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第3章-長安編・第2話~小覇王、起つ~

 「くそっ! どうなってんだよ!」


 部隊の先頭で愛馬の1頭である紫燕に跨がる翠。降り注ぐ矢の雨を、彼女は槍を振って叩き落としていく。逃げる敵を追撃した翠は、ものの見事に伏兵にはまっていた。部下達は次々に矢を受けて倒れていく。


 「きゃあーっ!」


 「たんぽぽっ!」


 ついには、翠の脇にいた副将の蒲公英までもが矢を受けてしまう。彼女の悲鳴に、翠は無意識にその名を叫んだ。


 「しまっ……!」


 わずかに集中力が乱れ、1本の矢を落とし漏らしてしまう。しまった、その一言も言い切らない内に、矢は翠の胸に当たった。






 「イテテ……。まったく、ひどい目に遭ったな」


 「ちょっと、お姉様! それはこっちの台詞でしょ!」


 「そうや! ウチが、鷹那の退き方は罠がある、って言うたんを無視して突っ込みよるから、こないな事になんねん!」


 「何言ってんだよ! あたしが、罠ごとぶっ飛ばせばいい、って言ったら、霞だって賛成しただろ!」


 敗戦の責任を擦り付けあう3人。先程の戦いは模擬戦だったため、矢に鏃は付いていなかった。当たれば結構痛いが、余程当たりどころが悪くない限り、死ぬ様な事は無い。胸に矢を受けた翠も、その部分が薄いアザになっているだけだ。


 そんな3人のやり取りを尻目に、勝った一刀達は真面目に模擬戦の内容について意見を交換している。


 「まさか、弩にあんな使い方があるとは思いもしませんでした」


 「まったくね。もっとも、数が少ないから今回の様に引き込まないと効果が薄いけど。でも、その状況を作れれば非常に強力だわ」


 一刀の提案した戦法は思いの外効果が高く、鷹那と詠の評価も上々だった。自信が無い訳では無かったが、2人から太鼓判を押されたのは心強い。その反応に、一刀はホッと胸を撫で下ろした。そんな彼等の向こうでは、未だ言い争いを続ける3人に、琥珀の痛い拳骨が落ちていた。






 その夜、城へと戻った翠は1人で鍛練をしていた。仮想の敵を相手に槍を突き、穂先を払う。雪が溶けたとはいえ、朝晩はまだまだ寒い。にもかかわらず、その度に珠の様な汗が飛び散っている。


 「フッ!」


 息を強く吐き出しながら槍を大きく前に突き出す。イメージの中で相手を倒した翠は、片手で槍をクルクルと回すと緊張を解いた。フーッ、と肺の中の空気を全部吐き出した後、手で汗を拭う彼女に背中から声が掛かる。


 「お疲れ様、翠」


 そこには手拭いと竹の水筒を持った一刀が立っていた。彼から水筒を受け取ると、それを一気に空にする。


 「ちゃんと汗を拭いておかないと風邪ひくぞ」


 そう言いながら、空っぽになった水筒と交換で手拭いを渡す。汗をかいて上気した翠の姿はやけに色っぽく、普段とは違う雰囲気に、一刀はドギマギしてしまう。手拭いで首筋の汗を拭う翠と不意に目が合い、彼は慌てた。


 「あっ……、昼間、大丈夫だったか?」


 「ああ、少しアザになったけど、あれくらいは日常茶飯事だ。それより、まさかお前に負けるなんてな」


 自分の事ながら、情けなさそうに翠は返す。しかし、一刀が気にしていたのはそれではなかった。


 「いや、それよりも、琥珀さんに殴られた方は? 物凄い音がしてたけど」


 ああ、と返事をすると、昼間の事を思い出してげんなりした顔をする翠。頭にそっと手を当ててみれば、そこには大きなたんこぶが出来ていた。


 「一刀はまだ、殴られた事は無いんだな。気を付けろよ、母様の拳骨は岩より硬いから。あれなら、鉄鞭で殴られた方がまだましだ」


 さすがにそれはないだろう。一刀はそう考えながらも、あの音を思い出して身震いしてしまった。


 「……なぁ、聞いてもいいか?」


 一刀がそんな事を考えていると、翠がおずおずと口を開いた。その表情は真剣、というよりも、何か思い詰めているかの様であり、どこか物悲しさをはらんでいた。真剣な顔なら、戦場でもそれ以外でも何度となく目にしている。しかし、今彼女が見せている表情は、一刀には覚えが無かった。彼は思わず頬を引き締め、翠に向き直った。


 「お前は、どうするんだ?」


 自然に、えっ、と聞き返してしまう程、あまりにも漠然とした質問だった。しかし、それ以上聞き返す事がはばかられる雰囲気を出され、一刀は何とか真意にたどり着こうと頭を巡らす。だが、結局は翠の方が痺れを切らし、足りなかった言葉を補い出した。


