第2章-洛陽編・第8話~飛将軍呂布~
「妾はもう嫌なのじゃーっ!」
この日の軍議は袁術の叫び声で始まった。前日、董卓軍にこてんこてんにやられ、袁術は涙声になっている。
「大体、お主らずるいのじゃ。なぜ、妾ばっかり……」
堪え切れず、ついに袁術は泣き出してしまう。その様子を、諸侯はため息を吐きながら眺める。袁術軍が負けた事により、新たに先陣を務める部隊を決めるための軍議なのだが、そんな雰囲気ではなかった。
「全く、それでも袁家の人間ですの? 情けないですわね」
張勲にあやされている袁術を横目で見てから、袁紹は長い机の両側に腰掛ける諸侯の方に目を向けた。
「ですが、美羽さんのおっしゃる事ももっともですわ。私達以外の方は、ほとんど戦っていらっしゃらないのですから」
確かに彼女の言う通りだった。袁家の2人以外に、大きく兵を損なった者はいない。ようやくその事に気付いた袁紹は、しばらくうつむいて何事か考えた後、おもむろに口を開いた。
「ならば、こうしましょう。毎日皆さんが交替で虎牢関を攻撃するのです。そうすれば、平等に戦う事になりますから」
袁紹の思い付きはそのまま採用された。連合軍はいくつかの班に分けられ、翌日から班単位で虎牢関攻めに掛かる事になった。
「なぁ、良かったのか? 何も言わなかったけど」
軍議から戻る道すがら、翠は一刀に尋ねた。彼女には、袁紹の立てた作戦が有効な物の様に感じられていた。他の諸侯から反対の声が上がらなかったのも、それを裏付けている気がしてならなかった。
「たぶん、大丈夫だよ。翠の考えている様な事にはならないと思う。むしろ、こっちにとって有利に働くんじゃないかな」
翠の心配などよそに、一刀はあっけらかんと答える。楽天的とも取れる言葉だったが、翠の不安な心は不思議と落ち着いた。
まず最初に虎牢関を攻める事になったのは、劉表と劉備の合同軍だった。少ない兵しか持たない者は、大きな兵力を持つ他の諸侯に従う形で虎牢関攻めに当たる。しかし、劉表はまともに戦おうとはしなかった。もちろん、桃香からしてみればありがたかったのだが。
「劉表さん、いいんですか? こんなにのんびりしてて」
一応、桃香は尋ねてみる。
「何、構わんよ。真面目にやったところで、袁家の娘共の手柄になるだけじゃからな」
劉表は真っ白な顎髭を撫でながら、桃香の問いに答えた。
『やっぱり、朱里ちゃんの言ってた通り、なのかな。でも、これなら一刀さん達との約束も守れそう』
劉表の答えを聞いて、桃香は胸を撫で下ろした。
この状況を、諸葛亮は予測していた。毎日寄せ手が代わる事には、大きな問題があるからだ。苦労して虎牢関を攻撃し、落とす寸前までいっても、次の日には別の諸侯が寄せ手を担当する事になる。そうなれば、手柄は得られずに損害だけが残る事になってしまう。誰もそんな貧乏くじは引きたくなかった。
だが、この作戦を立案した袁紹だけは違う。連合軍の総大将である袁紹は、誰が虎牢関を落としたかに関係なく手柄を得る事が出来る。しかし、袁紹のそんな魂胆はほとんどの諸侯に見抜かれていた。
被害を被る事無く手柄を得たい。そんな不埒な思いを持った者が真剣に虎牢関攻めに当たる訳も無く、散発的な攻撃を繰り返すだけの無意味な日々が過ぎていった。
守備側からしてみれば、こんなに楽な事は無かった。だが、張遼達は兵の緊張を切らさない様、一層軍紀を引き締める。油断して、万が一にも敗北を喫する訳にはいかないのだ。
また、関にこもり続けるために生じる兵達の不満を除く事も忘れない。普段は固く関門を閉ざしているが、袁紹など与し易い相手が前線に来ている時には、関門を開いて討って出る。
こうして虎牢関を死守し続けた張遼達の下に、ようやく待望の知らせが届いた。
「申し上げます。董卓様、ならびに賈駆様は、無事に洛陽を脱出。張将軍方も虎牢関を放棄し、西涼へ脱出する様に、とのお達しです」
