第3章-長安編・第1話~平穏な日々~
一刀達が西涼に帰ってからおよそ1ヶ月後。冷たい風が荒野を吹き抜ける中、琥珀は安定の街に来ていた。
反董卓連合の解散後、連合に参加した諸侯には、それぞれ褒賞が与えられていた。琥珀には、月が解任されて中央から代理が派遣される状態になっていた安定郡の太守の任が与えられた。武威郡太守と兼任だ。
そのため、彼女は翠と一刀、霞と清夜を伴って安定を訪れた。さらに、馬車の中には、だいぶ元気になった月と詠の姿もあった。引き継ぎ等を考えれば、2人がいた方が好都合だったからだ。
一通りの事務処理が終わると、琥珀は月と清夜と共に城を出た。彼女達を安定まで連れてきた1番の目的を果たすために。
街の外れにある1本の大木。その前で3人は足を止めた。
「お父様、お母様、ご無沙汰していました。やっと……、やっと帰って来られました」
しゃがみこんだ彼女の前には、30センチメートル四方程の石がある。流行り病で亡くなった、月の両親の墓石だった。
洛陽での苦しい日々や、父から受け継いだ安定の街を守れなかった申し訳なさなど、様々な思いが胸の中に去来し、月の瞳からは自然と涙がこぼれた。その脇に立つ2人にも特別な思いがあった。
『烈砂様、奥方様、申し訳ありません。お2人からあれ程の恩を受けたにもかかわらず、それに報いる事が出来ませんでした。これより先は、私の仲間と共に、必ずや月様をお守り致します』
『烈砂、夕、安心しなさい。月の事は、私がちゃんと面倒を見るから。うちの娘よりしっかりしてるんだもの、大丈夫よ』
琥珀達が墓参りをしている間、一刀は詠と城内にある書庫や武器庫を回っていた。そこで、一刀は見慣れない物を見つける。
「なぁ、詠。これって……?」
木製のパーツがいくつも組合わさった銃の様な物を手に、一刀は振り返った。
「それは弩よ。て言うかあんた、一応でも軍師なんでしょ? 弩も知らないで務まると思ってんの?」
この時代に対してある程度の知識を持つ一刀には、これが弩であるだろうと予測は出来た。あくまで念のために聞いただけなのだが、その言われ様に若干傷付いた。
弩、というのは、現在のクロスボウにあたる飛び道具だ。この時代においては、弓以上に普及している最もポピュラーな武器である。弓の様にシンプルではない造りの弩は、製造にも維持にも弓より高いコストがかかる。にもかかわらず普及しているのには、大きな理由があった。弩は扱いを習熟するまでに必要な時間が、弓と比べて圧倒的に短くて済む。その上、性能が個人の技量に大きく左右されない利点がある。命中精度はともかくとしても、有効射程距離は弓よりも長く安定する。これは軍を指揮する者にとって、非常に戦力の計算がしやすかった。
しかし、欠点も存在する。連射性能の低さだ。弩は弓の様に両手だけで弦を引く事が出来無い。足で弩を踏んで固定し、上体を使って弦を引く様に設計されている。そのため、再度矢をつがえるのには弓より長い時間が必要であり、馬上での再装填も不可能であった。
一刀に弩を見た経験が無かったのはこのためだった。馬上で扱うのであれば短弓の方が使い勝手がよく、馬騰軍に弩は一挺も無かった。董卓軍でも拠点防衛用にある程度の数があるだけだった。
「これって、もらっていってもいいのか?」
「もらうも何も、琥珀様の領地でしょ。あんた、何言ってんの?」
心底呆れた様に盛大なため息を吐きながらも、詠は手にした目録に持ち出す物として弩を書き込んだ。
反董卓連合軍が解散した後、全ての諸侯は洛陽から撤収していた。献帝を擁立しようとする者は誰もいなかった。第2の董卓となる事を恐れたのはあるだろう。それに、皇帝を助ける事に利は無しと判断した者もいただろう。ともかく、幼い皇帝には何の後ろ楯も無くなっていた。
しかし、まだ漢帝国に利用価値を見いだしている者がいる。陳留の太守からエン州の州牧へと出世した曹操だ。彼女は本拠地である陳留の城内にいた。
「無様なところをお見せして申し訳ありませんでした、華琳様」
「勝敗は兵家の常。いつまでも気にする事は無いわ、春蘭」
