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第2章-洛陽編・第10話~洛陽入城~

 「愛紗ちゃん!」


 関羽達が陣へと戻ると、すでに報告を受けていた桃香が心配そうな顔で駆け寄ってくる。その後ろには、諸葛亮と鳳統の姿もあった。桃香はそのまま関羽に抱き付く。


 「大丈夫なの、愛紗ちゃん!?」


 うっすら涙を浮かべて尋ねる。白魚の様な指が、呂布によって付けられた関羽の首筋のアザにそっと触れた。


 「ええ、問題ありません。それより、申し訳ありませんでした。この様な失態を演じてしまい……」


 「何言ってるの! 愛紗ちゃんが無事でいてくれるのが、一番大事なんだよ!」


 桃香は目を剥き、愛紗の言葉を遮った。眉尻はつり上がり、普段の柔らかい雰囲気とは全く違う。その語勢に気圧されて、関羽も黙るしかなくなった。


 「でも、本当に無事に帰って来てくれてよかった……。ご苦労様」


 そう言って、いつも通りの温かみのある微笑みを見せ、関羽を優しく抱き締めた。こうして桃香の柔らかい体に抱かれていると、関羽の心は非常に落ち着いていく。だが、先程一刀の腕に抱かれていた時の様な安心感は無かった。


 「桃香お姉ちゃん、鈴々だって頑張ったのだ。愛紗ばっかりズルイのだ」


 仲のよい姿を見せる姉妹に、その末妹が不満を訴えた。すっかり回復しているにもかかわらず、未だに彼女は一刀に背負われたままだった。


 「うん、鈴々ちゃんもお疲れさま。ありがとう」


 関羽から離れた桃香は、鈴々の頭を優しく撫でる。にゃはは~、と幸せそうに笑う鈴々を見ながら、そのまましばらく撫で続けた。まるで仲睦まじい親子の様な光景に、関羽の心はチクリと痛んだ。


 「お姉様、皆は先に帰らせちゃったよ」


 そこへ、兵達に指示を出し終えた蒲公英がやって来た。


 「じゃあ、あたし達も帰るか。じゃあな、劉備。悪いけど、もうしばらく華雄の奴を預かっといてくれるか?」


 翠が桃香に挨拶をしている横で、一刀は鈴々を背中から下ろした。とたんに、もっとおんぶしろ、と言わんばかりの不機嫌な顔になる鈴々。そんな彼女を宥める様に、一刀は鈴々の頭をポンポンと叩く。歳の離れた妹ができた様で、何となく嬉しかった。


 「はい、任せて下さい。それと、2人を助けてくれてありがとうございました、馬超さん。一刀さんと星ちゃんも、ありがとう」


 桃香は3人に向かって頭を下げた。しかし、3人が3人共、大した事をした自覚が無い。何もしてないから、と翠が返したが、謙遜した訳では無かった。


 「ええ、我等は何も礼を言われる様な事はしておりませぬ。そうであろう、北郷?」


 一刀に話を振り、趙雲はニヤリと笑った。思わずドキッとする一刀。さっきの事を思い出し、わずかに顔が赤くなる。その様子を見た桃香は、頭の上にクエスチョンマークを浮かべた。


 何かあったのか尋ねてみても、口ごもってはっきり答えない。不思議そうな顔をしている桃香に、何の悪意も無く鈴々が答えた。


 「さっき、お兄ちゃんと愛紗が抱き合っていた、ムグ……」


 「な、何を言っている、鈴々! でたらめを言うんじゃない!」


 関羽は顔を真っ赤にし、慌て鈴々の口を塞ぐ。離れた場所では、関羽と同じ位顔を赤くした諸葛亮と鳳統が、はわわあわわと呟いておろおろしている。少女達のそんな慌てふためく様を見て、元凶である趙雲は、肩を震わせながら笑いをこらえていた。


 関羽からしてみれば、たとえ諸葛亮や鳳統には知られても、桃香にだけは知られたくなかった。いくら色恋沙汰に疎いとはいえ、桃香が一刀に好意を抱いている事位は気付いている。傷付けたかもしれないと思い、関羽は桃香の顔色をうかがった。


