦で打撃を与えられるならそれに越した事はない。
そろそろ引き上げようとした時、にわかに空が雲に覆われたかと思うと、雷鳴を伴って激しく雨が降り始めた。あまりの激しさに帰還を中断し雨宿りの出来る場所を探すと、古い廃寺が近くに見付かった。これ幸いと彼女達はそこに向かう。
だが、その敷地に入る直前、曹操を夏侯惇が制した。
「華琳様、お下がりください。中に人の気配があります」
一軍を任せる事は出来なくとも、その武と自分への忠誠心は疑いようもない。曹操は言われた通りに兵達の後ろに下がった。
主の視線を受けながら、夏侯惇と数名の兵は廃寺へと近付いていく。激しい雨は足音を消してくれるため、忍び寄る、という風ではなかった。そのまま今にも崩れ落ちそうな扉の前まで来ると、手にした大剣を握り直した。
「はぁっ!」
気合いと共に扉を蹴破る。次の瞬間、雷鳴の様な轟音が辺りに轟いた。しかし、それは金属同士の衝突音だった。
「貴様は、関羽!」
「なっ……、夏侯惇!?」
2人は同時に相手を認識し、互いの名を呼び合う。しかし、武器を持つ手に込めた力は緩めない。
「貴様、ここで何をしている?」
「それはこちらの台詞だ。なぜ、こんなところに……?」
夏侯惇の問いに対し、関羽もまた問いで返す。両者は激しい鍔迫り合いのままだ。
「双方、武器を収めなさい」
いつの間にか夏侯惇の背後に近付いていた曹操が声を掛けた。それに従い夏侯惇がわずかに剣を引くと、それに応じて関羽も偃月刀を引いた。しかし、まだお互いに不満そうなままだ。
「関羽、貴方の問いには私が答えてあげるわ。私がここにいる理由、それはここが私の治める土地、エン州だからよ」
ハッとした表情を見せた後、関羽は慌てて曹操に頭を下げた。気付かないうちに州を越えてしまっていた。それを見て、フンと鼻を鳴らす夏侯惇とは対称的に、曹操は表情を変えずに関羽を見下ろしている。
「今度は貴方が答える番よ。この私の領内で、貴方は一体何をやっているのかしら?」
「そ、それは……」
曹操の問いに対し、言い淀む関羽。そこに1人の兵がやって来る。
「曹操様、寺の裏手で数頭の馬と馬車を発見しました」
そう報告を受けると、曹操は兵を下がらせて関羽へ向き直る。
「ここで何をしているのか、もし答えたくないのならそれでも構わないわ。ただ、その時はどうなるか、分かっているわね?」
そう言った曹操には、有無を言わせない迫力があった。さすがに誤魔化す事は出来ない。関羽は正直に事情を話さざるを得なかった。
「……そう、劉備の母親が、ね。ところで、中に入ってもいいかしら? 私達も雨に降られて困っているのだけれど」
曹操と夏侯惇は屋根の下に入っていたが、ほとんどの兵は雨に打たれたままだ。断る権利も無いため、関羽は中に入るよう促した。そうすれば、当然だが桃香の母と直接会う事になってしまう。関羽の心配をよそに、騒ぎを聞いて起きてきた桃香の母は曹操に挨拶をする。
「……貴方、体調が優れない様ね」
挨拶の中に混じった咳を聞き、曹操は断定的に尋ねた。桃香の母は咳き込みながら肯定した。
「春蘭、近くの城に医者の準備をしておく様、使いを出しなさい」
その意外な言葉に明らかに納得のいかない表情を浮かべつつも、夏侯惇は傍にいた兵を捕まえてその旨を伝える。すると、その兵は未だ雷鳴轟く中を駆け出していってしまった。その背中を見送りながらも、夏侯惇はまだ不満顔のままだった。
そしてもう1人、納得のいかない顔をしている人物がいた。関羽である。
「何なの、その顔は。私の治める土地で困っている者を私が助ける。それがそんなにおかしいのかしら?」
「私達がエン州の民であればそうでしょうが、違う以上、助けて頂く理由がありません」
真剣な表情の関羽の言葉を曹操は鼻で笑う。
「フフン。劉備に従っている貴方の言葉とは思えないわね」
だが、関羽からしてみれば、桃香に仕えているからこそ言える言葉だった。
以前、黄巾賊を討伐した際に曹操と共闘した事があった。その時に、ある程度は人となりを理解したつもりだ。曹操の性質は姉上とは真逆。そこに何らかの利がなければ動かない。これが関羽の曹操評だった。
しかし、関羽はそれ以上は何も言わなかった。義母を医者に見せれるのならば、多少の危険は覚悟の上だった。
翌日、関羽と鳳統は廃寺から一番近い城の中にいた。謁見の間で、桃香の母を助けてくれた事に対して礼を述べる。それに対し、気にする必要はないわ、と返す曹操。しかし、そんな謙虚な言葉とは裏腹に、足を組み頬杖をついて高い位置から見下ろす態度は非常に高圧的だ。とてもではないが、その言葉を額面通りに受け取る事など出来はしなかった。
