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第2章-洛陽編・第9話~虎牢関の戦い~

 『一体どうしたのだ……?』


 関羽は不思議な感覚に包まれていた。ふわふわとした感覚。まるで、宙に浮いているか、水面をたゆたっているかの様だ。


 『ここは、どこなのだ……?』


 そう思ってみても、何も分からない。辺りは漆黒の闇に包まれ、自分がまぶたを閉じているのかすらあやふやになる。だが、意外にも不安や恐れといった感情は無く、むしろ、安らかな心持ちだった。何かを考える事すら面倒臭くなっていく。


 「……羽、関羽……」


 そんな中、彼女は自分の名を呼ぶ声を聞いた。遠く小さな声で、はっきりとは聞こえない。


 『……桃香様か? 全く、仕方の無いお方だ。いつまでも私に甘えて。長姉として、もう少し自覚を持ってもらわねば……。いや、違う。桃香様であれば、私を真名で呼ぶはずだ。なら、一体誰が……?』


 その間にも、声は次第に大きく、鮮明に関羽の耳に届く様になっていく。


 『……男、か? しかし、どうしてこんな悲痛な声を上げているのだ? 聞いているだけで、心が痛い……』


 その声は、関羽の名を呼び続けるだけ。しかし、そこに表れている気持ちは、朦朧とした意識の彼女にもしっかり伝わった。


 『そうか、私か。私のせいで、この声の主はこんなにも苦しんでいるのか。ならば、私は……』


 関羽の心に反応してか、暗闇の彼方に明かりが灯る。地平線から顔を覗かせた朝日の様に眩い光を放つと、闇を白く塗り替える。関羽の体は溢れんばかりの光に包まれた。






 翠の後を追って、呂布が死闘を演じた場所に着いた一刀。彼の視界には、武器を構える呂布と趙雲、倒れている関羽と張飛の姿が飛び込んできた。翠が呂布達の方へ馬を駆けさせたのを見て、一刀は近くに倒れている関羽へと近付いた。


 その姿を見た一刀の心臓は大きく跳ねた。関羽の首筋にくっきりとアザが浮かんでいたからだ。慌てて馬から降りると、関羽の口元に耳を寄せる。


 「良かった……」


 関羽が呼吸をしていた事で、一刀は心底安心した様に呟いた。念のために脈もとってみるが、問題は無さそうだった。気を失っているだけだと分かると、一刀は関羽の脇に膝を付き、軽く頬を叩きながら名前を呼んだ。しかし、反応は無い。地面に正座をして座り直した一刀は、注意しながら関羽の上体を抱き起こした。背中を太ももに乗せると、左腕で首を固定しながら肩を抱き、軽く揺すりながら再度声を掛ける。


 「関羽、関羽!」


 さっきと変わらず反応が無い。その様子に、一刀もだんだんと焦ってきた。次第に声も大きくなっていく。


 そうして何回名前を呼んだだろうか。ついに関羽の整った細い眉がピクピクと動いたかと思うと、ゆっくりとその双眸を開いた。それを見て、一刀は先程と同じ言葉を、先程よりもずっと気持ちのこもった風に呟いた。良かった、と。


 一刀に抱きかかえられたままの関羽は、状況が分かっていないのだろう。眩しそうに目を細めたまま、瞳を左右にゆっくりと動かした。そして、2人の目が合う。一刀はそっと微笑み掛け、関羽は瞳を数回瞬かせながら、一刀の目を見つめ返した。と、次の瞬間、


 「ななな、なぜ貴様がここにいる!? ここ、こんな格好で……! とにかく、離れろ!」


 そう叫んで上体を起こす。状況を把握した関羽の顔は、茹でタコの様に一瞬で真っ赤になっていた。さらに、一刀を押し退けようと両手で突き放す。しかし、直前まで気を失っていた関羽の体は上手く言う事を聞かず、逆に自分が後ろに倒れそうになる。一刀は咄嗟にその腕を掴むと、グイと自分の方へ引き寄せた。結果、関羽の体は一刀の胸に寄り掛かり、両腕の中にスッポリと納まる形になってしまった。


 「なっ……!」


 「さっきまで気を失ってたんだから、無理しちゃ駄目だって」


 驚きの声を上げる関羽に構わず、一刀はそっと肩を抱いた。関羽は体を強張らせるが、ふと、さっき自分を呼んでいた声が一刀の物である事に気付いた。なぜ、という思いが彼女の中に去来する。


