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第3章-長安編・第5話~別離~

 「ふむ、随分と静かだな」


 彭城へと忍び込んだ趙雲は、街の様子を見て呟いた。まだ宵の口だというのに、街中には人っこ1人いない。


 「とはいえ、私がここにいると知られる訳にはいかんな」


 さらに呟くと、趙雲は民家の屋根に飛び上がる。そして、大きく開いた胸元から何かを取り出すと、ドュワッ、と叫びながらそれを顔に着けた。


 「美と正義の使者、華蝶仮面見参!」


 そう名乗りを上げてみたところで、聞いている者は誰もいなかった。しかし、恥じ入る様子は微塵も見せない。


 趙雲の顔に着いているのは、以前武威を訪れた時に手に入れた、蝶を模している仮面である。そう、すでに1年近く前になるが、武威の街で一刀と月をゴロツキから守った華蝶仮面の正体は趙雲であった。彼女はそのまま屋根の上を駆け抜け、一気に城へと迫った。


 意外なほどに警備は緩く、容易く忍び込む事が出来た。向かう先は離れになっている建物。桃香の母が暮らしていた屋敷だ。


 そっと中を窺うが、人の気配は感じられない。扉に手を掛け、ゆっくりと押し開く。部屋の中は争った、というより、家捜しをされた様な荒れ方だった。死体はおろか血痕すら無い事にホッとしつつも、袁術に囚われた可能性を考え、屋敷を後にしようとする。その時、外から男の声が聞こえ、趙雲は咄嗟に物陰に隠れた。


 扉が開くと、そこには数人の男達。そして、その内の1人が暴れる少女を屋敷の中に突き飛ばした。床に倒れる少女を見下ろし、男達は下卑た笑いを浮かべる。


 「ゲス共が……!」


 怒りを孕んだ声で呟き、趙雲は物陰から躍り出た。一瞬で4人の男を打ち倒す。少し離れた位置にいた最後の1人こそ剣を抜く暇があったが、結局はそれだけ。石突きでみぞおちを突かれて気を失った。


 「お主、大丈夫だったか?」


 そう言いながら、趙雲は槍を下ろして振り返る。助けた少女の顔は、趙雲には見覚えがあった。桃香の母に付いて身の回りの世話をしていた侍女だ。


 何か分かるかもしれん。趙雲は少女に尋ねる。


 「ここには劉備殿の御母堂が住まわれていたはず。お主は何か知らぬか?」


 「は、はい。御母堂様は袁術軍が城内に乗り込んで来る直前、護衛の方達に守られて城からお逃げになられました」


 それを聞いて、趙雲はとりあえず安心した。上手く逃げ仰せたかは分からないが、最悪の事態だけは回避出来たようだ。


 「あの、貴方様は……?」


 侍女がおずおずと尋ねた。趙雲が彼女の顔を覚えていたのなら、逆もそうであるはずだ。だが、そう尋ねたという事は、彼女は目の前の人物が趙雲だと気付いていないのだろう。服装は普段のままで蝶の仮面を着けただけ。そんな格好であるにもかかわらず、だ。


 趙雲本人は、完璧な変装、とでも思っているのだろう。一切の淀み無く、華蝶仮面であると名乗りを上げた。


 そこで緊張の糸が切れていたのか、扉が開くまで外の気配に趙雲は気付かなかった。入り口に立つ男と趙雲の目が合う。男が何かを叫んだのと、趙雲が剣を拾って投げ付けたのはほぼ同時。剣を額に突き刺され、男は吹き飛ぶ様に後ろに倒れた。


 ヒッ、と小さな悲鳴が後ろから聞こえたが、それに構っている場合ではない。剣を投げて空になった左手で侍女の腕をつかみ、半ば無理矢理に立ち上がらせて屋敷から飛び出す。すでに周囲には敵兵が集まり始めていた。


 自分1人なら強引に突破する事は可能だ。だが、侍女を連れているこの状況では無理は出来んか。趙雲は歯噛みし、兵の薄い方へと駆け出した。


 さすがは一騎当千の将である。行く手を阻む敵を、右手1本で槍を手繰り蹴散らしていく。それでもやはり、多勢に無勢。次第に追い詰められ、袋小路へと追いやられてしまった。