「で、貴方達はこれからどうするつもりかしら?」
2人の希望としては、桃香の母の体調が戻り次第、桃香を探しにここを発ちたかった。だが、それは口に出せなかった。大きな問題があるからだ。すると、心の内を見透かした様に曹操が言葉を続けた。
「まさか、劉備を探してあての無い旅を続けるつもりなの? そんな事をして、今度も大事に至らないとは限らないわよ」
今さら言われるまでもない。それが分かっているから答えられなかったのだ。忌々しく思い、せめて睨み付けてやろうか、と考えたが止めた。わざわざ曹操の機嫌を損ねる必要も無い。
「関羽。貴方、私に仕えなさい」
そう言われ、関羽は思わず刺す様な視線を曹操に投げ付けてしまった。だが、その反応は折り込み済みだったらしく、視線をいなす様にかすかに笑った。
「別に、劉備を裏切れ、と言っている訳ではないわ。劉備の居場所が分かるまで、客将としていたらどうか、と言っているの。もちろん、劉備はこちらでも捜させるし、母親の面倒を見る事も約束するわ」
関羽は返事に詰まる。本来なら、今すぐにでも桃香を探しに行きたいのだ。だが、何の手がかりも無いし、その状況でいつまでも桃香の母を連れ回す訳にもいかない。何より、曹操には彼女を助けてもらった恩があった。
悩む関羽はチラリと横を見る。鳳統の表情は、愛紗さんにお任せします、と言っている様に見えた。
「曹操殿。姉上が見つかれば我等は自由にしていい、という事でよろしいのですか?」
「くどい。この曹孟徳の言が信用出来ないか?」
真っ直ぐに見つめる関羽の問いに、曹操は少し憤ってみせた。
「いえ。……この関雲長、ならびに鳳士元。これより先、我等が主劉玄徳が見つかるまでの間、我等の力を曹孟徳公にお預けする事を誓いましょう」
頭を下げる2人を見ながら、曹操は彼女達に気付かれない様に口角を上げた。そして、こう呟く。
「劉備が見つかるまで、ね」
建業を発った孫策軍は順調に北進し寿春城に迫る。袁術の圧政に苦しんでいた揚州の民は各地で孫策を歓迎し、自ら城門を開け放ったため、道中で被害はほとんど無かった。
そして、圧政に苦しんでいるのは寿春の民も同じであった。さすがに他の支城と違い、ある程度の兵力が残っていたため住民の反乱は抑え込む事が出来た。それでも内側で火種がくすぶっている状態では、兵力で大きく上回る孫策軍に対抗出来るはずもない。袁術の本拠地である寿春城は呆気なく陥落した。
「な~んか、楽勝だったわね」
「あまり気を緩め過ぎないでよ。まだ、何があるか分からないんだから」
孫策と周瑜は寿春の城壁の上にいた。彼女達が見つめるのは北の空、袁術がいる徐州の方角だった。
「どうするの? このまま一気に徐州まで攻め込む? 私、暴れ足りないのよね」
「馬鹿な事は言わないでよ。蓮華様が江東一帯を制圧するまでは、ここに留まるわ」
ため息混じりに返した周瑜に、孫策はあからさまに不満顔を見せた。そのままの顔で、つまんな~い、などと言う始末だ。
「袁術のお陰で、揚州は治安も経済も最悪の状況なのよ? 今は私達に期待している民衆も、自分達の暮らしがよくならないとなればすぐに離れる事になるの。やる事は山程あるわ」
「……分かってるわよ~」
口を尖らせて言ったのでは、納得していないのが丸分かりだ。親友のそんな姿を見て、やれやれ、といった感じで周瑜は首を2、3回左右に振る。
「まあ、今日ぐらいは羽を伸ばしても、何も言わないわよ」
周瑜が徳利を取り出して見せると、孫策は満面の笑みで抱き付いた。
「めーりん、だ~い好き」
袁術の下に孫策反乱の報が届いたのは、寿春の陥落の報と同時だった。いかに情報収集に力を入れていないかがうかがえる。
「孫策め、妾の施してやった恩を忘れおって! 七乃、裏切り者に制裁を加えてやるのじゃ!」
報告を受けた袁術は、その小さい体をじたばたさせながらわめき散らした。だが、その横に立つ張勲は普段通りの笑みを崩さない。
「恨みは一杯買っていても、恩は1つも売ってないと思いますよぉ」
そんな軽口を叩きながらも、彼女はこの状況を打開すべく頭を回転させる。そうして1つの答えを導き出すが、それは普通に考えれば到底受け入れられないものであった。
「ここは麗羽様と同盟を結びましょう」
「なっ、何じゃと!?」