玉座に座る曹操と、その前にひざまずく夏侯惇。恋に左目を射抜かれた後、医師から安静を言い渡されていた夏侯惇は、久しぶりに甲冑を身に付けて出仕していた。彼女の失われた左目には、蝶の姿を模した眼帯が付けられている。
「ところで、献帝の件はよかったのですか? 袁紹も手を引いた今が好機では……?」
「あら、珍しいわね。貴方が戦に関係無い事に口を出すなんて」
「も、申し訳ありません」
薄い笑みを浮かべる曹操の言葉に、夏侯惇は顔色を失った。だが、曹操は自分のやり方に異を唱える様な真似をした夏侯惇を責めた訳では無い。単純に、彼女が政治にかかわる事に意見を述べたのが珍しかったのだ。その事を伝えようと曹操が口を開くより早く、隣に立つ少女が声を上げた。
「あんた、バカじゃないの? そんな簡単に事が運ぶ訳無いでしょ。その傷口から、血と一緒に脳味噌まで流れたんじゃない?」
「何だと、桂花!」
栗色の柔らかそうな髪の毛を猫耳の様な形のフードで覆った少女は、その可愛らしい外見とは正反対の毒を吐いた。しかも、夏侯惇が殺気をはらんだ目で睨み付けても、怯むどころか見下した様に平然と受け流している。大した度胸の持ち主だ。
彼女の名は荀或、字は文若。曹操が反董卓連合に参加していた折には陳留の留守居役を任された、信任厚い軍師である。しかし、才能はともかく、その性格には大きな問題があった。
「一体何が問題だと言うのだ」
「何で、私があんたなんかに教えなきゃいけないのよ。脳味噌の足りない頭で少しは考えてみればいいでしょ」
声を張り上げて言い争いを始める2人。久しぶりに繰り広げられるやり取りを、一同はいつもの事と苦笑いを浮かべながら見ている。
そんな中、最近仕官したばかりの少女だけが、あまりの剣幕にオロオロしていた。その隣にいる許緒が、少女を落ち着かせようと声を掛ける。
「大丈夫だって、流琉。いつもの事だから」
「えっ? う、うん……」
頷きはしたものの不安が消えた様子は無く、少女の眉尻は下がったままだ。
彼女の名は典韋。黄緑色の短い髪にリボンを付けたた、まだ幼さの残る少女である。許緒の幼馴染みで、彼女の紹介で曹操に仕える事となった。
典韋の心配をよそに、夏侯惇と荀或の言い争いはさらに激化していく。最初の内は夏侯惇の回復を嬉しく思い、苦笑いを浮かべるだけにしていた曹操だが、さすがに辟易としてきた。
「桂花、春蘭にも分かる様に説明しなさい」
「はい、華琳様! ……まったく、一度しか言わないから、しっかりと聞きなさいよ」
荀或は、まるで飼い主にしっぽを振る犬の様に曹操の言葉に答えたものの、夏侯惇に向き直ると完全に見下した顔を見せ、渋々説明を始めた。
大半の諸侯とは違い、漢にはまだ利用価値がある、と曹操は考えていた。いくら人民の心が離れようと、この大陸を治めているのは漢帝国であり、その皇帝だ。これを無視して天下を目指せば、国に逆らう反逆者になる。そうなれば、仮に天下を統一しても、簒奪者として歴史に名を残す事になってしまう。例えそれが、民のため、という大義を掲げたとしても、だ。
そうならないためには、皇帝より禅譲される必要がある。その近道として、皇帝の保護があった。まだ幼い献帝を擁立し、傀儡として実権を握る。そうして国を立て直し、自分の力を内外に見せつけ、その上で禅譲を迫る。それが曹操の腹積もりだった。
そこで問題になるのが、どう献帝を擁立するか、だ。エン州の州牧とはいえ、なったばかりの彼女に大きな力は無い。今の状況で自ら手を上げれば、今度は反曹操連合が結成されかねなかった。董卓の轍を踏まないためには、献帝の方から保護を求める、という構図が必要になる。そして、遠からずそうなると、曹操は読んでいた。
漢帝国、ひいては献帝が持つ兵力はさして多くなく、練度も低い。その上、兵を率いる事の出来るまともな将がいない。十常侍が宮中を仕切っていた頃に、心ある家臣達は皆地方へと飛ばされ、皇帝の傍から遠ざけられたためだ。結局、どこかの勢力の保護を受けなければ立ち行かなかった。
