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第2章-洛陽編・第11話~満月~

 洛陽を発った馬騰軍。彼等が西涼を離れてから、すでに2ヶ月が経過していた。やっと故郷に帰れるとあり、兵達の表情は一様に明るい。あれ程大きかった洛陽の街もみるみる小さくなり、今では地平線の向こうに姿を消してしまっている。


 休憩も終わり、再び駆け出した直後、蒲公英は一刀の傍へと馬を寄せた。いつも見せるいたずらっぽい笑みに、一刀は若干身構えた。この笑みを見せる時は、大抵引っ掻き回されて悪い目に遭うからだ。


 「もう、たんぽぽで良ければ、いくらでもしてあげるのに」


 いきなりそう言われても、一刀には何の事かさっぱりだった。ポカンとした顔をする一刀に向かい、蒲公英はさらに続ける。


 「星姉様から聞いたよ。関羽さんと熱い抱擁を交わしていた、って」


 「なっ……!」


 一刀の口から思わず声が漏れた。一体いつの間に趙雲と真名を許し合う仲になったのかは知らないが、一番知られたくない人物に知られてしまったのは確かだった。蒲公英の口元に手を当てて笑う顔が、趙雲の人を小馬鹿にした様な笑みとダブって見えた。


 このやり取りが聞こえていたのだろう。その時の事を思い出した翠が、少し離れた位置から一刀を睨む様に見ていた。言い訳を考えるのに必死な一刀は彼女の態度に気付かない。逆に、それに気付いた蒲公英は、翠まで巻き込んでからかい始める。


 「たんぽぽなら抱擁だけじゃなく、それ以上してもいいんだよ? それとも、たんぽぽよりもお姉様の方がいい?」


 「なっ、何を言ってるんだ、たんぽぽっ! そそ、そんな事、出来る訳無いだろ!」


 いきなり話を振られた翠は、先程の一刀以上に狼狽する。その顔は耳まで真っ赤だ。


 途端に賑やかになる3人へ向かい、部隊の先頭を駆ける女性が大声を上げる。


 「何をしているんだ、お前等! もたもたしている暇など無いのだぞ!」


 それは華雄だった。あばらにヒビが入っている彼女だが、まったくそんな様子は感じられない。本来なら、痛みで馬を走らせる事など出来るはずはないのだ。だが、西涼に帰れば董卓に会える、との思いが彼女から痛みという感覚を忘れさせていた。


 洛陽から武威までは、多少急いだところで到着が早まる様な距離ではない。実際、来る時は1ヶ月程の時間を要していた。その時と違い最短ルートを通れるとはいえ、それでも20日間位はかかるだろう。しかし、それを言って聞く華雄ではない。3人は大人しく彼女の言葉に従い、馬の速度を上げるしかなかった。






 「やっと、帰って来たな……」


 武威の街が遥か彼方に見える小高い丘の上で、翠は感慨深げにそう呟いた。3ヶ月もの長い間この街を離れたのは、彼女にとって初めてだった。その横では、こちらも長期間離れるのが初めての蒲公英が、翠と同じ安心した様な微笑みを浮かべていた。そして、もう1人。一刀も2人と同様にホッとした表情を見せている。


 小さな頃からここで暮らしている翠達とは違い、一刀はまだ数ヶ月しか暮らしていない。それでも武威の街は、一刀にとって故郷と呼べる存在となっていたのである。


 ここから見える武威の街は、3ヶ月前と変わっていない。だが、吹き抜ける風はその時とは違い、わずかに冬の匂いをはらんでいた。






 武威の城中、ある一室の扉が勢いよく開け放たれた。


 「ただいま、母様!」


 それと共に翠の元気な声が飛ぶ。彼女の視線の先には、椅子に腰掛ける琥珀の姿があった。娘の帰りを待ちわびた母親の顔を見せる琥珀。しかし、安堵の表情はすぐに消えてしまい、呆れた様な顔へと変わった。


 「おかえりなさい、翠。……にしても、もう少し静かに入って来れないのかしら?」


 まったく、といった感じでため息を吐く。帰還した早々小言をもらった翠の顔は、げんなりしつつもどこか嬉しそうだった。


 いくら一騎当千の猛将とはいえ、中身はまだ17歳の少女である。威厳と優しさを併せ持つ母に会えて、ホッとしているのだろう。それに、武人として尊敬する母の名代として、多くの諸侯と交渉を持ったのだ。少なからず重圧を感じていたはずだ。


