第3章-長安編・第3話~曹操の誤算~
日が西に傾きかけた武威の城内を、一刀は首を左右に振り、肩を回しながら歩いていた。最近は軍事演習に参加してばかりで、机仕事は久しぶりだった。以前と違い、月と詠がいるお陰で内政に携わる必要性が低くなった事が理由だ。ならば、なぜ一刀が机仕事を行っていたかといえば、月と詠、2人揃って休みを取ったためだ。
朝から1人部屋に籠って仕事をしていた一刀。彼は丸1日かかる事を覚悟していたが、予想に反して夕方前に仕事は終わる。前倒しで仕事を片付けてくれた2人に感謝しつつ、彼はこれからどうしようかと考えていた。
まだ日も高いし街に出ようか。太陽の位置を確認してそんな事を思う一刀の視界の端に、月の姿が映る。だいぶ見慣れてきた感のあるメイド服ではなく、町娘が着る様な地味な服に袖を通している。
何か考え事をしているのだろうか。欄干に手をそえて中庭を眺める彼女からは、一刀の存在に気付いた気配は感じられない。
少し驚かせてやろう。そんな悪戯心が一刀の中で首をもたげる。気配を殺し、月の背中側からそっと近付く。後少し、そのまま腕を伸ばせば届くくらいの位置にまで来ると、一刀は大きく息を吸い込んだ。
「何してんのよ、あんた」
「わぁっ!」
「ひゃあっ!」
予期せぬ方向からいきなり声をかけられ、一刀は驚いて思わず声を上げてしまう。その声に驚き、月も悲鳴を上げてしまった。結果だけ見れば目的を果たせた訳だが、あまりにもかっこ悪すぎる。わずかに眉尻を吊り上げながら振り向くと、案の定、そこには詠が冷たい目をして立っていた。
「いきなり声をかけるなよ。驚くだろ」
自分の事は棚に上げて文句を言う。フン、と鼻を1つ鳴らし、詠はそんな一刀の脇を黙って通り抜けた。
「あっ……、詠ちゃん。それに、一刀さんも……」
相当驚いたらしく、月は胸に手を当てて肩を上下していた。その月の視界から一刀を消す様に動く詠。
「ボーッとしてちゃ駄目よ。こいつに何をされるか、分かったもんじゃないんだから」
「何か、って、俺が一体何をする、って言うんだ!」
酷い言われ様に、一刀もつい語気を荒げてしまう。しかし、詠はそれに怯む様子も無く、眼鏡越しに一刀を睨み付けた。
「じゃああんた、さっき月にこっそり近付いて何をしようとしてたのか、言ってみなさいよ。どうせ、いやらしい事でもしようとしてたんでしょ」
「勝手な事を言うな! 俺は……」
そこで一刀は口ごもってしまう。別にいやらしい事をしようとしていた訳では無いが、普通に話しかけようとしたのでもない。驚かせようとした事を正直に言えば、そこを突っ込まれるのが目に見えている。だから一刀は逡巡したのだが、詠の前では黙る事すら許されなかった。
「ほらみなさい。言えないのが証拠よ。月、仕事の時は仕方無いとしても、それ以外の時はこいつに近付いちゃ駄目よ。いやらしい事しか考えてないんだから」
勝ち誇った顔で一刀を見下した後、月に向き直って説得を始める。一刀もここまで言われては黙っていられない。2人の間で言い争いが再燃する。その様子を見ながら、月はオロオロするでもオドオドするでもなく、クスクスと声を出して笑った。
予想外の事に2人の言い争いは自然と止まる。呆気にとられた顔で見詰められている事に気付いた月も笑うのを止め、決まり悪そうにはにかんだ。
「ごめんなさい。詠ちゃんと一刀さん、すごく仲が良くなったから嬉しくて……」
「なっ、何言ってるのよ! ボクがこんなのと仲良くする訳無いでしょ!」
詠は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら否定する。一刀もそう思った。顔を会わせる度に悪態をつかれる今の関係を仲が良いというのなら、それはもう、価値観がおかしい、としか言い様が無い。そんな考えが顔に出たのか、月は少しうつむき加減になって続けた。
「詠ちゃん、一刀さんと話している時凄く活き活きしてるよ? それに、前はもっと刺々しかったもの」