 「よかった~。愛紗ちゃんも、やっと一刀さんと仲良くなれたんだね。2人がどうやったら仲良くなれるか、私もずっと心配してたんだから」


 関羽の思いは杞憂だった。一片の他意も無い眩しい笑みに、関羽は誤魔化そうとした己の行動を恥じる他なかった。


 もう一方の張本人である一刀にも、今回の事を聞かれたくない人物がいた。今その人物は、彼の目の前で爛々と目を輝かせている。


 「ねぇねぇ、どういう事なのか、たんぽぽにも教えてよ」


 思わず一刀は蒲公英から視線を外す。だが、そう易々と諦める訳も無く、一刀の顔を下から覗き込んでニヒッと悪戯っぽく笑った。


 彼女に知られれば、どんな尾ひれを付けて話を広められるか、分かったものではない。一刀は助けを求めようと翠へ目配せするが、まだこの事を怒っているのか、そっぽを向かれてしまった。どうやって誤魔化そうか、と一刀はため息を吐いた。


 『まったく、あいつは……』


 一刀を突っぱねたもののやはり気になるのか、翠は横目で視線を送った。そうして、自分でも無意識の内に集中していたため、桃香が傍に寄って来ても、声を掛けられるまで気付けずにいた。


 「馬超さん、本当にありがとうございました」


 慌てて向き直った翠に対し、桃香は改めて礼を言うと、深々と頭を下げた。


 「気にすんなって。趙雲が言った通り、あたし達は何もしてないんだからさ。それより、董卓が無事に逃げ出せたんだ。礼を言うのはこっちの方だ」


 少し照れた様子で、翠も頭を下げ返す。そうして顔を上げた2人の目が合うと、お互い声を出して笑った。


 「……それでね、馬超さん。2人を助けてもらったお礼、というか、同じ目的を持って戦った仲間として、私の真名を預かって欲しいんです。……駄目、ですか?」


 笑顔が一転、眉尻を下げた申し訳無さ気な表情になる。いきなりの事に驚いたものの、翠は桃香を安心させる様ににっこりと笑った。


 「ああ、いいぜ。あたしの真名は翠だ。よろしくな、桃香」


 「はい、よろしくお願いします、翠さん」


 再び笑顔に戻る桃香を、翠は手で制す。


 「ちょっと待った。その敬語は止めてくれないか? 後、さん付けもさ。こそばゆくなっちまうよ」


 「……うんっ。じゃあ、改めてよろしくね、翠ちゃん」


 少し居心地悪そうに頭を掻く翠に、桃香は満面の笑みを見せた。その様子を見て、蒲公英は一刀から手を放して2人の方へと駆け寄る。


 「はーい、たんぽぽも劉備さんと真名を交換したーい」


 手を上げて元気に言う蒲公英にも桃香は笑顔を向ける。蒲公英の追究を回避出来た事にホッとしながら、一刀は3人の様子を眺めていた。






 翌日、持ち回りで先鋒を受け持った曹操軍は、虎牢関を労無く落とした。董卓軍は昨夜の内に虎牢関から撤退しており、無人となっていたためだ。それを知った袁紹は大層悔しがったが、すでに後の祭りであった。虎牢関を陥落させた手柄は、全て曹操のものとなったのである。


 日が沈んだ後、曹操は虎牢関の城壁の上へと出た。虎牢関の表にも裏にも数多の篝火が揺らめいており、まるで天の川が地表に落ちたかの様である。彼女は虎牢関の裏手側、今は漆黒の闇に包まれている洛陽の方向を眺めていた。虎牢関を突破した事で安心したのか、兵の大部分は深い眠りに就いており、虫の声だけがかすかに耳に届く。


 そんな静寂の中に、どれ程の間いたのだろうか。曹操は闇の中から声を掛けられた。


 「華琳様、姉者ですが、命に別状は無いそうです。ただし、傷が深く出血の量も多いため、しばらくは安静にさせるように、と」


 「……そう。なら、貴方は春蘭の傍についていてあげなさい。兵達は季衣に任せればいいわ」


 いきなり声を掛けられたにも関わらず、曹操には微塵も驚いた様子は見えない。正面を向いたまま命令を出すと、報告に来た夏侯淵は、申し訳ありません、とだけ言ってその場を離れた。


 再び1人きりになると、ホッとした様に表情をゆるめる。将兵の前では、夏侯惇が左目を射抜かれた事を聞いても、極めて冷静に振る舞っていた曹操であったが、心の内は激しく動揺していた。夏侯惇は曹操の部下、というだけでなく、従姉妹でもあるのだ。そして、何より彼女を深く愛していた。愛する者が死ぬかもしれない程の傷を負った事を知り、それでも平常心を保っていられる程、曹操は薄情ではなかった。