 「たんぽぽもよくやってくれたわ。それに、一刀君も。2人のお守りは大変だったでしょう?」


 その言葉に、一刀は、いえ、とだけ答え、曖昧な笑みを見せた。2人を差し置いて独断専行をしたのは彼の方で、むしろ彼女達の方が苦労をしたろうから。


 「……馬騰殿、月様はどちらに?」


 先程からキョロキョロと部屋の中を見回している華雄が尋ねる。確かにその通りだった。張遼と呂布、陳宮の姿はあるが、董卓と賈駆はここにはいない。翠達も言われて初めて気が付いた。そして、もう1つ気付く。董卓の名前が出た瞬間、そこにいる者達の表情が沈んだのだ。


 「おい、張遼! どういう事だ!?」


 華雄も回りの雰囲気が変わった事に気付いたらしい。一番近くにいた張遼に対し、つかみかからんばかりの勢いで問い詰める。しかし、張遼は視線を逸らして答えようとはしない。ラチが明かない状況に、痺れを切らせた華雄が肩をつかんだ時だった。


 「待ちなさい、華雄。月のところに案内するわ。翠、貴方達も」


 琥珀はそう言って立ち上がる。険しい表情で華雄達の脇を通ると、そのまま扉まで歩き、振り返る事なく部屋から出ていってしまう。その後に続く華雄と翠達。さらには、張遼達までもが共に部屋を出た。


 琥珀の背中を見ながら歩く一刀には、今のこの状況は意味が全く分からなかった。董卓と賈駆は無事に洛陽から脱出出来た、と聞いていた。しかし、この雰囲気は2人に何かあったとしか思えない。その隣では、翠と蒲公英が同じ様に神妙な面持ちでいる。はっきりとした事は分からないが、ただ事ではない空気は感じている様だ。


 やっぱり俺はいいです。そう言って逃げ出したい衝動に駆られるが、とても言い出せる訳も無く、一刀は黙って付いて行く事しか出来なかった。


 そうこうしている内に、琥珀はある部屋の前で足を止めた。そこは賓客や中央からの使者など、特別な相手を泊めるための客室だった。取手に手を掛けた後、琥珀はわずかに間を置いてから扉を開けた。


 大きな窓からは陽光が射し込み、ベッドの天蓋に反射してキラキラと光を放つ。備え付けられている調度品も、一目見て高価だと分かるものが置かれていた。


 天蓋付きのベッドの脇に置かれた椅子に座る少女は、扉の開く音で振り返る。そこにいるのが琥珀だと気付くと、少し慌てた様子で立ち上がり礼をする。琥珀はそれを手で制し、座らせた。


 「……どうかしら、詠?」


 部屋の中にいたのは賈駆だった。だが、一刀は以前会った時の様な気丈な感じを受けないでいた。覇気が無く、どこか疲れた感じの賈駆は、いえ、とだけ言って首を横に振り、再びベッドの方へと向き直ってしまう。


 琥珀に促され、ベッドに近付く華雄。その足取りは重く、後ろに立つ一刀にも緊張が伝わってくる。


 「……ゆっ、月様っ!?」


 ベッドの脇に立った華雄は、ビクッと肩を震わせた後、董卓の名を叫んでその場に崩れ落ちてしまった。そのままベッドに手を掛けうなだれる。一刀からは、わずかにその肩が震えているのが分かった。その様子に、彼等はそれ以上近付けなくなってしまう。


 「……どういう事だ、賈駆。一体これは、どういう事なんだ!」


 「華雄将軍も知っているはずです。連合が結成された頃から、月があまり食べ物を口にしなくなった事を」


 ベッドに手を掛けたまま、隣にいる賈駆を見上げる様に華雄は睨む。一方の賈駆はベッドの上に視線を落としたままだ。


 董卓が賈駆の反対を押し切ってまで何進の檄文に応じたのは、乱れた政治によって苦しむ民を救うためだ。宦官と外戚の権力争いを早期に終結させる事が、庶民の暮らしの安定に繋がると考えたからだ。宦官十常侍と外戚何進は図らずも共倒れとなり、これで平穏な日々が訪れる。反董卓連合軍が結成されたのは、まさにその矢先の事だった。