本人にも思い当たる節があるのか、詠はグッと言葉を詰まらせてしまう。そして、横目でチラリと一刀の顔を見た。
『あれだけ罵詈雑言がポンポン出て来るのは、そういう見方もあるか。それに、確かに最初の頃よりはいいかもな』
さっき詠が言った様に、今でこそ仕事絡みなら普通に話す事が出来る様になった。しかし、2人が侍女になったばかりの頃は、公私問わず月に近付いただけで噛みつかれたものだ。
気の強い妹、くらいに思えばいいかな。そんな風に考えていると、彼の頬は自然とゆるんだ。
「何ニヤニヤしてるのよ、気持ち悪い」
一刀のこめかみに青筋が浮かんだ。
詠に構っていると話が進まないので、一刀は笑顔を張り付かせたまま月に尋ねた。
「考え事をしてたみたいだけど、何かあった?」
物憂げな表情をしていた彼女が気になったから声をかけようとしたのだ。詠が隣で文句を言っているが、完全に無視をしておく。
「恋さんとねねちゃん、元気にしてるかな、って思って」
「大丈夫よ。月だって、恋の強さはよく知ってるでしょ?」
詠の返しに月はうなずく。が、その顔は不安そうなままだった。
恋は雪が溶けると、約束がある、とだけ言って西涼を去っていった。一刀は口下手な彼女とほとんど話をしなかったのだが、別れ際に、月を頼む、と言われたのは、まだ記憶に新しかった。ちなみに、音々音はいつも通りに恋の後をくっついていってしまった。
「でも、初めて恋さんに会った時の事、忘れちゃった?」
月と恋が初めて会ったのは、およそ3年前。月が安定郡の太守となって間もない時だ。
その日、地方へ巡察に出た月は行き倒れている少女を見つけた。それが恋だった訳だが、彼女が行き倒れていた理由は病気でも怪我でもなく、ただの空腹だった。人一倍優しい月は、そんな彼女に糧食を分けてやる。だが、その食欲は凄まじく、さすがの月もひきつった笑いを浮かべる程だった。
月でそんな状態なら、詠の罵詈雑言の激しさは推して知るべしだ。しかし、恋の武を目の当たりにし、彼女を召し抱える事を決めたのも詠であった。
「だ、大丈夫よ。多分……」
また、空腹によってどこかで行き倒れているかもしれない。久々に出会った時の事を思い出した詠の言葉からは、先程の様な自信は感じられなかった。
「すまないな、桃香」
「謝らないで。白蓮ちゃんにはお母さんの事もお世話になったし、何より私達親友でしょ? 親友が困っていたら助けるのは当たり前だよ」
申し訳無さそうな顔の公孫賛に対し、桃香は屈託の無い笑顔を向けた。建前や気遣いから出た言葉ではなくではなく、本心だった。
袁紹に敗れた公孫賛は数名の部下と客将である趙雲に守られて幽州を脱出した後、親友である桃香の治める徐州へと落ち延びた。その際に怪我を負い、数日間療養していた。ほぼ完治したところで、公孫賛は城へと出て来たのだった。
そんな彼女達の下に斥候からの連絡が入る。袁紹軍はその本拠地である冀州の東、青州への侵攻を開始した。これは、諸葛亮等の侵攻予測よりもずっと早いタイミングだ。
幽州は公孫賛の無難な統治により、普通の生活が普通に出来る地域だった。そんな為政者を排したのである。占領地政策にしっかりと時間を割くのが常道だ。だが、袁紹は民から搾取するだけ搾取すると、再び進軍を開始したのであった。
遠くない未来にこの徐州にも戦火が及ぶのは明白で、桃香達は急ぎ対策を練るため軍議を始めた。そんな彼女達の下へ、青州の州牧である孔融から使者が訪れる。内容は、袁紹軍の侵攻に対する救援要請であった。
諸将のほとんどは、要請に従うべき、との意見だった。孔融とは同盟を結んでいる訳では無いが、隣接した土地のため交流はある。それに、青州が落ちれば、次は徐州へ侵攻して来るのは間違い無いだろう。その時に劉備軍単独で袁紹軍に勝つのは不可能に近い。孔融軍と共同戦線を張れれば、勝つ可能性はグッと高くなる。徐州を戦場にせずにすむ事もあり、反対する理由は無い様に思えた。