報告を受けた張遼は、よっしゃーっ、と叫び、ガッツポーズを作る。その横では、陳宮が呂布に抱き付いて喜んでいる。呂布は普段と変わらず無表情なままだが、付き合いの長い張遼には、雰囲気で嬉しい気持ちが伝わって来た。
だが、彼女達の顔からは、すぐに歓喜と安堵の色が消えた。特に、張遼は戦場のど真ん中にいるかの様に、獰猛な顔になる。
「撤退する前に、落とし前だけはきっちり付けとかんとな。せやないと、ウチは月に顔向け出来へん。陳宮、兵達を集めえや。董卓軍最後の戦、派手にぶちかましたる!」
その日の夜半過ぎ、董卓軍は連合軍へ夜襲を掛けた。寄せ手を務めていたのは青州牧の孔融だったが、戦下手な彼は夜襲への警戒をしておらず、いい様に蹂躙されるのだった。
「全く、いつまでもこんな所で足止めされている場合ではありませんわ! 今日こそ、虎牢関を突破して見せなさい!」
早朝から袁紹の檄が飛ぶ。それに応え、袁紹軍の将兵は猛烈に虎牢関を攻め立てる。とはいえ、相も変わらず正面からの力押しだが。
両軍が激しくぶつかり合う中、太陽が中天に差し掛かった頃だった。連合軍の中軍辺りが騒がしくなったかと思うと、幾筋もの煙が立ち上る。それを合図としたかの様に関門が開き、張遼率いる董卓軍が飛び出した。
いきなりの事に、袁紹軍の前線は崩れかかる。が、顔良と文醜、両将軍の指揮で何とか持ち堪えた。しかし、状況は芳しくない。
「斗詩、後は任せた。アタイは、兵達が落ち着く時間を稼いでくる」
「えっ? ちょっと、文ちゃん!?」
顔良の制止も聞かずに馬を走らせた文醜は、そのまま単騎で張遼隊に突っ込んでいく。馬上で大剣、斬山刀を激しく操り、寄って来る張遼隊を次々切り捨てる文醜。そうして、10人程の死体が辺りに転がったところで大声で名乗りを上げる。
「アタイは袁紹軍の将、文醜! 張遼、アタイとの一騎討ちを受ける度胸があるか!」
言い終わるか終わらないかの内に、張遼隊は自らの大将のために道を開く。その道を、張遼は馬に跨り悠々と文醜の前まで進み出た。
「弱兵ばかりで退屈しとったとこや。お前は、ウチを楽しませてくれるんやろなぁ?」
その瞳に殺意を宿した張遼は、ニヤリと笑うと飛龍偃月刀を両手で構えた。文醜も、ワクワクした様子で楽しそうに笑う。顔良に向かって言った、時間稼ぎ、という言葉は、自分が暴れたいがための建前に過ぎなかった。その点において、彼女は、強者と戦う事に至上の生き甲斐を感じる張遼と似ていた。
「氾水関での借りを返す!」
「恋においしいとこを譲ったんや。その分、ここで暴れさせてもらうでーっ!」
袁紹軍の後方に部隊を展開する曹操は、斥候から現状報告を受けた。それを元に、これからの動きを考える。
後方で上がっている火の手は、昨晩の夜襲をめくらましにして関の外に身を潜めた董卓軍の仕業だろう。なぜ劉表と劉備を狙ったのかは分からないが、とりあえず無視しておいて問題無い。むしろ、曹操は虎牢関の方に意識を集中させていた。虎牢関から打って出たのは張遼だけ。呂布の旗は虎牢関にはためいたままで、その姿は見えない。
好機ね。そう呟くと、曹操は考える事を止めた。
「春蘭、貴方は私が氾水関で言った事を覚えているかしら?」
夏侯惇は曹操の前に跪く。
「はっ! 張遼の事ですか?」
彼女が覚えていた事が以外だったのか、曹操はその答を聞いて笑みを浮かべる。
「ええ、そうよ。このままでは、連合に参加した意味が何も無い。せめて、張遼だけでも私の前に連れてきてくれる?」
張遼を生け捕る様に命令された夏侯惇は、返事をした後、誰が見ても分かる淋しそうな顔を見せた。
「……しかし、あの……、華琳様……」