 「前にあたしに言ったろ? ここに来たのには理由があるはずだ、って。もしそれが果たされたら、お前はどうするんだ? ……天の国に帰る、のか?」


 言葉を省かれ過ぎていて、そんなつもりで言ったのだとは思わなかった。


 全ての物事には意味がある。一刀が小さい頃より祖父に言われていた言葉だ。だから、一刀は自分がここにいる事にも意味がある、と考えている。理由や使命といった言葉でもいいだろう。だが、彼はまだそれを見付けられずにいた。自分がしなければならない事どころか、自分に何が出来るのかすら分かっていないのだ。


 「まだ理由も見付けられてないしな……。それに、初めての時に言ったと思うけど、俺は寝て起きたらここにいたんだ。どうやってここに来たのかも、どうすれば帰れるのかも分からない。一生ここにいるのか、それとも、今日寝て起きたら戻っているのか」


 だから、彼は戻る事を諦めていた。戻れるのかどうか、そんな不確かなものを期待するより、この世界で精一杯生きていく方を選んでいた。


 「……じゃあ、もし戻る方法が分かったら、その時はどうするんだ?」


 だから、その瞳に不安の色を浮かべる翠の問いにも、一刀は即答する事が出来た。


 「戻らないよ。だって、ここが俺の家だから」


 その言葉を聞いた翠は、心の底から安心した。もし帰ると言われたらと思うと、足が震えるくらい怖かった。しかし、それでも聞かずにはいられなかった。一刀の思いが分からない方が不安だったから。


 「……もしかして、俺が帰る、って言っていたら、寂しいとか思った?」


 一刀の問いは、まるで翠の心の内を見透かした様だった。図星をさされた彼女の顔は、月明かりの下でもそうだとはっきり分かる程、耳まで一気に赤くなった。


 相変わらず、思った事がすぐ面に出るな。翠の様子を見ながら、一刀はそんな風に感じていた。琥珀の後を継いで一国の主となるには不安が大きい。表と裏を使い分ける必要がある外交など、不利になる事が多すぎるからだ。しかし、1人の女性として見た場合、その純真さはとても魅力である。一刀が彼女を好ましく思う理由の1つもそれだった。


 「なっ……、そ、そんな訳あるか! か、母様が……、そう、母様がお前の事を頼りにしてるからだ。あたしは別に、お前の事なんか……。だ、だから、勝手に変な事考えんな!」


 翠は派手にどもった後、恥ずかしさを吹き飛ばす様に大声で叫ぶ。同時に手にしていた手拭いを一刀に向かって投げ付けると、その場から逃げ出す様に駆けていった。小さくなる背中を見ながら、からかいすぎたかな、と思うとともに、翠の香りが残る手拭いに少し鼓動が早くなる一刀だった。






 そんな平和な西涼とは違い、大陸の東部では戦乱の炎が吹き出していた。その中心にいるのは袁家の2人、袁紹と袁術である。


 冀州と并州を治める袁紹はその北、公孫賛の統治する幽州へと攻め込んだ。公孫賛は白馬義従と呼ばれる白馬だけで編成された、涼州兵にも劣らない強力な騎兵隊を有しており、兵の質では公孫賛軍が勝っている。だが、兵の数は袁紹軍が圧倒的に上回っていた。さらには北方の異民族、烏桓族も袁紹の動きに呼応するかの様に侵攻してきたため、公孫賛は大した抵抗も出来ずに敗北する事となった。彼女は趙雲と数名の近衛兵に守られて幽州を脱出するしかなかった。


 一方、揚州の州牧となった袁術であったが、その支配には問題があった。揚州は西から東に大河、長江が流れている。袁術が居を構えている寿春を含む長江北部は、彼女の支配下にあった。だが、長江南部はそうではなかった。数多くの豪族がひしめき合うその土地には、袁術の支配も及んでいないのだ。そこで、彼女は客将である孫策に江東の平定を命じるのだった。


 「……という訳じゃ。孫策よ、妾に従わぬ長江南部の豪族共を懲らしめて来るのじゃ」


 袁術が孫策に江東平定を命じたのは、ただ単に彼女にとって使い勝手のよい駒だから、というだけではない。


 孫策の母、孫堅は存命の頃、江東一帯を支配下においていた。弱くなったとはいえ、孫家の影響力はまだ残っている。それを利用すれば、あまり時間がかからずに平定出来るだろう。張勲からそんな進言を受けたためだった。


 対する孫策にも、この命令はまたと無い好機であった。袁術の監視下を離れて江東に赴く。これは独立する絶好の機会なのだ。


 張勲が考えている以上に孫策と江東の繋がりは強い。孫堅が死に、孫策が袁術の庇護下に入る時、軍師である周瑜の策で配下の多くは江東の地に潜伏した。彼等は水面下で孫策支持のネットワークを広げ、いつ孫策が旗揚げしても支援出来る様、その牙を研いでいるのである。