 だが、普段は冷静な夏侯淵が見た事も無い取り乱し方をし、兵達に動揺を与えている。そんな状況では、曹操までが感情のままに動く訳にはいかなかった。こうして1人になり、夏侯惇の無事を聞かされた今、やっと彼女は自分の本心を表に出す事が出来たのだ。


 「……フフッ。情けないものね、華琳。大切な部下の片目と引き換えに手に入れた物が、この無人の虎牢関だけだなんて」


 しばらくした後、曹操は自嘲しながら呟いた。そして、天を仰ぐ。


 「……必ずや、この手に天下をつかんでみせるわ。とくと見ていなさい、私の歩む覇道を!」


 空に浮かぶ月へと手を伸ばし、それを奪い取るかの様に拳を握る。小さな声であったが、その言葉には強い決意がみなぎっていた。






 連合軍が虎牢関を陥落させてから2日。洛陽の城壁をはっきりと視認出来る距離にまで近付いた連合軍内では、またもや先鋒を決めるための軍議が行われていた。しかし、今回は初めから袁紹が名乗り出た。ここまで何の手柄も立てられず、ただいたずらに損害を出しただけ。さすがに彼女にも焦りがあるのだろう。諸侯からの反対も無く、話がまとまりかけた時、1人の兵が報告に入ってきた。


 「皇帝陛下よりの御使者で、董承と名乗られる方がお見えですが、いかがいたしましょう」


 この報告を聞いて、翠や桃香達を除くほとんどの諸侯は違和感を覚えた。あくまで反董卓連合軍であり、漢帝国に刃を向けた訳では無い。大義名分とはいえ、漢帝国を救うために戦っているのだ。である以上、敵対している董卓からならともかく、皇帝から使者が来るのはおかしかった。可能性があるとすれば停戦の仲介だが、完全に時期を逸してしまっている。


 結局、いくら考えてみたところで分からない。帝からの使者を追い返す訳にもいかず、董承は天幕へと招き入れられた。


 簡単に口上を交わすと、すぐに本題に入る。董承の後に続いていた2人の従者は前に進み出て、大事そうに抱えていた箱を開けた。その中に入っていたのは生首だった。まだ幼さの残る少女の生首を、それぞれの箱から1つずつ取り出す。いきなりの事に諸侯が呆気に取られていると、


 「これは、董卓とその軍師、賈駆の首級でございます」


 と董承が話し出した。彼が言うには、連合軍を迎撃するために呂布達が洛陽を出た隙に、皇帝一派が2人の首級を挙げた、との事だった。さらには、主君を失った董卓軍は四散。虎牢関から戻った呂布達も行方をくらました事を伝える。


 この話をおかしいと感じた者は少なくなかった。現実には、董卓は暴政を敷いていないのだから、帝が董卓を取り除く理由が無いのだ。だが、誰もそれを指摘する事が出来ない。指摘してしまえば、連合軍の掲げる大義を自分達で否定する事になるからだ。


 それにこの話、よくよく考えてみると、それ程辻褄が合わない話でもなかった。董承は劉協の祖母であり、養母となっていた董太后の甥である。つまりは、皇帝の外戚だ。善政を敷く董卓と、私腹を肥やそうとする外戚との間で対立があった可能性は充分にあった。


 「董承さんとおっしゃいましたわね。よくやってくれました。これで、後は洛陽に入城するだけですわ」


 事の裏側など全く考えた様子の無い袁紹。彼女は立ち上がると、片手を腰に、もう片方の手を口元に当てていつものポーズをとる。そして、高らかに笑い声を響かせようとした瞬間、曹操によって制止されてしまった。


 「待ちなさい、麗羽。董承、その首、改めさせてもらえる?」


 「なっ……! 陛下の申された事を疑うつもりか!?」


 「そうではないわ。ただ、董卓軍はあまりにも鮮やかに撤退している。ひょっとしたら、私達を洛陽に誘い込もうとしているのかもしれない、そう思っただけよ。……それとも、改められたら困る事でもあるのかしら?」


 隣で激しくむせている袁紹をよそに、2人の話は進んでいった。こう言われては董承も断る訳にはいかず、それ以上反論する事はしなかった。


 「馬超、貴方は董卓の顔を知っているのかしら?」


 「ああ、間違いない。これは、董卓と賈駆の首だ」


 曹操をはじめとして、連合軍に参加している諸侯のほとんどが董卓の顔を知らなかった。同じ涼州の馬超ならあるいは、という思いで尋ねられた問いに対し、翠は即答した。だが、曹操はまだ腑に落ちないものを感じていた。


