第3章-長安編・第4話~徐州陥落~
徐州彭城の城内において、劉備軍の将が集まり緊急の会議が開かれていた。議題は先程訪れた使者への対応である。
「私は反対です。袁術と同盟を結ぶなど」
関羽の言った通り、袁術からの使者は同盟の申し込みにやって来たのだった。それに対し、関羽だけは全面的に反対したものの、諸葛亮や鳳統は不安点を指摘しつつも賛成した。
袁術が同盟を持ち掛けてきた理由ははっきりとしていない。しかし、袁術と袁紹の姉妹仲の悪さを考えれば、それが理由かとも思う。とすれば、袁紹に次ぐ勢力を誇る袁術との同盟は利が大きい。それが2人の軍師の考えだった。孔融軍と共同戦線を張るとはいえ、戦力差は歴然としている。袁術軍の戦力があれば互角以上に戦えるはずだ。
しかし、そこには問題もあった。袁術が果たして信用できるのか。そして、民の事を顧みない政治を執っている袁術と同盟を結んでもよいのか、という事だ。民の幸せを第一に考える桃香の政治とは真逆である。
諸葛亮が説明を終えると、そこにいる者達の視線が桃香へと集まる。後は君主である桃香の判断に任せるだけだ。
「袁術さんと同盟しよう」
「よろしいのですか?」
そう言ったのは、唯一反対の立場をとっていた関羽だった。自分の意見が退けられた事に不満を抱いた訳では無い。ただ、どうしても袁術に対する不信感は拭えない。
「私もね、袁術さんが信用出来るかどうか、正直分からないの。でも、分からないなら信じてみようと思う。それに、私達だけじゃ袁紹さんに勝つのは難しいんだよね? なら、同盟しなくちゃ駄目だよ。今は、この徐州を守る事を考えないと」
真剣な眼差しで、関羽だけでなく全員に向けて自分の思いを述べた後、大丈夫だよ、と笑顔を見せた。桃香が決意をしっかりと固めているのなら、関羽にはこれ以上言う事は無かった。
「じゃあ、愛紗ちゃんと雛里ちゃんは予定通り先遣隊を率いて出陣を。朱里ちゃんは私と使者の方に会ってもらえるかな?」
「鈴々は何をしたらいいのだー?」
諸葛亮が、はい、と返事をするのと同時に鈴々が尋ねる。小さな体を少しでも目立たせる様、椅子の上に立って手を大きく挙げていた。その姿に桃香の頬は思わずほころんでしまった。
「鈴々ちゃんには本隊の出陣準備をお願いするね。白蓮ちゃんと星ちゃんも手伝ってくれる?」
現在、客将としてここに身を置いている公孫賛と趙雲も反対するつもりはない。2人は歯切れよく返事をする。テーブルを挟んだ反対側では、鈴々が関羽に、行儀が悪い、とばかりに小さな尻をひっぱたかれていた。尻を押さえながら文句を言うその姿に、当事者の2人を除く全員から笑いがこぼれた。
江東平定の任を帯びて寿春を発った孫策は長江を渡河し、南岸の大都市である建業を半包囲する形で部隊を展開させていた。焦って攻撃する事はせず、じっくりと攻める構えを取っていた。そんな孫策の前に1人の少女が姿を現した。
「ご苦労だったわ、明命。で、袁術の動きはどうなの?」
孫策と共に天幕の中にいた孫権と周瑜は、孫策の言葉を聞くまで少女の存在に全く気付かなかった。2人が慌てて孫策の視線を追うと、その先には長い黒髪の少女が片膝をつき、頭を下げていた。
少女の名は周泰、字は幼平。潜入調査や破壊活動等を得意とする、孫策配下きっての工作員である。彼女は孫策が寿春を離れた後もそこに残り、袁術の動向を探っていたのだった。
「はい、袁術は徐州牧の劉備と同盟を結んだ後、兵をまとめて徐州へと進軍を始めました」