 『今はまだ剣や槍だからよいが、弓を使われたら守れぬかもしれん』


 最初は、2人共捕まえてひんむいちまえ、などと下劣な声が飛び交っていた。だが、仲間が次々倒されていく内に、彼等にそんな余裕は無くなっていった。今はある程度距離を取り、囲む様にして重圧をかけている。


 「さて、どうしたものか……」


 壁と自分の背中で侍女を挟む様にしながら守る趙雲は、そう呟いた。周囲を鋭い視線で睨み付ける彼女にも、普段の余裕は無くなっていた。


 「華蝶仮面様……」


 不意に趙雲の耳へ声が届いた。今にも消え入りそうなか細い声だったが、恐怖のせいだろう、声が震えているのがはっきりと分かった。声と同時に侍女の手が趙雲の背中に触れたが、こちらもやはり、ガクガクと震えている。


 趙雲は今更ながら思い出した。今の私は常山の昇り龍、趙子龍ではない。美と正義の使者、華蝶仮面である、と。


 『そう、私は正義。ならば、私の前に立ち塞がる奴等は何だ? 奴等は悪! 正義が悪に屈する道理は無い!』


 趙雲の瞳に火が灯る。


 「安心しろ。お主の事は何があっても守ってやる」


 肩越しに微笑みそう囁いた。そして、改めて袁術軍の兵達へ向き直る。


 「聞けぃ! 我が名は華蝶仮面! 美と正義の使者だ! 悪党共、死にたい奴からかかって来い!」


 それは名乗り、というより大喝に近かった。その迫力に気圧され縮み上がる兵達。一方、趙雲の萎えた気組みは奮い立つ。槍を持つ手にも自然と力が戻った。






 趙雲が彭城へ桃香の母の救出に戻った後も、劉備軍はその場から動かなかった。趙雲や関羽達との合流を待っていた訳では無い。落胆した桃香が頑なにその場を動こうとしなかったためだ。いつ追っ手が現れるか分からない以上、一刻も早く移動するべきなのだが、諸葛亮の言葉は桃香に届かずにいた。


 「……もう駄目だよ。せっかく皆で頑張った徐州も奪われて、愛紗ちゃんやお母さんも……。全部私のせいだ……。私が、私が……」


 膝を抱え込んで座る桃香は、膝に顔を突っ伏してうわ言の様に繰り返している。だが、これ以上、ただ落ち込ませておく訳にはいかなかった。


 「桃香、いい加減に……」


 「お姉ちゃん、嘘つきなのだーっ!」


 業を煮やした公孫賛が桃香を叱咤しようとしたのと同時に、それまでほとんど黙っていた鈴々が大声を上げた。諸葛亮や公孫賛がいくら声を掛けても反応を示さなかった桃香の体が、その大声のせいかビクッと跳ねた。公孫賛は口から出しかけた言葉を飲み込み、口惜しさを感じつつも後を鈴々に任せる。そんな思いに気付いた様子も無く、鈴々は感情のままに言葉を繋げた。


 「桃香お姉ちゃん、鈴々と始めて会った時に言ったのだ。鈴々みたいにお父さんやお母さんを亡くして、寂しい思いをする子がいないですむ世の中にしたい。皆が仲良く暮らせる国にする、って。そのために精一杯頑張ろう、って、あの時3人で誓ったのだ。なのに、こんなところで諦めるなんて、そんなのお姉ちゃんじゃないのだ!」


 今にもこぼれそうな涙をこらえながら、鈴々は大声で叫ぶ。そして、クルリと3人に背を向けると大股で歩き出した。どこへ行くんですか、と慌てて諸葛亮が声を掛けた。


 「これからお城に行って、鈴々が袁術の奴をぶっ飛ばして来るのだ。そんで、また皆でこの国をよくするために頑張るのだ」


 「無理ですよ! いくら鈴々ちゃんでも1人ではどうにもなりません!」


 「無理じゃないのだ! 愛紗がいないから鈴々がやらないと。鈴々がお城を取り返して、お姉ちゃんを元気にしなきゃいけないのだ!」


 珍しく大声を出した諸葛亮に、それ以上の声で鈴々は返す。


 「……じゃないと、愛紗もお姉ちゃんも鈴々の傍からいなくなっちゃう。鈴々、また1人ぼっちになっちゃう。……もう、1人ぼっちは嫌なのだ! だから、無理でもやらなくちゃならないのだ!」