 「劉備、貴方のところの関羽が、董卓軍の将を捕虜にしていたわね。その者をここに連れて来なさい」


 それから30分程で、関羽と数人の兵に囲まれた華雄が天幕に入って来た。もちろん丸腰で、手枷をはめられている。そんな彼女の瞳に飛び込んで来たのは、テーブルの上に置かれた生首だった。


 「……と、董卓様? ……董卓様!」


 カッと目を見開いた華雄は、董卓の名を叫びながらテーブルへと駆け寄り、枷をはめられたままの手でその首を抱き締めた。その場に崩れ落ち、人目もはばからずに大粒の涙を流して何度も董卓の名を呼ぶ。忠義に厚い華雄の慟哭だった。その様を見て、曹操の中の疑念も薄れていくのだった。


 「フンッ、もう十分でしょう。……猪々子さん」


 文醜は華雄に近寄ると、未だに泣き叫ぶ彼女の胸から無造作に生首を引き抜いた。突然の事にはたと泣き止み、華雄は文醜を睨み付ける様に見上げる。薄ら笑いを浮かべ、まるでバッグを持つかの様に髪をつかんで生首をぶら下げる文醜の姿に、華雄の怒りが爆発した。


 「うぉぉっ!」


 立ち上がりながら文醜のみぞおちに頭をめり込ませる。その威力で文醜がよろめいた隙に、後ろにいた兵の腰に下がる剣の柄をつかむ。今度はその兵を蹴り飛ばし、華雄の手には抜き身の剣が残った。


 「袁紹ーっ!」


 そう叫ぶ華雄の瞳には、復讐の炎が燃えている。袁紹の首級をあげるべく、華雄は片足をテーブルの縁に掛けた。このまま一気に、そんな彼女の思いは、しかし叶う事は無かった。


 華雄がその体をテーブルに上げようとした瞬間、後ろにグイと引かれた。不安定な体勢だった事もあり、華雄は大きく後ろに飛ばされてしまう。


 「何をしているんだ、貴様は!」


 華雄の襟首をつかんで投げ飛ばした関羽は、偃月刀を鼻先に突き付ける。こうなってしまえば、華雄はこれ以上暴れる事が出来なかった。


 「ま、まったく……。早くその者を連れて行きなさい」


 かなり距離があったにもかかわらず、袁紹はだいぶ肝を潰した様だ。椅子からずり落ちそうになった体を直しながら、犬でも追い払う様に手を振っている。関羽はそんな袁紹に一礼し、怒りの収まらない華雄を連れて天幕の外へと出た。




 「……それにしても、見事な演技だったな」


 天幕からかなり離れた位置まで来た所で、関羽は華雄にささやいた。


 今、関羽が言った通り、華雄の怒りは演技だった。そもそも、董卓と賈駆とされていた首は、彼女達のものではない。最近、事故で死んだ歳の近い少女の遺体を使ったのだ。写真も無いこの時代では、董卓を見知っている人物がそうだと言えば、誰でも本人に仕立て上げる事が出来た。


 董卓達が死んだ事にしたのは、後の追及をかわすために琥珀が考えた事なのだが、使者の人選などの細かい部分は賈駆が考えていた。前もって話を聞いていた一刀は、華雄に首改めの役が回る可能性を考え、しっかりと打ち合わせをしておいたのである。彼も関羽と同じく、名演技だと感じていた。翠の様な大根でなくてよかった、そう思っていた。


 「主のためなら、私の名などどうでもよいからな。それに……、貴様が止めねば、本気で奴の首を落とすつもりだった」


 そう呟くと、華雄はほんの少し口元をゆるめる。その顔は、どこか満足気だった。






 翌日、反董卓連合軍の先陣を切り、袁紹は意気揚々と洛陽に入城した。輿に乗りながら、彼女は皆が自分の行いを崇めているものだと思っていた。自分の名声が四海に広まった、と。


 しかし、実際にはそうではなかった。董卓が来てからというもの、治安はよくなり、経済も安定していた。洛陽の民にしてみれば、救世主の様な存在だったのだ。その董卓を追い出した反董卓連合軍に対し、彼等が悪印象しか持たないのは当然だった。ましてや、先頭で高笑いをしている袁紹への評価は、地の底よりも低いものとなっていた。それに気付かない袁紹は、洛陽の市中をいつまでも練り歩き、その悪名をどこまでも広めていくのだった。