 私は彼に罵声を浴びせ、散々に罵った。天の御遣いであるなど嘘だ、と彼自身を否定する事まで言った。なのに、どうしてこんな私の心配をするのか。これではまるで、桃香様ではないか。


 そこまで考え、関羽は一刀の腕の中でかぶりを振った。桃香様とこの男が同じはずはない、と。


 離れなければ、と考えてはいるのだが、体は動かない。それは女性の本能だったのかもしれない。男性特有の筋肉質な体は、彼女の心に万難から守られている様な安心感を与えていた。


 「愛紗よ、お主も随分としおらしくなったものだな。どこぞの生娘かと思ったぞ」


 いきなり声を掛けられ、関羽は体をビクッとさせた。声のした方を見てみれば、そこには趙雲がニヤニヤしながら立っている。


 「ちっ、違うぞ、これは! 私がしたくてしたのではない!」


 そう叫んでみても、まだ体には力が入らない。大人しく抱かれているしかなかった。


 「やれやれ。そんなに顔を赤くしていては、説得力などありはしまいに」


 「にゃはは~。愛紗のお顔が真っ赤なのだ」


 趙雲に続き、彼女に背負われている張飛にまでからかわれる関羽。そんな3人のやり取りを、一刀は微笑ましく見ていた。


 「ところで、北郷。いつまでも、そんな顔をしていてよいのか?」


 話を振られたものの、一刀はピンと来なかった。が、今度は彼が体をビクつかせる事となる。


 「なぁ、一刀。お前、いつからそいつとそんなに仲良くなったんだ?」


 ゆっくりとした低いトーンの声が背中に突き刺さる。恐る恐る振り返ってみれば、そこにはひきつった笑みを浮かべる翠の姿があった。翠は喜怒哀楽が素直に面に出てしまうタイプである。それが、笑いながら怒っている。一刀にとって、これは普通に怒りを露にされるより、ずっと恐ろしかった。


 「ち、違うんだ、翠。これは……」


 少なからず、彼の中にもやましい気持ちはあったらしい。慌てて取り繕いながら離れようとするも、やはり関羽はふらついてしまう。そうなれば、一刀はそれを支えざるを得なかった。しかし、その様を見て、翠のこめかみがひくひく動く。


 「……まぁ、あたしには関係無いけどなっ!」


 笑みも消え、フンッと鼻息荒く、翠はそっぽを向いてしまった。その横では、相も変わらず趙雲がいやらしく微笑んでいる。そんな2人の間から呂布が顔を覗かせた。


「……翠から聞いた。ごめん……」


 そう言った呂布の顔は、わずかだが眉尻が下がっている。趙雲達からしてみれば、ただ謝っただけにしか見えなかっただろう。しかし、彼女の普段の無表情っぷりを知っている翠には、本当に反省しているのが感じられた。


 「っ! ……いや、私達も無事だったのだ。気にする必要は無い。そもそも、張飛の奴がしっかりと説明出来ていれば、今回の様にはならなかったはずだ。こちらにも落ち度はある。すまなかったな、呂布よ」


 呂布を責める事もせず、関羽は落ち着いた様子で返答をする。一刀に抱かれたままとはいえ、堂々とした態度だ。だが、一刀だけは、関羽が虚勢を張っている事に気が付いていた。


 彼女の体はわずかに震えており、他の者からは死角になっている右手で自分の首をさすっている。そんな関羽を、立派であると思うと共にいじらしく感じた一刀。わずかだが、彼女を抱く手に自然と力がこもった。


 「……じゃあ、恋は戻る」


 いつの間にか姿を表した愛馬に手を掛けながら、呂布が言った。その声に翠と趙雲は振り返る。


 「まだ、虎牢関の前は戦闘が続いてるみたいだからな、気を付けろよ。……本当は、あたしも手伝ってやりたいんだけどな」


 翠の言葉に対し、呂布は黙ったまま首を横に振った。


 「そうだな。じゃあ、先に西涼で待っててくれ。あと、月達によろしくな」


 今度はその言葉にうなずく。呂布に事情を説明した際、翠は董卓達の脱出が完了した事を聞いていた。だから、この後虎牢関を放棄し、西涼まで逃走する事になるのも分かっていた。