 自分の存在が大規模な戦の引き金になった。この事実は、彼女の心に大きな影を落とす事となる。無論、彼女に非がある訳では無い。責められるとすれば、私欲に溺れ、無為な戦を起こした連中であるし、そもそも、漢帝国の力と威信をここまで落とした者達だ。しかし、その事をいくら伝えてみたところで、董卓が自分を苛めるのを止める事はなかった。


 優しいが故に自分を追い詰めてしまった董卓。そのせいで次第に食が細くなり、西涼に着いてからはほとんど何も口にしなくなっていた。


 「なぜだ……。なぜ、お前が付いていながら……」


 「……ボクだって、何とか出来るならしたいわよ! でも、月が食べてくれないんじゃ、どうしようも無いじゃない……」


 当然、この時代に点滴の様な物は無い。董卓の傍にいても、賈駆には日に日に衰弱していく彼女をただ見ている事しか出来なかった。彼女の瞳からは無念の涙が零れている。それを見ては、華雄もそれ以上口を開く事は出来なかった。


 「……さん……?」


 不意に声が聞こえ、その場にいる全員が顔を上げた。今にも消え入りそうな、蚊の鳴く様な小さな声。そして、誰よりも華雄が耳にしたかった人物の声だ。


 「ゆ、月様……!」


 今まで寝ていた董卓は、賈駆と華雄の会話で目を覚ました。満足に力の入らない体で、ゆっくりと上体を起こす。そこで初めて一刀の視界に董卓の姿が映った。


 「……っ!」


 一刀は思わず息を飲んだ。董卓の肌はカサカサで髪はボサボサ、頬はすっかりこけており、何よりその瞳からは生気が感じられない。以前会った時の可憐な姿はそこには無かった。


 「月様、何かを食べて頂かなければ、このままでは……」


 華雄は泣きながら董卓の体にすがり付く。何としても董卓を助けたいと願う華雄だが、その想いは届かない。董卓は感情の感じられない顔で首を横に振った。


 「……私のせいで多くの方が亡くなりました。私は、その罪を償わなければならない。……私だけが生き残る訳にはいきません」


 淡々とした口調で語られる董卓の決意。それを聞いた華雄は、ベッドに突っ伏して董卓の名をうわ言の様に繰り返しながら激しく泣き叫んだ。


 すでに幾度となくこの問答はしたのだろう。賈駆や琥珀達は取り乱す事は無い。ただ、何も出来ない己の不甲斐なさに、苦虫を噛み潰した様な顔をしていた。翠と蒲公英も、変わり果てた董卓の姿にショックを受け、何も言葉を発せなかった。


 そんな中、一刀だけは激しい憤りを感じていた。もちろん、董卓をここまで思い詰めさせた袁紹に対しての怒りはある。だが、そのほとんどは董卓へのものだった。拳を震わせたままベッドへ近付くと、華雄の肩を後ろから取って引き剥がす。何事かと驚きの表情を見せる一同をよそに、一刀は董卓の胸ぐらをつかむと、右手で痩せこけた頬を張った。かなり加減はしているが、それでもパァンという乾いた音が響く。


 「……き、貴様っ!」


 「……あ、あんた、何を!」


 突然の事に思考が付いていかなかったのだろうか。華雄と賈駆は多少の間の後で激昂する。一刀につかみかかろうとする華雄を琥珀が慌てて羽交い締めにすると、それに呼応するかの様に、鷹那は賈駆を後ろから抱えて止めた。