では、どの勢力が、という話になる。まずは、現時点での最大勢力である袁紹と、その従姉妹である袁術だが、この2人は無いと曹操は考えていた。献帝が董卓を寵愛していた事は、彼女の耳にも入っている。であれば、董卓を殺した遠因である2人を頼る事は無い。
荊州牧の劉表は名士として名高いが、天下を狙う野心も国政に携わる度量も無い。それが曹操の評だった。
西涼の狼として勇名を轟かせる琥珀も、献帝から頼られる事はあり得なかった。異民族の混血である彼女の庇護を受けるなど、漢帝国の皇帝としてあってはならない事だからだ。
後は、謁見した時に献帝の覚えのよかった桃香だろう。遠縁とはいえ血縁者である事に、献帝は親近感を抱いたらしい。しかし、彼女の勢力は極めて小さい。それに、諸葛亮と鳳統の2人が付いていて、火中の栗を拾う様な真似をさせるはずが無かった。
最後に曹操だが、彼女の場合、陳留郡の太守としての実績があった。黄巾の乱で大きな手柄を立て、反董卓連合でも虎牢関を落として名を上げている。さらに、曹操には宮中とのパイプがあった。彼女の祖父が宦官だったためだ。そして、彼女が州牧を務めるエン州は、洛陽のある司隷の東側に接しており、地の利もある。全てが曹操にとって有利であった。
自ら何かする事無く、望む物が向こうからやって来るのを待てばよい。そんな状況だった。
「……という事よ。分かったの?」
「ああ、もちろんだ。で、秋蘭。結局、どうすればいいのだ?」
「全く分かってないじゃないの! あんたに説明した時間を返しなさいよ!」
再燃する2人の言い争いに曹操の雷が落ちたのは、すぐ後の事だった。
ともかく、曹操は本拠地となったエン州の安定と発展に努め、新たな人材の発掘に傾注していく。そうして、楽進や郭嘉など、後の覇道を助ける有為の人材を数多く得るのだった。
褒賞をもらったのは琥珀や曹操ばかりではない。冀州牧である袁紹は、その隣にある并州の牧も兼任する事になり、南陽郡の太守だった袁術は大陸の南東、揚州の牧となった。幽州北平郡の太守だった公孫賛は幽州牧へと出世している。
そんな中、一番の出世頭となったのは桃香だろう。平原県の県令に過ぎなかった彼女は、徐州の州牧へと一足飛びの出世を果たす。一気に統治する範囲が広がった事で今までに無かった数多くの問題が山積するが、彼女は仲間と協力し、少しずつ暮らしをよくしていった。
この地に自分の理想、皆が笑って暮らせる国を造ろう。そう誓いを立てて政に励む桃香は、ある程度状況が落ち着くと、幽州にある故郷の村から母親を徐州へと呼び寄せる。他にも、義勇軍として旗揚げした当初から付いて来ている者の家族も、希望する者は呼び寄せた。
本来、住民の流出は為政者にとって避けたい事である。しかし、幽州牧となった公孫賛は桃香の親友であったため、喜んでそれを認めてくれたばかりか、趙雲率いる護衛隊まで出してくれた。
「ありがとう、星ちゃん。白蓮ちゃんにもお礼を伝えてね」
とんぼ返りで幽州へと戻る趙雲を、桃香はそう言って見送った。
一刀達が安定から武威に戻ってから数日後、雪が街を覆い、辺り一面を真っ白に変えた。これ程積もった雪を見た事の無い一刀は子供の様にはしゃいだものの、3日で飽きてしまった。珍しくなくなれば、ただ寒くて歩きにくいだけだ。現代から比べれば満足な暖房器具も無い中、震える体を我慢しながら一刀は会議に参加していた。
「……やっぱり、工兵隊の様な物は必要だと思います」
部隊編成について一刀が述べる。騎兵が大部分を占める馬騰軍は、攻城戦に於いてほとんど有効な手段を持たない。その弱点を補うため、新たに工兵隊を新設したい、というのが一刀の考えだった。
「そんなの必要無いだろ。一体、どこの城を攻めるつもりなんだよ、お前は?」
「こちらから攻めなくても、敵に城を奪われてそれを奪還する、なんて状況は十分考えられるだろ?」
大きなテーブルを挟んで相向かいに座る翠の反対意見に、一刀は即座に反論した。
「でも、敵って誰だよ? 匈奴の奴等か?」
「それもある。けど、異民族だけじゃない」