 「呂布! もう一度、鈴々と勝負するのだ! 今度会ったら、ぜ~ったい負けないからな」


 鈴々は勇ましい台詞を、趙雲におぶさったままの情けない格好で言った。ヒラリと馬の背に跨がり、呂布は振り返る。


 「……張飛、強い。強い奴と戦うのは楽しい。……約束」


 2人は互いの目を真っ直ぐに見つめ合う。強者同士、通じ合うものがあるのだろう。それだけ言い残し、呂布は去っていった。


 「あの……、北郷、殿。そろそろ放して頂いても……」


 おずおずと発したその言葉で、関羽はようやく一刀から解放された。まだ多少ふらつく感じはあるが、だいぶ体に力が入る様になったな。右手を数回握りながらそんな事を考えていると、再び鈴々が口を開いた。


 「愛紗ばっかりお兄ちゃんと仲良くしてずるいのだ。鈴々も、お兄ちゃんに抱き締めて欲しいのだ」


 それを聞いて、一刀と関羽だけでなく、翠まで顔を赤らめた。そんな3人の顔を見遣った趙雲は、またもニヤリと笑う。


 「そうか。ならば、北郷に陣まで連れ帰ってもらえ」


 そう言うと、趙雲は自分の背中へと手をやる。鈴々の服を、まるで猫の首を持つかの様につかむと、ヒョイと持ち上げた。そのまま下手投げでトスする様に、一刀に投げて寄越す。鈴々の体は綺麗な弧を描き、一刀の胸へと飛び込んだ。






 虎牢関の前で行われている張遼と夏侯惇の一騎討ちは、五十合以上打ち合っても決着は付いていなかった。最初の内は互角であった2人だが、四十合を過ぎた辺りから張遼が押し始める。


 純粋な武であれば、夏侯惇の方が上である。力、技、速さ、どれをとっても張遼は夏侯惇に一歩及ばない。だが、馬術だけは別だ。これに関しては、張遼が夏侯惇を大きく引き離していた。さらには、跨がっている馬の差もある。勝負が長引いて疲労が積み重なってきた事でその差が大きくなり、両者のパワーバランスを崩したのだった。


 「どないした、夏侯惇! あんだけの事言うといて、この程度かいな!?」


 「くっ! 調子に乗るなよ、張遼!」


 疲労により馬の反応が鈍くなっているため、どうしても後手に回ってしまう。こうして夏侯惇が吠えてみも、彼女の馬が元気になる事はない。そして、その差が決定的な物になるのは、さらに十合程打ち合った後だった。


 張遼の重い一撃を大剣で受け止めた夏侯惇は、逆に弾き返そうと力を入れた。だが、彼女と違い、すでにその馬は限界に達していた。ガクッと前足が折れ、つんのめる様になりながら前に倒れる。当然、夏侯惇の体は投げ出され、右肩を強かに打ち付けてしまう。その拍子に、彼女の手から大剣がこぼれた。急いで起き上がり武器を拾おうとするが、その動きは片膝を立てたところで止まる。彼女の鼻先には、張遼の繰る偃月刀が突き付けられていた。


 夏侯惇は視線を偃月刀の穂先から、徐々に上に移していく。この戦いに納得したのか、呼吸の荒い張遼の顔には満足気な笑みが浮かんでいた。


 「馬の差とは言うても勝負は勝負や。約束通り、その首、この張遼がもろたーっ!」


 勝利を確信し、張遼は飛龍偃月刀を大きく振り上げた。だが、その張遼の体が横に傾ぐ。彼女の跨がる馬が、力無く倒れたためだった。あまりにも突然の事に、張遼は受け身すら取れずに地面に叩き付けられる。その瞬間、ボキッという嫌な音と共に、左手の小指に鈍痛が走った。


 『……ちっ、折れよった』


 ほんの一瞬痛みに顔を歪ませたものの、すぐに表情から消した。夏侯惇に悟られないため、というのはもちろんだったが、自分の事以上に、倒れた馬の事が気になったからだ。張遼はこの馬を、もう2年近くも相棒としている。癖や限界といった物は彼女の体に染み付いており、それを間違えるはずは無かった。


 上体を起こし、張遼は倒れた愛馬の体に目を向ける。すると、首に2本の矢が突き刺さっている事に気付いた。一騎討ちを邪魔され、その上、愛馬まで殺された。激情にかられる張遼。