彼女が予想していた通り、袁術は驚きの声を上げた。それを無視して説明を続けていく。
青州の戦は袁紹の勝利で決まりかけている。となれば、北に袁紹、西に曹操、南に孫策と3方を押さえられる事になってしまう。東側が海に面している以上、周囲は敵だらけだ。そこへ袁紹と同盟すれば、袁紹対曹操という構図が描け、自分達は孫策との戦いに集中出来る事になるのである。
妾腹と呼んで姉を蔑んでいる袁術と違い、袁紹は妹に対して普通に接していた。今回の劉備との一件も大して気にしていないだろう。こちらが頭を低くして頼めばこの申し出を受けてくれる。張勲はそう考えていた。
始めの内は難色を示していた袁術であったが結局は折れ、袁紹と同盟を結ぶ事となるのであった。
陳留へと戻った曹操の下に、孫策からの使者が訪れた。
「恐らく、同盟を申し込むつもりでしょう」
曹操の脇に控える荀或が言った。言葉とは裏腹に自信満々な表情を見た曹操は、浮かせかけた腰を戻して他の軍師の意見も確認してみる事にした。
「そうですね~。風も桂花ちゃんと同意見なのですよ~」
長い金髪の少女が答える。彼女の名は程立、字は仲徳。曹操がエン州牧となって以降に仕え始めた軍師である。頭に変な人形を乗せ、どこにしまっているのか分からない飴を舐めるつかみどころの無い少女だった。
「なら、稟。貴方はどう?」
そう意見を求められたのは程立の隣に立つ少女だ。名を郭嘉、字を奉孝と言い、程立と共に曹操に仕えていた。彼女は幼さの残る2人の軍師と違い、大人とまではいかなくとも、十分な色気を持っている。また、アップにされた癖の無い黒髪と眼鏡は、彼女に理知的なイメージを与えていた。そんな彼女は右手で眼鏡を押し上げながら答える。
「大体は2人の言った通りでしょう。しかし、同盟というよりは不可侵条約に近いものだと思います。我々と袁紹、孫策と袁術の対立をはっきりとさせ、お互い不干渉の立場を……」
そこまで流れる水の様に淀みなく話していた郭嘉の声が急に止まる。そして、何事かを呟き出した。
「ふ、不感症の私を、華琳様が閨で開発……。ブーッ!」
すると、勢いよく鼻血を吹き出し倒れてしまう。まるで虹の様な綺麗なアーチを彼女の鼻血は描いた。
郭嘉は妄想癖があり、鼻血を出し易い体質だった。すでに周囲の者達は慣れたもので、呆れている者はいても驚いたり心配している様子を見せる者はいない。侍女達も慣れた手つきで床を拭き、汚れた服の代わりを用意していく。それを横目で見ながら曹操は腰を上げた。
「フフ、どちらが正解かしらね? 風、稟の介抱をしてあげなさい」
「は~い稟ちゃん、トントンしましょうね~」
曹操に言われるより先に、程立は郭嘉の介抱を始めていた。仕官する以前は一緒に旅をしていた事もあり、彼女の厄介な癖への対処はお手のものだった。
果たして孫策からの使者は、郭嘉の予想通りに期限付きでの不可侵条約を申し込んできた。表立って敵対している訳では無いものの、周囲を他の勢力に囲まれている曹操はそれを受ける事にした。
曹操の下に献帝からの使者が訪れたのは、それから2日後の事だった。長安において暴虐非道の限りを尽くす逆臣、李確と郭氾を討つべし。そんな内容の勅命だった。この勅命を受けた事により、彼女は長安に兵を進める大義名分を得た事になる。後は李確等を討ち取り、献帝を保護すれば、今まで曹操の描いてきたシナリオが完成するのだ。
とはいえ、李確等イレギュラーの存在は痛かった。彼等によって曹操の計画は数ヶ月遅れ、その数ヶ月の間に袁紹は青州にまで版図を広げていた。いつエン州に攻め込まれてもおかしくない状況だった。
長安を攻めるにしても、当然、その分の守備兵は残しておかなければならない。曹操軍の兵力はおよそ六万。その内の四万を守備に割かなければ防ぎきれない、というのが軍師達の見立てだった。
だが、長安の兵力は最低でも五万以上、との報告が間者からもたらされている。しかも、長安は前漢の時代までこの国の首都だった大都市である。いくら寂れたとはいえ、その堅牢な城壁は以前のままだ。そこをわずか二万の兵で攻略する。曹操軍の誇る3人の軍師でも、妙手は浮かばなかった。
そんな中、曹操が口を開いた。彼女には初めから一計があった。
「桂花、西涼の馬騰に使者を送りなさい。この勅命を盾に兵を出させるのよ」
すぐさま荀或は席を立つ。
『西涼の狼に天の御遣い。我が覇道に仇成す存在かどうか、貴方達の力、見せてもらいましょう』
かすかに笑う曹操の瞳が怪しく光った。