だが、桃香だけは難色を示していた。袁紹軍と戦になった場合の事を考えれば、孔融からの救援要請に応えるべきだ、という主張は彼女にも理解出来る。難色を示す理由はそれ以前、戦い自体を回避出来ないか、と考えていたからだ。
戦になれば民が苦しむ。その事を説けば、きっと剣を納めてくれる。
しかし、袁紹相手にその考えは意味を持たない。彼女にとって庶民の生活など、二の次どころか考える必要の無い物でしかなかった。今回の幽州及び青州への侵攻も、ただただ自己顕示欲を満たしたいがためのものでしかない。
袁紹とも付き合いの長い公孫賛から説得を受け、桃香は寂しげな顔で視線を落とした。1つ大きく深呼吸すると、自分を奮い立たせる様に、ヨシッ、と口に出して顔を上げる。腹は決まった様だ。
「孔融さんの救援要請を請けて、一緒に袁紹さんをやっつけよう!」
勢いよく言い放ち、桃香は立ち上がった。関羽達も返事と共に立ち上がる。
桃香の理想は戦の無い世界。誰もが笑って暮らせる世界だ。その理想を守るためには、自分が否定する戦を行うしかない。矛盾を抱えながらも前に進むしかなかった。
それから3日後、先遣隊の出陣準備を終えた桃香の下へ1人の使者が訪れた。この使者により、桃香の運命は流転する事となるのであった。
麗羽が先に青州を攻めるとはね。袁紹の動きについて報告を受けた曹操は、そう言ってかすかに口角を上げた。助かった、と思った訳では無かった。
兵力では大きく劣るとはいえ、国力ではそれ程ひけはとらない。むしろ、袁紹軍はその兵力に対して国力、つまりは生産力が低すぎる。守りを固めて持久戦に持ち込めば必ず勝てる、と自信があった。
しかし、今という時期に戦いたくなかったのも事実だ。というのも、彼女の目論見通り、皇帝を保護する話が進んでいたからである。このまま皇帝を、ひいては漢帝国を手中に納めるまでは、余計な事に関わりたくはなかった。
しかし、曹操の計画は思わぬ形で崩れる事となった。皇帝が拉致されたのである。
拉致、という言葉は正確ではないかもしれない。外戚の一部が董卓軍の下級士官だった李確、郭氾を引き込んで、皇帝を連れて長安へと強引に遷都をしたからだ。曹操の庇護下に入る事で、権力を失うのを恐れたための強攻手段だった。しかし、曹操からしてみれば拉致と変わらなかった。
曹操の眉間に歯痒さでしわが寄る。すぐにでも長安に乗り込んでいってやりたい衝動に襲われていた。夏侯惇などは乗り込む気満々で、妹の夏侯淵に諫められている始末だ。しかし、今それをする訳にはいかなかった。もしそんな事をすれば、これまで積み上げてきた物が全てふいになってしまう。
「止めなさい、春蘭。これは、まだその時ではない、という事よ。焦る必要は無いわ」
夏侯惇に向けた言葉ではあったが、それは自分自身に対して言った事でもあった。曹操は怒りを押し殺し、再び時が訪れるのを待つよりなかった。
李確と郭氾の両名は董卓軍の将として月に従い、安定から洛陽へと移った。そこで見た都の暮らしは、涼州で育った者達の目には大層眩しく映った。急に洛陽という大都市を治める事になったため、董卓軍は組織の末端にまで目が行き届かなくなり、李確達は軍規を犯して略奪を働いてしまう。すぐに捕らえられた彼等は、軍規に則って処刑される事となった。しかし、直属の上官である霞は2人を処刑する直前、脱走される失態を犯していた。何とか汚名を返上しようと必死に捜索するも、遂に2人を見付ける事は出来なかった。
そうして連合軍が勝利し、諸侯がそれぞれの本拠地に戻った後、2人は洛陽へと舞い戻り、盗賊まがいの事をやっていた。そこを外戚に拾われた訳である。
李確、郭氾共に、最初の内は分不相応な官職に満足して、外戚の駒として彼等の思惑通りに動いていた。しかし、思い上がった2人は近隣の村々で略奪を行い、若い娘を拐う暴挙を行い始める。本来なら手綱を引かなければならない外戚達も、略奪した物の一部を受け取り、むしろ助長する始末。
こうして、正常さを取り戻しつつあったこの国の政治は、さらに混迷の度合いを深めていくのであった。