 「夏侯惇! 己、どういう事や!? 一騎討ちや言うといて、負けそうになれば横槍を入れる。これがお前等のやり方なんか!?」


 しかし、これは、夏侯惇が命じた事ではない。彼女も張遼と同じく、戦場の流儀を重んじるタイプの武人である。一騎討ちに負けそうだから他の者に助けてもらう、などという考えは、彼女にはあり得ない。そもそも、負ける事自体を考えていないのだから。


 「わ、私ではない! ……秋蘭、どういうつもりだ!?」


 矢が放たれたであろう方向を振り向きながら叫ぶ。張遼もつられて首を回した。その視線の先には、弓を構えたままの夏侯淵が立っていた。


 「姉者よ、我等の全ては華琳様の物だ。華琳様の掲げる覇道のために我等の全てが存在する事、忘れたのではないだろう。このようなところで、無意に命を散らさせる訳にはいかん!」


 曹操の名を傷付ける行為である事は分かっている。姉を助けたい、という個人的な思いもあった。だが、これから先の事を考えれば、夏侯惇という猛将はどんな事をしても失う訳にはいかなかった。


 「何ぬかしとんねん! んなモン、ウチの知ったこっちゃないわ!」


 そう叫んで立ち上がった張遼に対し、夏侯淵は矢を射掛ける。何とか偃月刀で払い落としたものの、おいそれとは飛び込めない程の速さと正確さだった。


 張遼の意識が妹に移った隙に、夏侯惇は愛剣、七星餓狼を拾い上げる。そして、わざと張遼の正面に回り込んでから斬りかかった。妹の言っている事は分かるが、その行動には後ろめたさを感じた。だからこそ、夏侯惇は虚を突く様な真似はせず、両者の間に割り込む形で攻撃を仕掛けたのである。


 夏侯惇の存在が意識の端へと行ってしまっていた張遼ではあったが、さすがに視界のど真ん中から仕掛けられれば、しっかりと対応出来る。夏侯惇の放った斬撃を偃月刀で弾く。その瞬間、折れている左手に衝撃が加わり、激しい痛みが体を貫いた。思わず顔をしかめ、左手を柄から放してしまう。そこへ、夏侯惇は振り下ろした大剣の刃を返し、あえて偃月刀を狙って切り上げる。右手1本では夏侯惇の馬鹿力に対抗する事は出来ず、飛龍偃月刀はその名の通りに宙を舞い、地面に突き刺さった。


 さらに追い討ちを掛ける夏侯惇。上に振り抜いた大剣の柄尻を、張遼の左肩目掛けて振り下ろす。その一撃は綺麗に鎖骨を捉え、張遼の耳に再び不快な音を響かせた。


 「がっ……!」


 悲鳴を上げた張遼は、左肩を押さえてうずくまる。そんな彼女の首筋に刃が触れた。


 「張遼、大人しく降服しろ。それ程の腕をここで散らすのは惜しい。我らが主、曹操様のためにその力を奮え」


 降服を勧める夏侯惇を、張遼は下から睨み付ける。


 「アホぬかせ。邪魔が入らんかったら、ウチの勝ちや。あんな卑怯な奴を飼っとる時点で、曹操の器もたかが知れとるわ!」


 時間稼ぎが目的で一騎討ちを受けたのは確かだ。曹操に降るつもりなど全く無かった。だからと言って、戦前に取り決めた事を、たとえ口約束とはいえ、反故にする様な恥知らずな行為に走る張遼ではない。もし、正々堂々一対一の勝負に負けていたら、降服勧告に従っていただろう。だが、邪魔をされた。夏侯淵の独断だと思いつつも、夏侯惇に対して激しく失望はしていた。


 一方の夏侯惇にも後ろめたい気持ちがある。たとえ自分が指示した事ではないとはいえ、だ。だから、約束を違えようとしている事に文句を言うつもりは無いし、曹操を罵倒されても耐えた。しかし、ここで張遼を見逃す訳にはいかなかった。自分と互角に戦える者を生かしておけば、将来の禍根となる。そう思い、夏侯惇は大剣を振り上げた。