 そう叫んだ鈴々の肩は小刻みに震えていた。諸葛亮も公孫賛も何も言えない。しかし、このまま鈴々を行かせる事も当然出来ない。何とか言葉を探そうとするそんな2人の横を、1つの影が抜けた。桃香だった。


 「駄目だよ! 鈴々ちゃん!」


 「離すのだ! 鈴々が行かなきゃならないのだ!」


 桃香は鈴々を後ろから抱き締めた。それを振りほどこうと、鈴々はその瞳から滝の様な涙を流しながら激しく暴れる。膂力の差を考えればすぐに振りほどかれてしまいそうだが、桃香は必死にしがみついて鈴々を離さない。そうしながら、何度も何度も大声で謝り続ける桃香の両の瞳からも、涙が激しくこぼれていた。


 その姿を見ながら、公孫賛は情けなく感じた。もちろん目の前の2人が、ではない。自分自身が、だ。


 私が一番長い付き合いにもかかわらず、何も出来なかった。親友と自負しているし、桃香もそう言ってくれているのに。そんな情けなさを押し隠す様に、公孫賛は唇を強く噛み締めた。






 袁術が同盟を一方的に反故にした事は、すぐに先遣隊を率いる関羽の耳にも届いた。孔融に使者を送って事情を説明すると、部隊をまとめて彭城へと引き返す。その途中、彭城陥落の知らせが入り、さらに続けて本隊壊滅の知らせが届いた。


 「何と言う事だ……。雛里よ、我等はどうすればよい?」


 「すでに占領されてしまった以上、このまま彭城へ向かう訳にはいきません。桃香様の後を追いましょう」


 桃香が無事に脱出した事を聞いたものの、さすがにショックを隠せない。鳳統も驚いた様子で、あわわ、と呟いていたが、関羽に尋ねられて落ち着きを取り戻した。


 桃香がどういう経路で逃げているかは、もちろん分からない。しかし、西に逃げた事は分かっている。北は青州で袁紹と孔融が争い、南の揚州は袁術が治める土地だ。そして、東に海が面しているこの状況で逃げるとすれば、それは西しかなかった。


 転進した関羽隊の遥か前方に、砂塵を巻き上げて疾走する1台の馬車が見えた。その周囲には、護衛とおぼしき劉備軍の兵士達の姿もあった。大分距離があったが、一番見慣れたその軍裝を見間違えるはずがない。


 そんな馬車の後方には、別の一団も見えた。馬車とは比べ物にならないほどの砂塵をもうもうと上げるのは、袁術軍であった。


 「皆の者、前方にいる友軍の援護をするぞ!」


 言うが早いか、関羽は馬の腹を蹴り、そのスピードを上げた。あそこに桃香様がおられるかもしれない。そう考えた時、関羽の体は自然と動き出していた。


 鳳統や兵達も慌てて後を追うが、差は縮まるどころか徐々に開いていく。無理も無かった。関羽の跨がる馬は、反董卓連合解散の折に馬騰軍から譲り受けた涼州馬の中でも一番の駿馬だ。赤いたてがみをなびかせて疾駆する姿は、まるで火の玉の様であった。


 「おい、その馬車には誰が乗っている!?」


 護衛の兵に並びかけると、関羽は蹄の音に負けない様に大声で尋ねた。いきなりの事にギョッとした顔を見せたものの、相手が関羽だと分かると顔の強張りも取れた。


 「この馬車には、劉備様の御母堂様がお乗りになっています!」


 「義母上が!? ……分かった。ならば、お前達は先に行け! 奴等の相手は私がする!」


 馬車の中の人物が桃香でなかった事に若干の落胆を覚えたものの、それが助けない理由にはならなかった。ましてや、義姉の母であれば自分にとっても義母だ。楼桑村で旅立ちを決めた時も、徐州に移ってからも、自分達に優しく微笑んでくれる義母を守る事に、迷いなどあるはずもなかった。