 普段と違う様子の一刀に賭けてみよう。私達が万の言葉を掛けても届ける事が出来なかった想いを、彼ならば届けられるかもしれない。天の御遣いである一刀ならば。


 琥珀のそんな心の内を気にする様子も無いまま、一刀は董卓の両肩をがっしりとつかんだ。


 「ふざけるな……、ふざけるなよ! お前が何をしたって言うんだ! ただ、皆が幸せになる事を願っただけじゃないのか! それのどこが罪だ!?」


 「……私が浅はかだったから、詠ちゃん達に迷惑をかけて、多くの人を死なせる事になったんです。私にはもう、生きている権利が無いんです」


 頬を張られて横を向いたまま、董卓は視線を合わせようともしない。だが、一刀はお構い無しに続けていく。


 「そうだよ。お前のために多くの人が戦ったんだ。俺達も、賈駆や張遼達もだ。けど、皆が何のために戦ったと思ってるんだ?」


 「……」


 「皆、お前を助けるために戦ったんだぞ! お前を生かすために、多くの人が死んでいったんだ! その人達の想いを、董卓、お前は無駄にするのかよ!?」


 董卓の肩がわずかにビクッと揺れる。その肩をつかむ手に、一刀はさらに力を込めた。


 「お前は思い違いをしてる。董卓、人間には生きる権利なんて無い。あるのは、生きる義務だけだ。それに、死んで償える罪なんてありはしない」


 董卓はゆっくりと首を回し、一刀の瞳を見つめる。その目には、かすかにだが生気が戻っている様に感じられた。


 「本当に贖罪を望むのなら、生きろ! 生きている限り、生きる事を諦めるな! お前のために死んでいった人の分まで、精一杯生きるんだ!」


 「……いい、んですか? ……私は、生きていてもいいんですか?」


 上目遣いで一刀を見上げる董卓。助けを求める様な、不安そうな瞳だ。


 「当たり前だ。もし、お前が生きるのを邪魔する奴がいたら、俺が守ってやる。だから、生きろ!」


 力強く言い放ち、一刀は董卓を抱き締める。


 「俺も、皆も、君に生きていて欲しいんだ。だから、死にたいとか、生きていられないとか、そんな悲しい事は言わないでくれ……」


 それまでとは違い、優しい口調で董卓の耳元に語りかける。そんな一刀の頬を一筋の涙が伝う。


 その瞬間、董卓の瞳からも大粒の涙が零れ落ちた。溢れ出る感情を抑える事無く、少女は一刀の腕の中で大声を上げて泣くのだった。






 董卓が泣き疲れて眠ってしまうと、彼女は華雄と賈駆に任せ、一刀達は部屋から出た。


 「痛っ!」


 部屋を出た途端、背中を思い切り叩かれた一刀。バシンと大きな音が響き、衝撃で2、3歩前によろけてしまう。叩かれた場所を押さえながら痛みに顔をしかめる彼の横を、嬉しそうな笑顔の琥珀が通り過ぎていく。その目は真っ赤に充血していた。


 「ようやった! ホンマに偉いわ、一刀!」


 と、今度はすこぶる上機嫌の張遼に後ろからヘッドロックの様にして押さえ込まれ、髪をクシャクシャにされる。彼女は胸にサラシを巻いて法被を肩にかけるだけ、という露出の多い格好だ。そのため、柔らかくてスベスベした肌に顔を押し付けられる事になり、とても気持ちがいい。だが、それを享受していると大変な目にあう事を散々学習してきた一刀は、しばらくこのままでいたい気持ちを押し殺し、必死にもがいて頭を抜いた。


 「いきなり何するんだよ、張遼」


 手櫛で髪を整えながら、一刀は張遼に向かって文句を言う。内心ドキドキしているのを覚られない様、不満顔で、だ。だが、言われた側の張遼も頬を膨らませ、一刀以上に不満そうな顔を見せている。


 「そない他人行儀な呼び方せんでもええやん。一刀やったら真名で呼んでくれて、全然かまへんよ」


 そう言うと、今度はニカッと笑う。まるで猫の目の様にクルクルと変わる表情に、一刀の頬も自然と緩んだ。


 さらに、袖を引っ張られた感覚に振り返ってみれば、呂布が一刀の服を摘まんでいた。


 「……恋の事も、真名で呼んでいい。ねねも……」


 「む~……。恋殿が言うなら、ねねの真名も呼ぶ事を許してやるのです」


 しばらく不満そうに低く唸っていたものの、結局は呂布に従い、陳宮も一刀に真名を許してくれた。






 その日の夜、一刀は董卓の部屋の扉を叩いた。こんな時間に女性の部屋を訪れるのはどうかとも思ったのだが、様子が気になってしまい眠れそうにない。賈駆か華雄はいるだろうし、最悪、侍女の1人もいるはずだ。彼女の様子を聞ければ十分。一刀はそんな思いだった。