なぜか歯切れが悪い夏侯惇。何か言いたそうにモジモジしながら頬を赤らめると、曹操から視線を外してしまう。そんな彼女らしからぬ所作の理由を思い当たった曹操は、その笑みを艶っぽいものに変えた。夏侯惇に一歩近づくと、ゆっくりと手を伸ばす。細くしなやかな指が、夏侯惇の紅潮した頬にそっと触れる。
「安心しなさい、春蘭。張遼を私の前に連れてきてくれれば、今夜は貴方をたっぷりと可愛がってあげるわ」
曹操の指は、頬から顎へとなめらかに滑っていく。顎先に指を掛け、自分の方へ顔を向かせる。すると、夏侯惇の顔はさらに赤くなり、とろける様な表情へと変わった。曹操もいとおしそうな眼差しで見つめ返している。
だが、それはわずかな間だけだった。夏侯惇から指を離すと同時に、曹操は普段通りの引き締まった顔に戻る。
「やり方は貴方に一任するわ。見事、張遼を捕らえてみせなさい」
こちらもキリリとした表情に戻った夏侯惇。再度返事をした彼女は、自分の部隊へ戻ると張遼を攻略する準備を始めた。
「秋蘭、貴方も一緒に行って春蘭を援護しなさい。こちらの守りは、季衣がいれば大丈夫よ」
そう命令された夏侯淵も姉と同じ様に返事をし、進撃する準備に取り掛かった。
曹操軍よりもさらに後方、劉表・劉備合同軍は混乱に包まれていた。天幕や集積された物資など、陣内の色々な所から火の手が上がっている。兵達が忙しなく右往左往する中、鈴々は1人のんびりと歩いていた。とはいえ、ただ散歩をしている訳では無い。潜入している敵兵を探しているのである。
鈴々はふと足を止めた。両肩に担ぐ様にしていた丈八蛇矛を下ろすと、地面に突き立てる。
「そこに隠れている奴、出て来い! 鈴々には分かっているのだ」
鈴々が大声で叫ぶと、天幕の影からゆっくりと1人の少女が現われた。赤い髪に入れ墨の様な模様の入った褐色の肌。呂布であった。方天画戟を右手で無造作に持ち、いつも通り表情を変えずに鈴々に近付く。
さすがは2人共、歴史に名を残す豪傑である。お互いに構えている訳でもないのに、その身から発せられる雰囲気だけで、周囲の温度がわずかに下がる。
「……お前が関羽か?」
ピリピリとした緊張感の中、先に口を開いたのは呂布だった。
「違うのだ! 鈴々は張飛、字は翼徳。愛紗は鈴々の姉者なのだ。お前は一体誰だ」
「……恋は呂布。関羽でないなら用は無い……」
そう言えば、霞が関羽は黒髪だと言っていたな。そんな事を考えながら、呂布は張飛に背を向ける。
「待てーっ! お前が呂布なら、このまま見過ごす訳にはいかないのだ! 鈴々が相手だ!」
呂布の背中に向かい、張飛は蛇矛を構えながら叫ぶ。劉備軍と馬騰軍の密約から考えれば、相手だ、という言葉はおかしい。だが、軍議のほとんどを寝るかボーッとするかして過ごしている彼女は、今回の事を全て理解している訳では無かった。と言うより、今だに敵としか認識していないのかもしれない。
一方の呂布も、馬騰軍と劉備軍が協力関係にある事など知らなかった。先程言った様に、関羽以外に用は無い。しかし、誰が関羽でどこにいるのかも分からない。ならば、目の前にいる関羽の妹を利用すればいい。呂布は張飛の方に向き直った。
両手で蛇矛を持ち、腰を落として構える張飛。対して、呂布は片手で戟を持ったまま、特に構えを取る事はしない。
先に仕掛けたのは鈴々だった。力強く大地を蹴ると、一気に距離を潰す。勢いをそのままに、鈴々は上段から蛇矛を振り下ろした。呂布は右足を引いて、半身になる様にしてそれを躱す。目標を失った蛇矛は地面を陥没させるが、鈴々はそれを強引に引き抜くと、斜めに振り上げる様に薙ぐ。だが、呂布が後ろに跳んだため、蛇矛は再び空を切った。
鈴々は体をそのまま1回転させて呂布を正面に捕らえると、今度は激しく突きを繰り出した。常人の目には映る事もかなわない速さの突きを、呂布は戟を使いもせずに回避していく。何度目かの突きを放った後、鈴々は蛇矛を引き戻さず、横に躱した呂布に向けて薙いだ。後ろに下がるのは距離が近すぎて出来ない、と判断した呂布は、この一騎討ちにおいて初めて戟を使う。互いの得物が十字を描く様に交差し、雷鳴と間違える程の激しい激突音が辺りに響いた。