 彼女も鈴々と同じで、幼い頃に両親を亡くしていた。優しかった実母の面影を、少なからず桃香の母に重ねていた。もっとも、それを桃香に伝えた時には、


 「そんな事無いよ。怒ると物凄く怖いし。私なんか、家の前を流れる川に何回投げ込まれたか……」


 と、苦笑いをしながら言っていたが。


 馬の足を止めると、関羽は馬首を返して接近して来る袁術軍へと目を遣った。距離は十分空いている。部隊と合流して体勢を整えるくらいの時間はあるな。そう思うと、関羽も大きく息を吐き、乱れた呼吸を整えた。






 関羽隊と袁術軍の戦闘は、結果だけ見れば関羽隊の勝利に終わった。桃香の母の乗る馬車を無事に逃がし、袁術軍を撃退したからだ。


 しかし、内容に目を向ければ、どんなに贔屓目に見ても分けが精一杯だろう。それほどの損害を出していた。青州との州境から強行軍を続けていたため兵の疲労が激しく、普段通りの動きが出来なかったのが原因だった。


 これにより、関羽達は桃香との早期の合流を諦め、追っ手をかわすために進路を変えざるを得なくなるのであった。






 一体どれ程の間泣き続けていただろうか。しかし、泣き張らした桃香の顔からは、すっかり迷いは消え去っていた。


 「ごめんね、朱里ちゃん、白蓮ちゃん」


 「いえ、私の方こそ申し訳ありませんでした。袁術さんの危険性に気付いていながら、みすみすこの様な事に……」


 謝り返す諸葛亮に対し、桃香は笑って首を横に振った。徐州の蜂蜜が欲しい、という理由で袁術は同盟を破棄したのだ。それを読むのは、いくら諸葛亮でも不可能だったろう。


 「それより、これからどうしたらいいんだろう?」


 前向きな問いに対し、諸葛亮はもう一度謝る。


 「申し訳ありません。この状況では、徐州の奪還は不可能です。今は一時も早くここを離れるべきでしょう」


 「でも、どこへ行くの?」


 「荊州へ行きましょう。反董卓連合に参加した際に、桃香様は劉表さんと懇意にされていた様ですし、匿って頂ける可能性は低くないかと。……それに、私達が学んでいた私塾、水鏡女学院もありますから。水鏡先生も、きっと力になってくれるはずです」


 桃香がへこたれ、泣いていた時もずっと頭を回転させていたのだろう。諸葛亮は即答してみせた。ただ、それに、の部分で一瞬間が空いたのは、やはり鳳統の事を思ってだった。


 「大丈夫だよ、朱里ちゃん。雛里ちゃんも愛紗ちゃんも、きっと」


 思いがけず心の中を見透かされ、諸葛亮は恥ずかしくなりうつむいてしまった。


 徐州から荊州へ向かうには、かなりの距離を移動しなければならない。当然、他の諸侯が治める土地を通って、だ。見つかった場合、すんなり通してくれる保証は無い。大勢力である袁術と敵対している以上、捕らえられる可能性も決して低くはないだろう。いくら千人にも満たないとはいえ、兵を連れて移動すれば目立つ事この上無い。


 そこで、諸葛亮は兵を捨てて移動する事を進言した。兵にはこの場で鎧を脱がせ、農民として暮らしてもらう事になるだろう。


 千人足らずの兵では、戦闘になっても大して役に立たない。ならば、いっそゼロにしてしまい、発見される可能性を極限まで低くした方がよい、というのが諸葛亮の考えだった。


 それを聞いた桃香は一瞬悩んだ。ここで別れた兵達は、袁術の過酷な支配の下で暮らさなければならない。それを思うと心が痛む。


 桃香が苦悩の表情を浮かべていると、近くにいた兵の1人が立ち上がった。


 「劉備様。俺達は、皆劉備様のお役に立ちたくて兵士になったんです。だから、劉備様の足を引っ張る事になるなら、俺達はここに残ります。……大丈夫です。心配しないでください」


 桃香がすまなそうな顔を見せたため、その兵は慌てて付け足した。その後ろの兵達も続く。桃香は、ありがとう、ごめんなさい、と頭を下げるしかなかった。


 こうして兵のほとんどが去ったところで、この場に趙雲の姿が無い事に、桃香はようやく気付いた。それを尋ねられた公孫賛は正直に答えてよいものか、ためらってしまった。そこへ、涼やかな声が響く。