 ノックの後しばらくして、部屋の内側から扉が開かれる。案の定、その隙間から顔を出したのは賈駆だった。


 「あんた、何の用なの?」


 その声には明らかに棘がある。そうして、一刀は賈駆に嫌われているらしい事を思い出した。琥珀の誕生パーティー以来会っていなかった上に、昼間、張遼達に真名を許してもらった事に浮かれ、すっかり忘れていたのだ。


 「……董卓の様子が気になったんだけど、どう?」


 きつい目付きで眼鏡越しに見上げる賈駆に、一刀はわずかに気圧されていた。


 「もう大丈夫だと思うわ。少しだけど粥を食べて、今は寝てるのよ」


 賈駆は一旦部屋の奥を見ると部屋から出た。後ろ手に扉を閉め、一刀の正面に立つ。薄暗いためにはっきりとは分からないが、その顔には朱が差している様に見えた。


 「……月を助けてくれて感謝してるわ。ボクじゃあ、もうどうしようもなかったから」


 少しうつむき加減で恥ずかしそうに礼を言う。先程とは違う雰囲気の賈駆に、一刀は何だかむず痒くなり、彼女から視線を外した。


 「……それで、あんたにボクの真名を預けようと思うの」


 「えっ!? 賈駆の真名を!?」


 驚きのあまり、思わずそのまま聞き返してしまう。それ程までに、賈駆の言った事は意外だった。


 「か、勘違いしないでよ! 別に、あんたを認めた訳じゃ無いんだから! ボクと月は、公には死んだ事になっている以上、もうこの名前を使えない。真名だけで生きていくしかないの。そ、それだけなんだから、変な勘繰りとかしないでよね!」


 真っ赤になって怒鳴りながら捲し立てると、賈駆は勢いよく扉を閉め、部屋の中へと戻ってしまう。1人残された一刀は、しばらくその場で立ち尽くしていた。






 「鷹那~、こっちよ~」


 月明かりに照らされている中庭を歩く鷹那は、そんなのんきな声をかけられた。しかし、声の主を探そうとはしない。なぜなら、その声は、彼女の向かう先である東屋にいる人物から掛けられた物だったからだ。


 そろそろ床に就くため、寝間着に着替えようとした鷹那の部屋を侍女が訪れたのは10分程前。中庭で琥珀が呼んでいる事、そして、すでに軽く出来上がっている事を伝え、侍女は下がった。


 着替えを中断した鷹那は、部屋の外に出掛けたところで足を止めた。昼はともかく、朝晩は結構冷える。間違っても風邪を引かない様、自分と琥珀、2人分の肩掛けをタンスから取り出すと、改めて部屋を出た。


 そうして東屋へ来てみれば、鷹那が危惧した通り、琥珀は昼間と変わらない服装で酒を飲んでいた。部屋の中で飲む様に促そうと近付くが、すぐに思い直す。久しぶりに良い酒を飲んでいるのだと、その表情で分かった鷹那は、それに水を注したくはなかった。肩掛けを琥珀に掛けると、その正面に腰を下ろした。


 「あら、ありがとう。やっぱり貴方は気が利くわね」


 琥珀は左手で肩掛けを触りながら、右手で空の盃に酒を注ぐ。そうしてなみなみと酒の注がれた盃を鷹那の前に置き、自分の盃に口を付ける。それに倣い、鷹那も酒を半分程口に入れた。


 「それにしても、随分と嬉しそうですね」


 盃をテーブルの上に置き、一息ついてから尋ねる。もちろん、理由は分かっていたが。


 「それはそうよ。月ちゃんが生きようと思い直してくれたんだもの。本当にあのままだったら、烈砂と夕に申し訳が立たないところだったわ」


 そう言って、盃の中の酒を一気に飲み干す。鷹那は、ええ、とだけ相づちを打って、空になった盃に酒を注いだ。


 「……それにしても、生きる義務、だなんて、考えた事も無かったわね」


 琥珀は一刀の台詞を思いだし、独り言の様に呟いた。


 この世界は、現代日本程生きる事は易くない。食料は少なく、医学も進んでいない。武威郡辺りは琥珀の統治によって比較的平和であるとはいえ、少なからず賊はいるし、異民族の脅威は依然としてある。現代日本より、死はずっと身近なところに存在しているのだ。