そのまま、両者は力比べの格好になる。表面上は拮抗して見えるが、両手で押し込んでいる鈴々に対して、呂布は未だに右腕一本しか使っていない。この事に鈴々のプライドは傷付き、意固地になった彼女は、さらに力を込めて押し込もうとした。その心の内を見透かしたかの様に、呂布はタイミングを合わせて戟を引く。鈴々は予想していた抵抗が無くなった事により、つんのめってわずかにバランスを崩す。すると、今度は呂布が戟を押し込み、蛇矛を弾いた。まるでバトンを操るかの様に軽々と戟を回すと、大きく体勢を崩している鈴々に向かって突きを放つ。その一閃を何とか防いだ鈴々だったが、あまりの威力に2、3歩よろめいた後、尻餅をついてしまった。
だが、そんな隙だらけの鈴々に対して、呂布は追い討ちを掛けようとはしなかった。戟を肩に担ぎ、つまらなそうな目で鈴々を見下ろしている。
「……お前じゃ、恋には勝てない。早く関羽を連れて来い」
代わりにお前は見逃してやる、とでも言わんばかりの物言いに、鈴々は頭に血を上らせた。
「鈴々をバカにするなーっ!」
尻餅をついた状態のまま、呂布に向かって蛇矛を突き出す。しかし、踏張りの利かない、上半身だけで放った突きが通用するはずもない。突きを躱した呂布は、空いている左手で蛇矛を掴み、グイと自分の方へ引き寄せた。蛇矛を握ったままの鈴々の体は宙に浮き、呂布へと近付いていく。そんな無防備な鈴々の体に、呂布は容赦無く膝蹴りをたたき込む。強烈な一撃に、思わず蛇矛から手を離してしまった鈴々。その体は高々と舞い上げられた。
受け身を取ろうと空中でもがくものの、ダメージのために体が上手く動かず、見る見る近付いてくる大地に激突するのは免れない。覚悟を決めた鈴々は、目を瞑って全身に力を入れる。だが、その体は予想に反して柔らかいものに包まれた。いつも嗅ぎ慣れた甘い香りが鼻腔をくすぐってくる。
「……愛紗〜」
目を開けると、そこには関羽の顔があった。彼女はホッとした様に相好を崩していたが、すぐに眉尻を上げた。
「全く、お前は何をやっているんだ。董卓軍とは戦わない、と説明しただろう? いつも軍議の席で居眠りなどしているから、こんな事になるんだ」
いきなり始まる関羽の説教に、鈴々は逃げ出したい衝動に駆られる。しかし、関羽の腕に抱きかかえられている今の状況ではそれは叶わず、げんなりした顔で早く終わるのを待つ他は無かった。
「……お前が関羽?」
そんな2人に、呂布が離れた位置から声を掛けた。すっかり呂布の存在を忘れていた関羽は、鈴々への説教を中断して声のした方に視線を移す。
「ああ、そうだ。貴公は呂……」
関羽は思わず息を呑んだ。うつむいた呂布の体から放たれる殺気のために。
数々の修羅場を潜り抜けてきた関羽でさえ感じた事の無いそれは、もはや殺気という言葉すら生温い様に感じられた。彼女に抱かれる鈴々も同じ事を感じているらしく、2人は身じろぎ1つせず、呂布を見つめている。遠くから聞こえてくる兵達の声も、近くで聞こえる鳥や虫の鳴き声も耳に届かない。それ程までに、関羽は呂布に集中していた。
関羽の背中を汗が伝う。その時だった。呂布は顔を上げると同時に地面を蹴り、一気に関羽に迫った。一方の関羽も、放り投げる様にして鈴々を放すと青龍偃月刀を構えた。にゃっ、という悲鳴が聞こえたが、それを気にしている余裕は無い。関羽は呂布の斬撃を真っ正面から受け止めた。五体がバラバラになったのでは、と錯覚する程の衝撃が体を貫くが、四肢を踏張り何とか耐える。そうして、両者は鍔迫り合いの様な体勢で動きを止めた。
「くっ……! 呂布よ、私の話を聞け。私達はお前の敵では……」
「……うるさい、黙れ。敵は取る……!」