 「私ならここにおりますぞ、桃香殿」


 笑顔で振り返った桃香だったが、声の主の姿を見て絶句した。木にもたれ掛かって立つ趙雲は、その白い服も透き通る様な肌も真っ赤に染まっている。服は所々裂け、無数の裂傷が見えるが、どれもかすり傷程度。ここまで服や肌を染める程では無いはずだ。実際、趙雲が赤く染まった理由は返り血だった。


 「大丈夫なの、星ちゃん!?」


 3人は慌てて駆け寄るが、心配するな、とばかりに手で制す。


 「メンマを取りに戻ったのですが、そこで見つかってしまいましてな。面目次第もない」


 そう言って自嘲気味に笑う。しかし、正面に立つ桃香の顔は険しかった。


 「本当に? まさか、私のお母さんを……」


 しまった、そう思った。いきなり言い当てられ、思わず顔に出てしまったからだ。普段は抜けているのに意外なところで鋭い。誤魔化せないと感じると、趙雲は正直に彭城での事を話始めた。


 「申し訳無い。私が城に着いた時には、すでに桃香殿の母君は脱出されておりました」


 趙雲は頭を下げた。不意にその体は柔らかい物に包まれる。気が付くと、桃香に優しく抱き締められていた。


 「と、桃香殿。御召し物が汚れます」


 「ごめん……。ごめんね、星ちゃん……」


 趙雲にとって、謝られるとは想像もしていなかった。命令された訳ではなく、彼女の独断だったのだ。むしろ、助けられなかった事を責められるとさえ思っていた。


 「……でも、もうこんな無茶はしないで。これからの私には、星ちゃんの力が必要なんだから。お母さんが助かっても、星ちゃんが無事でなかったら意味が無いよ」


 そう言った桃香の瞳から一筋の涙がこぼれた。


 この人は、自分の母より私の方が大事だと言ってくれるのか。ただの客将に過ぎないこの私を。やはりそうだったか。


 趙雲はかすかに笑った。視界をおおっていたもやはスッキリと晴れていた。


 桃香から離れると、槍を置いて片膝をつき頭を垂れた。


 「この趙子龍、生涯を賭して仕えるべき真の主君に、今巡り会いました。これより我が身、我が武の全ては、劉玄徳様のために捧げましょう」


 「えっ……? 星ちゃん?」


 「まぁ、これからもよろしく頼みます、という事ですよ、桃香様」


 いきなりの事に呆気に取られている桃香に向かい、趙雲はいつも通りの悪戯っぽい笑みを見せた。






 「ケホッ……。迷惑をかけてしまってごめんなさい、愛紗さん」


 「気になさらないでください。さぁ、どうぞ」


 桃香の母は関羽の差し出した湯飲みを受け取り、口を付けた。猛烈な苦味が口の中に広がるが、我慢して喉の奥へと流し込んだ。


 桃香の母を救出した関羽は、追撃をかわすための逃避行を行っていた。その際、少しでも人目を避けるために兵のほとんどを農民に戻す策を鳳統が献策したのは、さすがに同門の士といったところだろう。


 今現在は激しい雨を避けるため、廃寺の中にいた。疲労と心労が重なったせいか、桃香の母は前日から体調を崩している。本来なら医者に見せたいところだが、この雨の中を無理する訳にもいかない。取り敢えずは、薬草の知識のある鳳統が作った薬湯に頼るしかなかった。


 桃香の母や護衛の兵達もすでに休み、自分達もそろそろ、と鳳統が思ったところで、関羽は青龍偃月刀を手に立ち上がった。何事かと見上げると、関羽は入り口を睨み付けたまま、動くなよ、とだけ言った。そのまま入り口にジリジリと寄っていく。そして、扉の脇まで行くと呼吸を整え、偃月刀を握り直す。次の瞬間、扉が外から勢いよく開けられた。


 「はぁーっ!」


 裂帛の気合いと共に降り下ろされる偃月刀。しかし、その刃が目標を捉える事は無く、代わりに激しい金属音が響いた。


 「貴様は、関羽!」


 「なっ……、夏侯惇!?」


 互いの名を叫びながらも、2人の黒髪の美女は力を緩めようとはしなかった。

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