その報告を受けて驚いた顔を見せる孫権。それに対し、孫策は面白そうにわずかに笑みを見せるだけで、周瑜にいたっては眉1つ動かしていない。
「まさか劉備と同盟とはな。袁術を焚き付け過ぎたのではありませんか?」
周泰の帰還により中断したものの軍議の最中だったためか、周瑜の口調は孫策の友人ではなく、孫策軍の軍師としてのものだった。一方、主である孫策は普段の様に飄々とした雰囲気を崩さない。
「いいじゃない、上手くいったんだから。それより、うちの軍師様はこんな好機を黙って見逃すのかしら?」
もちろん、そんなつもりは更々無い。袁術の下から離れて影響力の強い江東にいる上に、袁術自身も本拠地である寿春にいない。独立の企図を実行に移す機会としては、今を置いて他に無いのだ。
「そうよね~。なら、邪魔者にはとっとと消えてもらいましょうか」
孫策の纏う空気からいつもの陽気さが消え、その瞳には殺気が宿った。
それからの孫策軍の行動は早かった。袁術より派遣されていた監視役の将を殺す。猛獣の如き孫策の戦い振りに恐怖した兵達は降伏。建業にいる内通者に連絡を取って城門を開けさせ入城したのは、まだその日の夕方だった。
孫策が独立した、と江東一帯に広まると、各地の豪族達は次々に帰順の意を示し始めた。もちろん、全ての豪族が孫策を支持した訳では無い。大きな勢力を持つ豪族のほとんどが孫策不支持に回ったが、それでも江東の6割近い豪族が味方に付いた。寿春を発つ時には五千人程だった兵は、わずか数日の間に数万人にまで膨れ上がった。
その様子を見ながら、姉妹は改めて母の偉大さを思い知る。と同時に、孫策は自分の肩にのしかかる期待の重さに苦しくなる。
ここにいる者達は孫策を支持している。だがそれは、彼女が孫策だからではない。彼女が孫堅の娘だから、である。自分に母、孫堅に比肩、あるいはそれを越える力がある事を示さなければ、彼等にすぐ見限られるだろう。
下手は打てない。1度の失敗で全てが終わる。母様の誇りも、私の思いも全部。
自らを認め、戴いてくれている者達を、まるで親の敵を見るかの様に睨む孫策の手が不意に握られた。
「蓮華……」
ポツリと妹の名を呼ぶ。
「……私は将として、姉様の足元に及ぶべくもありません。それでも私は孫伯符の妹、孫仲謀。たとえ姉様の代わりは務まらなくても、姉様と共に孫家の旗を支えるくらいの事はしてみせます。ですから、その様に1人で全てを背負い込もうとするのはお止めください」
孫権は両手で姉の右手を優しく握り、強い眼差しで訴えた。
私では全てにおいて姉様に敵わない。それでも、姉様に全てを押し付ける様な真似はしたくない。姉様の隣に立ち、姉様と同じ景色を見てみたい。
妹のそんな思いに気付いたのか、孫策はその体を優しく抱き締めた。そして、耳元に口を持っていく。
「ありがとう、蓮華。でも、そんなに自分を卑下するものではないわ。……きっと、王としての才は貴方の方が上なのだから。」
きっと、より後は心の中で呟いた言葉だ。誰に評された訳でも無いし、親友である周瑜にも言った事は無い。ただの勘だ。
だが、この勘には絶対の自信を持っている。いつか家督を妹に譲る日が来るだろう。だからこそ、妹が一人前になるまでは自分が矢面に立たねばならない。
妹を離した孫策は群衆の方へと向き直る。孫権の瞳には、姉の大きな背中が映っていた。
独立を果たした孫策の下に集まってきたのは兵ばかりではない。様々な物資や金もそうだが、何より大きいのは、各地に潜伏していた旧臣達が戻ってきた事だ。