何とか戦いを回避したい関羽。だが、呂布は聞く耳を持たない。これ以上話をする気はない、とばかりに、関羽の腹部に前蹴りを放って距離を取る。
「あ、愛紗!」
心配そうな叫び声を上げる鈴々を、関羽は横目で見遣った。まだダメージが抜け切っていないのか、辛そうな表情で体を起こしている。
「鈴々、お前は休んでいろ。この場は私に任せておけばよい」
妹を制した関羽は、話をするためには荒事もやむ無し、と覚悟を決めて偃月刀を握り直した。
虎牢関の前で行われていた一騎討ちは、張遼の圧勝で終わっていた。力、技、速さ、全てにおいて張遼の方が上回っていたが、特に差があったのは馬術と馬の能力だった。
袁紹に仕える以前、顔良と共に馬賊をしていた文醜の馬術も高いレベルにある。彼女の跨がる馬も、袁紹が金に飽かせて手に入れた良馬であった。だが、それでも張遼の馬術と馬の方が、圧倒的に上だった。
自分達が敬愛する将が負けた事で、袁紹軍の混乱は収まるどころかさらに深刻なものになってしまった。結果、袁紹軍は虎牢関から撤退しなければならなかった。
「ふぅ、これで少しは落ち着け……そうもないな」
独り言の様に呟く張遼の目には、袁紹軍と入れ違いに近付いて来る一軍が映っていた。掲げる旗には『曹』と『夏侯』の文字が書かれている。
『チッ、曹操とは、厄介な連中が来たもんや』
心の中で舌打ちをする。曹操軍の精強さを聞き及んでいたため、今までぶつからない様にしてきたのだ。だが、ここで後退する訳にはいかない。決死の覚悟で敵陣に潜入した兵や、華雄の敵を討ちに行った呂布のためにも、関門前は死守しなければならない。
「どう見ても、ウチ等より多いな。このままやと包囲されてまうけど、どうしたもんや……」
包囲されて乱戦になってしまえば、虎牢関からの援護射撃は期待出来ない。かといって、関門から離れる事も出来なかった。どうしたものか悩む張遼。
だが、曹操軍はそんな張遼の予想とは違う動きを見せる。虎牢関からかなり離れた位置で停止すると、そこから1人の女性が進み出る。長い黒髪をなびかせながら馬を歩ませるのは夏侯惇だった。彼女は張遼から数十メートル離れた位置で馬を止めた。
「我が名は夏侯惇! 張遼よ、大人しく我が主、曹操様に降伏しろ! そうすれば、貴様と部下の命は我が名に誓って助けてやろう!」
大声でのべられる口上。当然だが、張遼がそれに従うはずもない。
「はぁ? 何言うとんねん。董卓軍には、我が身かわいさに敵に尻尾を振る様な腰抜けはおらんわ!」
だが、その返事は夏侯惇の予想通りだった。むしろ、ここで素直に投降する様な者は、華琳様の将となるのにふさわしくない、そんな風に考えていた。
「ならば、私と一対一で打ち合え。私が勝てば、貴様と貴様の部下の命は私が預かる」
夏侯惇は大剣、七星餓狼の切っ先を張遼へと向けた。一方の張遼にも、一騎討ちの申し出を断るつもりは無かった。両軍が正面からぶつかった場合、呂布達が戻るまで関門前を支え切れる自信が無いからだ。一騎討ちを受ける意思表示に、馬をゆっくり進ませる。
「ウチが勝ったらどないするんや? お前らまとめて、うちの大将に付くんか?」
馬の足を止めた張遼は、そんな事を尋ねた。あくまで興味本意で尋ねただけで、別に言質が欲しい訳ではない。
「そんな物は必要無い。私が貴様に負けるなど、あり得んからな」
それを聞いた夏侯淵は、やれやれ、といった感じで肩をすくめる。姉らしい答えに呆れてはいたが、それと同時に好ましく思う。自分の勝利を微塵も疑わない純粋さ。それでこそ、私の愛した姉者だ。夏侯淵はそんな事を思っていた。
そして、夏侯惇の答えに好感を抱いた人物がもう1人、張遼である。
「あっはっは! ええ答えや。ウチはあんたみたいな奴、結構好きやで。……ほんなら、ウチが勝った時には、あんたの首級で我慢しといたるわ」