 反董卓連合軍が洛陽に入城してから2日後、すでに一部の諸侯は自らの領地への帰り支度を始めていた。洛陽の城壁外には馬騰軍と劉備軍、公孫賛軍の姿があった。その片隅で、一刀、諸葛亮、公孫賛の3人が竹簡を見ながら会話をしている。


 「北郷さん、目録よりも多いですが?」


 竹簡と目の前に積まれた物資を見比べながら諸葛亮は尋ねた。3人が行っているのは、董卓救出の協力を要請した時に約束していた見返りの受け渡しである。


 「それは、華雄の身柄を引き受ける代わりだよ。ほんの少しだけど」


 華雄と交換で差し出されたのは、馬50頭だった。元々、予備として連れてきた馬である。騎兵が中心の馬騰軍に所属している一刀からしてみれば、釣り合いがとれていない様な気がしていた。だが、貧乏な劉備軍の台所を預かる諸葛亮にすれば、かなりありがたかった。


 そもそも大陸の東端にある青州では、同じく西端にある涼州の良馬など、いくら金を積んでも易々と手に入る物ではない。部隊に組み込んで戦力の増強を図るもよし、売却して金に変えるもよし、そう考えていた。


 「なあ、北郷。私が言うのも何だけど、こっちは桃香のとこと違って、ほとんど何もしてないぞ。それなのに、いいのか?」


 今度は公孫賛が尋ねてくる。その顔は、かなり申し訳無さそうだ。


 「そんな事無いだろ。趙雲がいなかったら、関羽も鈴々も呂布に殺されていたかも知れないんだから」


 やっぱり私じゃないのか。そんな事を思い、公孫賛は軽くため息を吐く。


 「それに、例え何もしてなくたって、約束は約束だ。それが口約束であっても、ね」


 約束を守る。一刀にとっては当たり前の事だが、諸侯が互いの動向をうかがい牽制し合うこの時代において、その誠実さは稀有であった。しかし、だからこそ他者の信頼を手に入れる事が出来る。諸葛亮も、そんな一刀の事を少しだけ信用してみよう、と思った。


 そんな彼等の耳に、少し離れた所から喚声が届く。そちらに目を遣ると、3軍の兵達が人垣を作っていた。その中では、翠と鈴々が一騎討ちを行っている。人垣のため、一刀には結果は分からなかったが、かすかに鈴々の上機嫌な声が聞こえた。


 「にゃはは~。鈴々の勝ちなのだ」


 人垣の中では、尻餅を付く様に倒れた翠に向け、鈴々が蛇矛を突き付けていた。


 「く~っ! けど、まだ2勝2敗。次で決着だからな、鈴々!」


 「へへ~ん。鈴々は、もう翠には負けないのだ」


 悔しそうな翠とは対称的に、にこやかな表情をした鈴々。余程馬が合ったのか、2人はいつの間にか真名を交換していた。


 意気揚々と再び武器を構えた鈴々だが、いきなり後ろから耳を引っ張られた。かなり強く引っ張られ、彼女の体はつま先立ちになってしまう。


 「まったく、何をしているんだ、お前は」


 鈴々の耳を引っ張っていたのは関羽であった。自由を奪われた鈴々がしばらくもがいていると、関羽は大きくため息を吐いてからその手を放す。


 「朱里の確認が終わったらすぐに発てる様、準備をしておけ、と言ったろう。それはどうしたのだ?」


 引っ張られて真っ赤になった耳をさする鈴々を、関羽が怒気を隠そうともせずに見下ろしている。


 「そ、それは雛里が……」


 「雛里には、桃香様を補佐して全軍の指揮を執る様に伝えてあるが?」


 関羽の放つ威圧感に、鈴々の小さな体はさらに縮こまっていく。ついには観念した様で、分かったのだ、と不満顔で呟いて答えると、のっそりとその場から離れていった。その背中を見ながらもう一度ため息を吐くと、関羽は視線を翠へと移す。敵意を含む様な鋭い目付きでわずかの間睨むと、翠が何かを言う前に振り返ってしまう。その先には、華雄がすでに枷を外された状態で立っていた。そのまま関羽の脇を通り、翠の方へと近付く。