「よく無事に帰ってきてくれたわ、思春、穏」
特に孫策が喜んだのはこの2人だ。
1人は甘寧、字は興覇。孫策配下の将にあって、唯一孫策と互角に打ち合える武人である。
もう1人は陸遜、字は伯言。周瑜の弟子で将来を嘱望される軍師だ。
そして、この場にはもう1人、先日までいなかった人物の姿があった。孫策の隣に立つその少女の名は孫尚香。孫策、孫権の妹である。姉譲りの淡い桜色の髪をしているが、まだ幼いせいか、2人の姉と違い体の凹凸は少ない。
兵、将共に揃った事で、孫策は計画を次の段階に進める。
彼女は揃った戦力を2つに分ける事にした。1つは孫策自ら率いる本隊。周瑜や周泰を伴い、袁術の本拠地である寿春を攻略する。
もう1つは孫権を大将にした部隊。こちらは江東で、孫策に帰順しなかった豪族の討伐を行う。孫権も含め、甘寧や陸遜など経験の浅い将が多いため、古参の将である黄蓋もこちらに入った。
こうして孫策は江東において独立を果たし、天下取りへと名乗りを挙げるのだった。
孫策が独立した事など知る由も無い袁術は、劉備と共に袁紹と戦うため、自ら兵を率いて北進、徐州へと入っていた。馬車の中で蜂蜜水を飲みながらご機嫌の袁術は、外の景色に目を遣った。
季節は春。辺り一面に色とりどりの花が咲き誇っている。その景色を見ながら、袁術は妄想を膨らませていった。
「七乃~。あの花から取った蜂蜜は、どんな味がするのかのぅ」
「そうですねぇ。ここら辺は穀倉地帯として有名ですから、きっと、と~っても甘い蜂蜜が取れると思いますよ」
「と~っても甘い蜂蜜……」
張勲の言葉を反芻する袁術。彼女の頭の中は、と~っても甘い蜂蜜で一杯らしい。手に蜂蜜水を持っているにもかかわらず、ダラダラとよだれを垂らしている。張勲は嬉しそうな顔でよだれを拭き、ついでに蜂蜜水でベトベトになった口の回りを拭った。
「決めたのじゃ! この徐州を妾の物にする!」
「ええっ!?」
この発言にはさすがの張勲も驚きを隠せず、次の言葉を繋げられなかった。それには構わず、袁術は話し続ける。
「妾が劉備と同盟を結んでやったのは、麗羽姉様に徐州を渡したくないからじゃ。妾が徐州を取ってしまえば麗羽姉様に渡さずにすむし、蜂蜜も全て妾の物に出来る。まさしく一石二鳥じゃな。そうであろ、七乃?」
同意を求められた張勲は、心の中で、やっぱり馬鹿だな~、とため息を吐く。確かに一石二鳥かもしれないが、得る物に対して失う物が大きすぎるからだ。同盟を結んでいる相手を攻撃する様な真似をすれば、諸侯からの信用は完全に地に落ちる事になってしまう。
しかし、諫めようと口を開きかけたところで止めた。元々失墜する信用が無いのだ。何を今さら、という感じだ。それに、このままの方が後で美羽様の困った顔が見られそう。張勲の頭の中を、そんな不届きな考えが横切った。
「分かりました。じゃあ、すぐに手配しますね」
張勲は馬車を停止させると、将軍達を呼び寄せテキパキと指示を出した。彼女は性格に難があるものの、決して無能ではなかった。
張勲の指示通りに動いた袁術軍は、周辺の城を次々落としていく。徐州と揚州の州境にある城には、以前はある程度の兵力が配置されていた。だが、同盟が成立した事で兵力の一部を袁紹との戦いに回してしまった。そのため、大した抵抗も出来ずに城を落とされる羽目になったのである。