ひとしきり大笑した後、張遼は射抜く様な鋭い視線を夏侯惇にぶつけた。並みの者であれば、それだけで気を失ってしまう程の殺気をはらんでいる。
「……フンッ。さっきの私の言葉、忘れるな!」
夏侯惇もまた、獰猛な笑みを見ると、勢い良く馬を走らせた。
「あんたはウチを失望させへんやろな!?」
文醜との一騎討ちが消化不良だった張遼も、そう叫びながら馬の腹を蹴った。
今、関羽は馬超達の忠告を無視した事を後悔していた。呂布の強さは桁が違う。出来る限り戦うな。翠からはそう伝えられていたし、特に一刀からは、最低でも鈴々と二対一で戦うように、と言われていた。
自分の方が強い、などと慢心があった訳ではない。現に、強さにムラがあるものの、全力で戦えば自分よりも鈴々の方が強い、という事も分かっている。しかし、ある程度は戦えるはず、と、そんな自信があったのも事実だった。
2人は十数合打ち合った後、最初の様に鍔迫り合いの体勢に戻った。動きが止まった事により、関羽に若干の余裕が生まれた。
このままでは勝てない。一か八かの勝負に出るべきか。
余裕が出来た事で、そんな迷いが関羽の頭に生じた。迷いはわずかながらも隙を生む。そして、その隙を見落とす程、呂布は甘くない。
「……がっ!?」
呂布の左手が関羽の首根っこをつかんだ。そのまま、左腕一本で関羽の体を持ち上げる。呂布の握力と自分の体重とで気道が潰されている関羽は、みるみる顔色が変わっていく。
「……!」
口を開いても声が出ず、まるで金魚の様にパクパクとするだけ。足をばたつかせ、爪を呂布の左手に食い込ませるが外れない。そんな関羽の苦しみもがく姿を、呂布は冷ややかな瞳で見つめている。
次第に力は弱くなり、ついには四肢がダラリと垂れ下がる。関羽の象徴である青龍偃月刀も、ガランと音をたてて赤茶けた大地の上に転がった。
「……とどめ」
殺意を込めて呟くと、呂布は戟を逆手に持ち変え、ピクリとも動かなくなった関羽の心臓に狙いを着けた。
「愛紗から手を放すのだーっ!」
その時、大気を震わす咆哮と共に、火の玉の様な勢いで鈴々は呂布へと突進した。先程とは違う雰囲気をまとった鈴々に対し、呂布は本能で危険を感じとる。関羽の体を投げ捨てる様に放すと、鈴々を正面に構えた。
さっきはかわせた鈴々の斬撃だが、今回はそうはいかなかった。全力で降り下ろされた蛇矛を戟で受け止める。
「……っ!」
呂布の顔がわずかに歪む。押さえ切れない、と感じた呂布は、左手を戟に添えた。そのまま両手で戟を振るい、鈴々を弾き飛ばす。宙に浮かされた鈴々は、空中で体勢を立て直すと着地と同時に地面を蹴って呂布に肉薄する。その勢いのまま体ごとぶちかましにいった突きは、すんでのところでかわされてしまった。
しかし、鈴々は諦めない。蛇矛の穂先を下げて大地に打ち込む。すると、鈴々の体は、まるでメトロノームの振り子の様に半回転し、きれいに地面に降り立った。間髪入れずに蛇矛を振るう。予想外の行動を取られ、呂布の反応がわずかに遅れた。
「くうっ……!」
鈴々の一撃を防いだ呂布は、そう苦悶の声を上げる。衝撃でその体は1メートル程押し出された。
しかし、呂布も負けてはいない。空気も切り裂く程の速さの突きを、連続で繰り出す。その攻撃を防ぎかわした鈴々は、逆に呂布の戟を強く弾いた。体勢を崩した呂布に対し、大きく蛇矛を振りかぶる。
「うりゃーっ!」
気合いと共に降り下ろされた蛇矛は、しかし、またもやかわされてしまった。再度振り上げ追撃を図る鈴々。だが、わずかに呂布の動きの方が早い。左足で蛇矛を踏みつけて動きを封じると、戟を左足の外側に突き立てる。それを軸にして、強烈な蹴りを鈴々の顔面に放った。蛇矛を押さえられて身動きのとれなかった鈴々の体は数メートル吹き飛ばされ、地面を2、3回跳ねて転がった。