 「覚悟はいいな?」


 「当たり前やろ。ウチは武人、戦場で死ぬ事こそ本望や」


 夏侯惇が首を落としやすい様に、張遼は頭を垂れた。


 『ウチの部下は、ねねの奴が何とかしてくれるやろ。ま、ここを確保しとくんは無理やろうけど、恋ならナンボでもやりようがあるしな』


 そして、まぶたを閉じる。


 『あ~、また、月ちん悲しませてまうわ。……せやけど、華雄もあれで寂しがりやし、1人きりにしとくんは可哀想、か』


 そう考え、張遼は自嘲気味に笑った。だが、悔いはない。武人としての矜持を貫いたのだから。


 「ぐわっ!」


 辺りに大きな叫び声が響いた。だが、それは張遼の物ではない。目を開けた張遼の視界に、七星餓狼が落ちてくる。それに続いて赤黒い物が2、3滴垂れて大地にシミを作った。驚いて視線を上げてみれば、夏侯惇は両手で左目を押さえている。その手には赤い筋が走り、指の間からは、まるで眼球から生えてきたかの様に、矢羽が突き出ていた。


 「姉者!? 姉者!」


 夏侯淵は転げる様に馬から降りると、弓を投げ出して夏侯惇へと駆け寄る。普段の冷静沈着な彼女らしくない、半狂乱と言ってよい程の取り乱し様である。


 あまりの事に呆けていた張遼は、そんな夏侯淵の悲痛な叫びで我を取り戻した。本当に目から矢が生えるはずもなく、何者かが夏侯惇に向かって射掛けたのだ。


 「一体誰や!? こんなふざけた真似したんは!」


 激怒した張遼は、叫びながら振り返る。大声を上げたために肩と指に激痛が走るが、そんな事は気にならなかった。彼女の中には、助かった、などという思いは微塵も無い。あるのは、自分の矜持を汚された、という事だけだった。


 あまりの剣幕に、彼女の副官ですら怯えている。そんな兵達の間を通り、1頭の馬が張遼へと近付く。馬上の人物の手には、騎射を行う時に使う短弓が握られていた。


 「恋……? あれをやったんはお前なんか?」


 怒りを隠そうともしない張遼に対し、呂布は平然と近付き首肯する。


 「何でや! ウチは一騎討ちに負けてんねんぞ! それを曲げる訳にはいかんやろが!」


 今度は首を横に振る。


 「……先に勝ち負けをねじ曲げたのはあっち。邪魔が無ければ、霞が勝ってた」


 「せやけど……」


 張遼にもそれは分かっていた。だが、その事も含めて負けを認めたのだ。それに、夏侯惇を罵倒した手前もある。呂布の言葉を認めてしまえば、夏侯惇と同列になってしまう。それは、あまりにもみっともなかった。


 「……華雄が生きてても、霞が死んだら悲しい」


 「んな事言うたかて……、って、華雄の奴、生きとるんか!?」


 「……翠がそう言ってた。」


 呂布は再び首を縦に振る。張遼にとっては寝耳に水だった。驚喜の想いが体の内側から沸き起こる。と同時に、華雄が1人で寂しがっている、と考えた事を思い出し、恥ずかしさに身悶えた。


 しかし、華雄が生きている事と一騎討ちの結果は別だ。心を動かされたものの、翻意にまでは至らなかった。


 「……この勝負、分けにしておいてやる」


 不意に背中から声を掛けられ振り向くと、夏侯惇が妹の肩を借りながら立ち上がろうとしていた。


 「お前、大丈夫なんか!?」


 敵でありながらも、思わず心配してしまう。その様子に、夏侯惇は脂汗を浮かべたままかすかに笑った。


 「フンッ。この程度、傷の内に入らん」


 右手を突き刺さっている矢に掛ける夏侯惇。その横では、夏侯淵が涙を浮かべて心配そうな顔をしている。次の瞬間、夏侯惇は自らの眼球ごと矢を引き抜いた。


 大量に噴き出す血。悲鳴を上げる夏侯淵。絶句する張遼に、わずかに眉をしかめる呂布。それらに一切構わず、夏侯惇は引き抜いた眼球を自分の口へと運び、再び己の物とした。


 「……張遼、次に会う時には、必ず決着を付けてやる」


 「……ハッ、ええやろ。今回は、痛み分け、っちゅー事で手打ちにしたる」


 ここまでやられては、さすがの張遼も退くしかなかった。呂布の後ろに腰を下ろした張遼は、馬上から声を掛ける。


 「夏侯惇! こんな所で死ぬんやないで!」


 それだけ言うと、張遼達は離れていく。兵達も2人に従い、董卓軍は全て虎牢関に撤退した。それを確認すると、夏侯惇は妹の腕の中で気を失った。辺りには、夏侯淵の慟哭だけが響くのだった。

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