袁術が一方的に同盟を破棄して攻撃を仕掛けてきた事は、すぐに桃香達の耳に届いた。すでに劉備軍は袁術軍との合流地点に到着しており、そこに簡素な陣を形成していた。
報告を聞いた桃香は愕然とする。まさかそんな事が、と、信じられないというより信じたくない様子だ。
「袁術の奴! 鈴々がぶっ飛ばしてやるのだ!」
蛇矛をブンブン振り回し、鈴々は憤りを隠そうともしない。今にも1人で乗り込んでしまいそうな彼女を、趙雲が羽交い締めにして止めている。
そんな様子を見ながら諸葛亮は臍を噛む。袁術が裏切る可能性は考えていた。しかし、裏切るとすれば袁紹との戦いが始まってからだと考えていたのだ。戦況が膠着するか不利になるかした時に不穏な動きをされるかもしれない、そう思っていた。まさか、州を跨いですぐに行動を起こすとは、考えてもみなかった。
「……どうしよう、朱里ちゃん?」
桃香は絞り出す様に声を出す。その顔には焦りや不安がありありと出ていた。
「とりあえず陣をたたみ、彭城に退きます。この兵力差で野戦はしたくありませんから」
袁術軍の正確な数は分からなかったが、最低でも三万以上の兵力だと報告を受けていた。対する劉備軍は先遣隊に兵を割いている事もあり、一万強しかいなかった。
彭城で籠城戦を行い時間を稼ぐ。その後、引き返して来た先遣隊と挟撃を仕掛ける。これが諸葛亮の腹積もりだ。
だが、そんな計画を吹き飛ばす報告が届いたのは、陣の撤収が全て終わった後だった。
彭城陥落。
この報告を聞いた時、さすがに諸葛亮も驚いた。はわわ、と繰り返し呟くだけで、しばらく頭が回らなかった。
他の支城と違い、彭城にはある程度の兵は残してある。ここから帰還するくらいの時間は持つはずだった。しかし、城の守備を任されていた者が大軍の前に戦意を喪失。城は一戦も交える事無く明け渡されてしまった。
諸葛亮は頭を切り換え、次の策を講じ始める。やはり野戦はしたくない。どこか近隣の城にこもって籠城戦を、と思う。しかし、近場には小城しかない。備蓄されている物資も乏しく、大軍相手に何日も持たせるのは不可能だった。
そんな状況のところに、新たな報告が飛び込んでくる。それは、袁術軍の襲来を告げるものだった。
せめて陣がそのまま残っていれば、結果は違っていたのかもしれない。しかし、何の備えも無く、半ば奇襲された感じで戦闘に突入してはどうしようもなかった。
この一戦において、劉備軍は壊滅的な大打撃を被る。桃香を連れて逃げ出すのがやっと、という有り様だ。
何とか追撃をかわし、安全な場所まで逃げてみれば、残った兵は千人にも満たない。しかも、そのほとんどが傷を負っている。将も兵も皆一様に口をつぐみ、うずくまっていた。
そんな中、すっくと立ち上がる人物があった。白い戦装束に身を包む趙雲だった。彼女は愛槍を携え歩き出す。
「どこへ行くんだ?」
趙雲の背中に公孫賛が声を掛けた。足を止めて振り返る。
「忘れ物を取りに彭城まで」
「なっ……! 何考えてるんだ、お前は。大体、忘れ物って何だ?」
「幽州より持ち出した秘蔵のメンマがありましてな。あれを袁術ごときに渡す訳にはいきますまい?」
メンマぐらいで。そう言おうとして、公孫賛はハッとした。袁紹に破れて幽州から脱出する時も、今回の様に何かを持ち出す余裕など無かった。
そういう事か、と思い、公孫賛はチラリと桃香の方を見た。
「死ぬなよ、星。」
「無論。何しろ、まだ仕えるべき主君にも巡り会っていないのですからな」
フッ、と涼しく笑うと、趙雲は1人その場を去っていった。