 生きる事に必死にならなければ、生きていく事が出来ない世界。そんな世界では、生きる事が義務だ、という考えになど至る訳は無かった。


 「ところで、貴方から見て一刀君はどうかしら?」


 この2人、大層な酒豪であった。山の様にあった徳利は、すでに7割以上が空になっている。特に、鷹那に至っては、顔が赤くなってさえいない。彼女は普段通り真面目に答える。


 「武も知略もまだまだでしょう。しかし、彼がここに来て、まだ半年。それを考えれば、いくら下地があった……」


 「違うわよ。私が聞きたいのはそうじゃなくて、男としてどうか、って事」


 「なっ……! よ、酔っていらっしゃるのですか? こんな、人をからかう様な事を……」


 10年近い付き合いがある琥珀ですら、数える程しか見た事が無い取り乱し様だ。しかし、琥珀は酔ってはいたが、からかうつもりは無かった。少し沈んだ表情で、手元の盃に視線を落とす。


 「貴方が私に仕えてくれて、もう10年になるわね。あの人が亡くなった直後の一番大変な時で、本当に助かったわ。でもね、そのために、貴方の幸せを犠牲にしてしまったんじゃないか、そう思うのよ。もちろん、結婚だけが女の幸せじゃない。けど、子を成し、育む事が、大きな幸せである事に違い無いわ」


 鷹那は現在25歳。馬家に仕官したのは15歳の時だ。戦場を駆け抜け、政務に追われて彼女の10代は終わった。他の少女の様に、お洒落や色恋に興味を持つ暇が無かった。何より、彼女は興味を惹かれる男性に巡り会わなかった。


 ならば、一刀がそうか、と聞かれれば、それも違う。彼の事を認めてはいるものの、異性として見てはいない。


 「そもそも、一刀さんは姫の婿にするつもりなのでは?」


 「そうなってくれるのが一番なんだけど、大切なのは当人の気持ちでしょ?

それがあれば、大概の事は乗り越えられるわ」


 そう言うと、琥珀は何かを懐かしむ様な、遠い目をした。


 彼女の夫婦生活は、決して順風満帆ではなかった。羌族とのハーフである彼女との結婚に、彼女の亭主は周りから猛反対を受けた。それを押し切って夫婦となったものの、その後も嫌な目で見られ続けた。それでも、今振り返ってみて、あの結婚生活が幸せだったと思えるのは、お互いを強く想いあっていたからに他ならない。


 「翠が他に見つけられるならそれでもいいし、一刀君にしてもそう。要は、彼がここに残ってくれればいいのよ。だから、貴方でもたんぽぽでも、月ちゃんでもいい。ただ、お互いが強く惹かれあっているなら、ね」


 そこまで言って照れ臭くなったのか、琥珀は酒を一気に煽る。


 「……琥珀様。私は幸せです。失礼ですが、私は姫やたんぽぽを、自分の妹の様に見てきました。姫達の成長を見守り、琥珀様の愛したこの街とここに住む人々を守る。少なくとも今は、それが私の幸せです」


 鷹那は琥珀の目を真っ直ぐに見て、誇りに満ちた顔で言い切った。琥珀は優しい笑みを浮かべ、黙って鷹那の盃に酒を注いだ。






 自分の部屋に戻る途中、一刀は華雄に捕まった。半ば強引に連れ出され、2人は今、城壁の上にいた。


 昼間、董卓を殴った事を咎められるのか、と戦々恐々としている一刀。何しろ、初対面で勘違いから殺されかけているのだ。それを、目の前で殴ったとなれば、必要以上に恐怖心を抱くのも無理はなかった。


 「北郷、昼間の事は、本当に感謝している」


 そう言って、華雄は頭を下げる。董卓の家臣としては至極真っ当な態度なのだが、身構えていた一刀からすると、肩透かしを食らった気分だ。


 「お前がいなければ、月様のお考えを覆す事は出来なかっただろう。本当にすまなかった」


 「い、いや。そんな、礼を言われる事じゃ……」


 さらに深く頭を下げる華雄に、一刀はかなり困惑していた。


 「ところで、北郷よ。お前が言った、月様を守り続ける、というのは本当だろうな」


 えっ、と一刀は一瞬逡巡した。董卓に言った言葉は本心ではある。しかし、あの場の勢いもあったし、何となくだが、違うニュアンスでとられている気がする。それでも、華雄の眼差しは否定する事を許さなかった。