 しかし、孫策が行動を起こすためには1つ問題があった。


 「分かったわ。なら、私の妹を連れて行ってもいいかしら?」


 「な、なんじゃと!?」


 孫策の言葉に、袁術が思わず大声を上げてしまうのも無理は無かった。孫策の妹である孫権は、表向きには袁術に保護されている事になっている。しかし、実際のところは孫策が反旗を翻すのを防ぐための人質として、袁術によって幽閉されているに過ぎない。それを解放しろ、というのは、いくらおつむの弱い袁術でも危険な事であると分かった。


 当然ね。袁術の表情から答えを察した孫策はそう思い、相手よりも先に口を開く。


 「小さな頃から母と共に戦場を渡り歩いてきた私と違って、あの子は江東で育ったの。だから、私より地理に詳しいし顔も広いわ。きっと役に立つんだけど……」


 二心が無いとアピールする様に、努めて笑顔で明るく言う。玉座に座る袁術は、脇に控える張勲をチラリと見上げる。だが、彼女が孫策の言葉を信じるはずがなかった。


 「駄目ですよ、孫策さん。それでもし妹さんに何かあったら、お嬢様が孫堅さんに顔向け出来なくなってしまうじゃありませんか」


 建前とはいえ、孫権を保護している立場にある者の言葉としては筋が通っていた。しかし、孫策は張勲とやり合うつもりはない。袁術の首を縦に振らせてしまえばいいのだ。そして、そのために何が一番効果的なのかも知っている。


 「そう、なら仕方無いわ。でも、それだと大分時間がかかってしまうわね。……そういえば、貴方の従姉妹の袁紹が幽州を攻め落とした、と数日前に耳にしたんだけど。あまりモタモタしていると、どんどん差が開いていきそうね」


 そう言うと、孫策は一礼して袁術の前から下がろうとする。その背中に向かい、待つのじゃ、と声が掛けられた。足を止めた孫策は、首だけで振り返る。その視界には、眉間にシワを寄せて悩む袁術の姿が映った。


 袁術の持つ袁紹への激しい対抗心を利用する孫策の考えは、見事に的中した。こうなってしまえば、張勲の諫言も届かない。


 「……認めるてやるのじゃ。しかし、一刻も早く長江の向こう側を制圧するのじゃぞ。よいな、孫策!」


 仕方無いなぁ。張勲は袁術を見ながら誰にも聞こえない声で呟くと、笑顔で孫策の方に向き直った。


 「でしたら、孫策さん達だけでは大変でしょうから、こちらからも将兵を出しますね」


 「あら、ありがとう、張勲」


 孫策も負けず劣らずの笑顔で返す。だが、2人共目だけは全く笑っていない。孫策の監視、という思惑を抱く張勲。対する孫策は、思惑を見抜いた上でその案を了承していた。事を起こす時に殺せばいいだけ。そんな風に考えていた。






 「雪蓮姉様!」


 「久しぶりね、蓮華。……少し太った?」


 「な、何を言われるのですか! 久しぶりに会えたと言うのに……!」


 姉妹の感動的な再開のはずが、孫策の一言でぶち壊しになる。顔を真っ赤にして怒る妹、孫権に対し、姉である孫策は苦笑い混じりに謝った。


 孫権、字は仲謀。江東の虎と呼ばれた孫堅の次女である。姉と同じ鮮やかな色の髪と褐色の肌を持つ少女だ。


 孫策が謝っても、孫権はまだぶつくさ文句を呟いている。しかし、そんな様子もお構いなしに、孫策は妹の体を包み込む様に優しく抱き締めた。


 「ごめんなさい、苦労をかけたわね」


 急に抱き締められ、孫権は一瞬泡を食う。恥ずかしさで顔を紅潮させたものの、姉の香りと温もりは遠い日の母の思い出を呼び起こし、彼女の心に安らぎを与えた。


 母の才を色濃く継ぎ、武に天才的な才能を見せる姉とは違い、孫権はいくら鍛練を重ねてもあまり腕は上達しなかった。その武力だけでなく、皆をまとめる統率力も、他人を惹き付ける魅力も、人の上に立つ者に必要な才能は全て姉の方が上である、と孫権は考えていた。強い尊敬と憧れを抱くと共に、才能溢れる姉にわずかに嫉妬もする。そんな思いに気付くたび、孫権は自己嫌悪に陥るのだった。


 しかし、今の彼女にはそんな惨めな思いは欠片も無い。姉の無事を心から喜んでいる自分に嬉しくなり、孫策の体を抱き締め返した。


 「いえ、姉様に比べれば……。少しおやつれになったのでは?」


 「そう感じる、って事は、貴方やっぱり太っ……」


 孫策の言葉を遮る様に、姉様、という孫権の怒鳴り声が飛んだ。そんな2人の仲のよいやり取りを、周瑜は昔を懐かしむ様に微笑みながら見詰め、黄蓋は声を上げて笑いながら眺めていた。

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