地面に倒れて動かない鈴々を見ながら、呂布は乱れた呼吸を整える。ここまでの危機感を抱かされたのは、随分と久し振りだった。董卓に仕えてすぐ、琥珀と刃を交えて以来であろう。しかし、その時はあくまで訓練。実際に命のやり取りをした訳では無い。今までにない血のたぎりを感じ、呂布は武人としての充足感に浸っていた。
そこへ、遅れて趙雲が駆け付けた。
「愛紗! 鈴々!」
2人の名を呼ぶが返事は無い。その2人から呂布に目をやれば、肩で息をしているものの、かすり傷の1つも無い様に見えた。公孫賛に客将として仕える以前、諸国を旅していた趙雲は、涼州を訪れた時に呂布の勇名という物は耳にしていた。しかし、まさかこれ程とは思っても見なかった。自分と同等か、それ以上の力を持つ2人を無傷で倒すなど、考えられるはずもなかった。
一体どれ程強いのか、非常に興味がある。だが、趙雲は呂布と争うために来たのではない。むしろ、逆だ。
「呂布よ、武器を収めろ。我等は貴公の敵ではない」
だが、呂布にしてみれば、いきなりそんな事を言われても信用できるはずはなかった。肩を上下に揺らしながら、趙雲に向けて戟を構える。
「……恋は華雄の敵を討つ」
「華雄? 今、華雄の敵、と言ったのか?」
趙雲の問いに、呂布は黙って頷いた。
「ならば、それこそ武器を収めよ。華雄は死んでおらんのだぞ」
それを聞いた呂布は、目を数回パチクリさせた後、言われた事を良く理解出来なかったのか、小首を傾げた。殺気は大分減ったが、未だに構えは解いておらず、隙を見せてはいない。
「我が主、公孫賛殿と劉備殿は馬超殿より話を聞いて、董卓殿の脱出計画に協力している。だからこそ華雄を生け捕り、捕虜として身柄を確保させてもらったのだ」
だが、趙雲の説明を聞いても、呂布は戟を下ろさなかった。しかし、それまでの様にしっかりと定まった構えではなく、趙雲には迷いがありありと見えた。
そこへ、馬の蹄の音が響いてくる。栗色の長い髪を、まるで吹き流しの様に風になびかせて、馬に跨がる翠の姿が2人の瞳に映った。翠は2人の間に突っ込むと、慌てた様子で馬の背から飛び降りた。そのまま仲裁に入る翠の背中に向かい、趙雲が声を掛ける。
「どうやら、私の言葉では信用出来んらしい。説明は任せるぞ」
そう言いながら槍を下ろした趙雲は、当然だな、と思い、自分の台詞を鼻で笑った。初対面、しかも敵対している勢力の人間から、自分は敵ではない、と言われても、すんなり信用出来るはずがない。それは、自分を相手と置き換えてみれば、簡単にわかる事だった。
『もっとも、簡単に人を信じてしまうお人好しも、いるにはいるがな』
そんな事を考えた趙雲は、喉の奥でククッと笑った。
翠から状況を説明された呂布は、驚く程素直に武器を収めた。やはり、真名を許しあった者同士とは、信頼関係が違うという事だ。そのやり取りを見て、もう大丈夫だ、と判断した趙雲は、2人に背を向けると未だに倒れたままの鈴々へと近寄った。
「大丈夫か、鈴々?」
「……う~、悔しいのだ~」
そう言うだけで、鈴々は上体を起こす事も出来ないでいた。
「フッ、さしもの燕人張飛も、飛将呂布の前では形無しと見える。……ほれ」
鈴々の脇にしゃがみ込んだ趙雲は、その背中で小さな体をおぶった。今さっきまで呂布と真っ向から打ち合っていたとは思えない程、小さくて軽い体躯だった。趙雲は鈴々を背負ったまま、翠達の側へと戻る。
「ところで、お主1人なのか? 蹄の音は2つあった様に思うのだが」
「ああ、一刀も一緒だ……、って、あれ?」
趙雲の方に向き直った翠は、辺りをキョロキョロと見回す。忙しなく動く彼女の視線は、ある一点を見て止まった。驚いた様に大きく目を見開き、頬にはわずかに赤みが差している。不思議に思った趙雲も、その視線を追った。
「……ほぅ」
そう呟くと、ニヤリと笑う趙雲。その視線の先では、一刀が関羽を抱き締めていた。