 「そうか。……これから先の月様に必要なのは、私の様なその身をお守りする武人ではなく、お前の様に心を支えてくれる存在なのだろう。……よろしく頼むぞ」


 少し寂しげに笑う華雄。短く切った銀髪が月光に煌めき、普段とは違う神秘的な雰囲気を醸し出している。一刀は思わず見とれてしまった。


 「それで、だ。これから月様を支えてくれるお前には、私の真名を教えて……」


 「何やてーっ!」


 華雄が言い切らない内に、辺りに絶叫が響いた。驚いた2人は、キョロキョロと周囲を見回すが、近くには誰もいない。離れた位置には見回りの兵が何人か巡回しているが、とても華雄の声が届く事の無い距離だ。何より、あの絶叫はもっと近くから聞こえていた。


 と、いきなりガランと大きな音と共に、何かが降ってくる。


 「なっ……、張遼」


 「し、霞。どこから……?」


 2人がそちらを見れば、そこには張遼が足を開き、踏ん張る様にして立っていた。彼女は楼閣の上で月を肴に飲んでいたのだ。顔を上げた張遼は華雄を睨むと、下駄を激しく鳴らしながら近付いて行く。両肩をがっしとつかまれると、その勢いに華雄は少し身を引いた。


 「どういう事や!? お前、真名無しなんとちゃうんか!? ウチはお前やったら真名を預けてもええと思っとったのに、お前はウチの事、信用してへんかったんやな!」


 えらい剣幕で詰め寄る張遼。それを見ながら、一刀は疑問を感じた。


 「あのさ、真名無し、ってどういう事? 真名って皆持っているんだろ?」


 「あん?」


 振り返った張遼は、不機嫌な声を出しながら一刀を睨み付けた。


 「ああ、お前は天の国から来たんやったな」


 その事を思い出した張遼は、少し冷静さを取り戻す。そうして彼女は、真名が産まれた時に名付けられる事。そのため、物心つく前に親と死に別れたりすると、真名を知る事が出来ない可能性がある事を一刀に伝えた。


 「じゃあ、華雄も……?」


 「そうだ。私の産まれた村は賊に襲われ、まだ乳飲み子だった私だけが母の亡骸の下で生きていたそうだ」


 1人生き残った華雄は、賊の討伐に来た董卓の父親、董君雅によって助けられた。元々、華雄の父親は地域の有力者で、董君雅とも親交があった。そのため、華雄は彼の下に引き取られて成長したのだった。


 「先代には色々な事を教えて頂いた。といっても、身に付いたのは武術と馬術位なものだが」


 わずかに自嘲して話を続ける。張遼も静かに話に耳を傾けた。


 「そうして、先代と奥方との間に待望の世継ぎ、月様が産まれたのが、私が14の時だ。その時に、先代は月様の真名を教えてくださっただけでなく、私に真名を名付けてくださった」


 華雄は一旦うつむき、自分の気持ちに改めて整理をつけた。


 「……月が綺麗に輝けるよう、清夜、と」


 気恥ずかしさがあるのか、ほんのりと頬を赤く染めた華雄。だが、その瞳には迷いや後悔は感じられない。


 「すまない、張遼。別に、お前が信用出来なくて真名を預けなかった訳では無いのだ。私の真名は月様の真名と対になっているし、先代からの願いも込められている。誰にも教えずにいたのは、願掛けの様なものでな」


 「……すまん、華雄。ウチ、そんな事とは知らんと……」


 珍しくしおらしい態度を見せる張遼に、華雄は笑って言う。


 「フッ、お前らしくもない、気にするな。……もう、いいのだ。月様をお守りするのは、私だけの使命ではなくなったからな」


 どこか寂しげな顔で星空を見上げる華雄。その名の通り雲ひとつ無い星空には、大きな満月がぽっかりと浮かんでいた。

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