黄巾の乱と反董卓連合、2つの大きな戦乱によって、漢にはすでに昔日の力が無い事がハッキリした。である以上、力のある諸侯がおとなしく漢帝国に従っている訳が無い。大陸の支配という野心を持った者達による群雄割拠の時代は、すぐそこに迫っているのだ。いくら琥珀が野心を抱いていなかったとしても、この涼州にも戦火が飛び火するのは間違いなかった。
「確かに一刀君の言う通りでしょうね。……いいわ、貴方に任せましょう。詠に色々と教えてもらいながらやってみせなさい」
はい、と返事をして一刀は椅子に腰を下ろす。
「ところで、その詠と月はどうしたの? 今日からのはずでしょ?」
琥珀が尋ねた様に、体調の回復した月と詠は、今日から一刀付きの侍女として働く事になっていた。
詠は軍師として一流の知識をもっているし、月は太守としての経験があるだけに内政には長けている。公に死んだ事になっている2人だが、一刀の侍女として傍にいればその才を存分に奮える。しかも、2人が傍にいる事で、一刀自身の成長も期待出来た。
確かに遅いな、と考えていると、部屋の外から足音が聞こえて来る。バタバタと聞こえる足音はどんどん大きくなり、部屋の前で止まったかと思うと、勢いよく扉が開かれた。
「ちょっと、あんた! 何なのよ、このヒラヒラした服は!」
扉を開けた人物は、肩で息をしながら怒鳴った。そこにいたのは詠だったが、その服は董卓軍の軍師をしていた時の戦装束でも、武威に来てからの文官服でもない。黒と白のミニのエプロンドレスで、腰には大きなリボンを結んでいる。俗に言うメイド服だ。
さらにパタパタと足音が聞こえると、遅れて月も姿を現した。
「ま、待って、詠ちゃん」
膝に手を付いて息を整える月。彼女の服も以前の様な厳かな雰囲気の物ではなく、詠と同じデザインのメイド服だった。ただ、詠の服よりスカートの裾が長く、ストッキングの色も、詠の黒に対して月のは白になっている。
「それは俺がいた国の侍女が着る制服で、メイド服って言うんだ。……うん、2人共、よく似合ってるよ」
一刀は素直な気持ちを口にした。へぅ、と恥ずかしそうに呟いてうつむく月。一方の詠も照れて頬を赤くするが、その思いを誤魔化す様にさらに大声を上げる。
「な、何言ってんのよ、あんたは! 月はともかく、ボクなんかにこんな可愛い服が似合う訳無いでしょ!」
「そんな事あらへんよ。よう似合うとるで。お清かてそう思うやろ?」
霞はフォローに入るものの、その顔は完全にニヤケており、詠から睨み付けられた。鋭い眼光から逃れようと、霞は清夜に話を振る。
「ええ、霞の言う通り、よく似合っておいでです、月様」
「あ、ありがとうございます、清夜さん」
清夜の誉め言葉に、月は嬉しそうに微笑んだ。
一刀に真名を預けた後、清夜は霞や翠とも真名を交換していた。どうやら琥珀すら知らなかったらしく、この話を聞いた時の彼女の驚いた顔は、一刀の中でとても印象に残っている。もっとも、お清、という呼ばれ方には、最初はとても抵抗があった様だが。
「何サラッとボクの事を無視してんのよ!……琥珀様も何か言ってください。ボク達は死んだ事になっているのに、こんな派手な服を着てたら目立ってしまいます」
余程メイド服を着るのが嫌なのか、詠は琥珀に懇願する様な眼差しを向けて訴えた。琥珀自身もメイド服に袖を通すのは嫌だ。しかし、他人が着るなら話は別である。可愛らしい服を着ている姿を見るのは大好きな琥珀だった。
「確かにそうね……。なら、こうしましょう。めいど服、だったかしら? それを城で働く侍女の制服にするわ。それなら、2人だけが目立つ事も無くなるし」
「琥珀様~……」
最後の望みが断たれた詠は、深いため息を漏らして落胆した。そんな彼女に月が声を掛ける。
「私はこの服好きだよ? 可愛いし、何より詠ちゃんとお揃いだから」
結局、月の一言で、詠は喜んでメイド服を着る事となった。
辺り一面を覆う銀世界の様に、この国は久方の平穏に包まれていた。だが、春を告げる雪解けと共に、大陸中は争乱に包まれるのだった。