 「すまなかったな、関羽」


 「私は約定に従っただけだ」


 表情を柔らかくして礼を言った翠に対し、関羽も返事はつっけんどんではあるが、幾分軟化した顔で答えた。その後で、翠の隣に立った華雄に向かい、神妙な面持ちで頭を下げる。


 「……華雄よ、すまなかったな」


 だが、華雄には関羽が謝る理由が分からなかった。お互いに、自分の信念に基づいて戦った結果だ。行き違いがあったとはいえ、謝罪する理由にはならない。しかし、関羽が謝ったのはそこではなかった。


 「私は思い違いをしていた様だ。貴公程に忠節に厚い者を、私は見た事がない」


 忠義を褒められたのが嬉しかったのか、訝しげな表情だった華雄の顔は、得意気な笑みへと変わる。一方の関羽は、申し訳無さそうな表情から、いつも通りの引き締まった顔に戻った。


 「それで、だ。もしよければ、私と真名を交換してもらえないだろうか?」


 華雄の目を真っ直ぐに見つめ、関羽は頼んだ。彼女は、きっと華雄も同じ思いでいるはず、と勝手に思っていた。だが、一瞬驚いた顔をした後、華雄は目を逸らしてしまう。


 「……私とは、真名の交換は出来ない、と?」


 「いや、そういう訳では無いのだが……」


 失意の中に少しの怒りが混ざった関羽の言葉に対して、華雄は珍しく歯切れ悪く答えた。困った様な、迷っている様な感じで言葉を探す華雄。だが、直情型の彼女は考えれば考える程、自分の心の内を上手く口に出来なくなる。2人の間に微妙な空気が流れ始めた。


 「悪いな、関羽。華雄は真名が無いんだ」


 そう言って口を挟んだのは、側にいた翠だった。


 真名は産まれた時に親から付けられるものである。しかし、姓や名、字とは違い、人前で呼ばれる事はほとんど無い。そのため、死別したりして物心つく前に親と別れてしまうと、真名はあるのに本人が知らない、そんな事態が起こり得るのだ。


 華雄の過去を察し、関羽は再び謝罪する。華雄は何かを言おうと口を開きかけたが、しばらく躊躇して止めてしまう。そして、いや、と呟く様に答えただけで、関羽とは目を合わせる事をしなかった。






 物資の受け渡しは、それから1時間もしない内に終了した。主要な人物が集まり挨拶を交わす。中でも桃香は大層名残惜しいらしく、今にも泣き出しそうだった。


 そんな彼女達に背を向けて、関羽は1人、兵の指揮を執っていた。といっても、すでに発つ準備は出来ている。今はただ、待機しているだけだった。そこへ、馬に跨がったままの趙雲が近付いて声を掛けた。


 「良いのか? 北郷に何も言わず」


 「な、何を言う!? 奴に話など、ある訳が無かろう!」


 顔を真っ赤にし、むきになって答える関羽。その反応が予想通りだったのか、趙雲は笑いを噛み殺しながら、それはすまなかったな、とだけ言って馬首を返した。背中を向けた趙雲の肩が小刻みに震えているのを見てからかわれた事に気付き、気恥ずかしさと怒りが込み上げて来る。


 「うるさいっ! 静かにせんか、お前達!」


 普段は決して見せない一面を目の当たりにしてざわつく兵に対し、関羽は八つ当たり気味に一喝した。一瞬で水をうった様に静まり返る。まったく、と呟きながら、関羽は桃香の方を横目で盗み見た。その瞳に映るのは彼女の姉か、それとも一刀か。それは本人にしか分からない事だった。






 「色々と大変だと思うけど、頑張ってね」


 一刀は桃香の瞳を見つめながらそう言った。これから先に訪れるであろう苦労の連続を思い、自然と彼の口からこぼれた言葉だった。


 「大丈夫だよ。私には皆がついてるから」


 桃香は隣にいる鈴々の頭を撫でながら答える。その顔は誇らしげだ。撫でられている鈴々も胸を張っている。


 諸葛亮と鳳統がいる以上、一刀の知る歴史通りにはならないかもしれない。ひょっとしたら、曹操ではなく桃香が袁紹を倒す可能性すらあるだろう。それならそれで、一刀は構わなかった。むしろ、彼からしてみればその方がありがたいのだ。


 頑張ってね、その言葉をもう一度繰り返し、一刀は桃香と別れるのだった。

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