第2章-洛陽編・第6話~一騎討ち~
「あら、何だか外が騒がしくなりましたわね」
天幕の中で茶を飲んでいた袁紹は、独り言を呟いた。退屈そうに頬杖をつく彼女の元に、1人の兵がやって来る。
「報告します。策は成功、敵将華雄が氾水関より打って出ました」
それを聞いて立ち上がる袁紹。彼女はお得意の高笑いを辺りに響かせる。
「おーっほっほ! まあ、私の考えた策なのですから当然ですわね」
大本を考えたのは曹操、具体的な部分については顔良が考えたはずなのだが、彼女の中では自分で考えた事になってしまっているようだ。顔良も文醜もいない今の状況では、誰からも突っ込まれる事無く話が進む。
「では、予定通り氾水関を落とす様、猪々子さんと斗詩さんに伝えなさい」
ひとしきり笑った後、袁紹は兵士に命令を出す。その兵士が出て行った直後、入れ替わる様に別の兵士が入って来た。
「何です? まさか、もう氾水関を陥落させたのかしら。さすがは、名門袁家の将ですわ」
報告も聞かずに決め付けると、袁紹は満足そうに頷く。だが、実際にはそうでは無かった。
「敵部隊により前線が突破されました! そのまま、この本陣に迫っています!」
「ど、どういう事ですの!?」
叫んでみたところでどうなる訳でもなく、袁紹は兵士に促されるまま、自分の陣から逃げ出した。華雄隊が袁紹軍の陣に飛び込んだのは、その直後だった。
まだ遠くには行っておらず、しっかりと探せば袁紹の首級を挙げる事も出来ただろう。しかし、その事を知らない華雄は捜索をせず、一気に敵陣深くまで切り込む事に決めてしまう。
「よいか! 我等はこのまま連合軍の本陣に切り込む! 総員、我に続けーっ!」
華雄の号令に喊声で応える部下達。彼等は華雄を先頭に、袁術の守る本陣を目がけて突撃を開始した。
氾水関の関門前では、顔良と文醜が混乱した部隊の再編に努めていた。
「うーん、結構やられたな。斗詩、そっちは?」
「死者はそれ程でもないけど、怪我人が多いかな」
2人は被害状況を確認し合う。
華雄を氾水関から引き摺りだすまでは良かったが、問題はその後だった。怒りに燃える華雄とその部下の勢いは凄まじく、袁紹軍は迎撃態勢をとっていたにもかかわらず、いとも容易く突破されてしまった。顔良と文醜も、自ら前に出て何とか押し留めようとはした。しかし、華雄隊のあまりの勢いに袁紹軍の一部はパニックを起こし、2人はまともに戦う事すら出来なかった。
「とにかく、華雄の奴は氾水関から出たんだ。今の内に落とすぞ!」
文醜は気合いを入れる。だが、顔良は反対に心配そうな顔をしていた。
「ねぇ、文ちゃん。麗羽様は大丈夫かな? 華雄さん、凄い勢いだったけど」
そう言って、袁紹がいる天幕の方向を見つめる。それに対し、文醜の態度はそっけなかった。
「平気だって。麗羽様の悪運の強さは、斗詩も知ってるだろ?」
顔良はしばらく心配そうな顔をした後、平気かなぁ、と言いながら氾水関へと向き直った。そんな彼女の瞳に飛び込んで来る物があった。ゆっくりと開いた関門の中にはためく『張』の文字である。
「よっしゃーっ! 袁紹軍のアホ共、いてこましたれや!」
『張』の旗の下、先頭に立つ張遼の檄が飛ぶ。それに応えた張遼隊の兵達は、各々の跨る騎馬を駆けさせる。
対する袁紹軍は、完全には混乱から回復出来ておらず、陣形すらまともに組めていない。張遼隊の突撃に袁紹軍は一切勝負にならず、散々に打ち破られてしまった。
「どうやら、動き出した様ね」
氾水関から離れた位置で様子を観察している人物がいた。連合軍の右翼を務めている曹操だ。
「秋蘭、氾水関の様子はどうなっているかしら?」
「主将華雄、及び副将張遼共に氾水関より打って出ました。関にはほとんど守備兵が残っていません」
曹操の脇に立つ、水色の短い髪の女性が答えた。彼女の名は夏侯淵、字は妙才。夏侯惇の双子の妹である。浅慮で短気な姉とは違い、思慮深く冷静沈着。曹操から非常に厚い信頼を得ている将だ。
そんな夏侯淵の言葉を聞き、曹操はわずかに口角を上げた。
氾水関から将を引っ張り出して戦え、と袁紹に伝えたのは、当然好意などではない。そこには当たり前の様に裏があり、袁紹のために考えた、と言うのは、真っ赤な嘘に他ならなかった。
涼州兵の精強さを聞き及んでいた曹操は、袁紹軍の弱兵では相手にならない、と踏んでいた。おそらく、派手に打ち負かされ、激しく混乱するだろう。その間に部隊を前に出し、守備の薄くなった氾水関を攻め落とす。それが曹操の思惑だった。
ここまでは計画通り。後は、隙を突いて氾水関に向かうだけ。曹操は愛馬、絶影に跨りながら、そう考えていた。
そこへ、前衛部隊を指揮する夏侯惇の副官である少女が報告にやって来た。少女の名は許緒。ピンクの髪を頭の上で2つにまとめた、まだ幼さの残る少女だ。だが、力だけで言えば、曹操軍最強を誇る夏侯惇と互角に渡り合える程の剛の者である。
「華琳様、氾水関前の袁紹軍ですけど、予想以上に混乱が激しくて部隊を前に進められません」
それを聞いた曹操の表情がわずかに曇る。
袁紹軍の統制が、想像していた以上にとれていない事が原因の1つではあった。しかし、一番の誤算は張遼までもが出陣した事だった。
「どうしましょう、華琳様?」
許緒が顔を上げた時には、曹操の表情は普段通りに戻っていた。
「ならば、季衣。春蘭には待機する様に伝えなさい」
混乱している袁紹軍に割って入れば、動きが大きく制限されて連携もとれなくなる。その状態で氾水関に攻め掛かった場合、仮に勝つ事が出来たとしても、甚大な被害を出してしまうだろう。確かに、曹操には手柄が欲しかった。しかし、先の事を考えると、ここで悪戯に戦力を減らす様な真似はしたくなかった。
『取り敢えず、最低限の目的が果たせただけましだった、と言う事ね』
小さくなっていく許緒の姿を見ながら、曹操は自分自身を納得させた。
袁術の守る連合軍本陣を目指して馬を走らせる華雄隊。その行く手を阻む様に一団が姿を現す。掲げられた旗には『劉』の文字が刻まれていた。
華雄は立ちはだかっている部隊が小勢である事を見て取った。このまま一気に突破してしまおう、と考えていると、劉備軍の中から単騎で進み出て来る人物があった。騎馬に跨ったまま、長い黒髪をなびかせながらゆっくりと近付いて来る。その様を見て、華雄は笑みを浮かべた。
「面白い。この私に一騎討ちを挑むとは」
部下に命じて隊の進軍を停止させると、華雄も1人で前に出る。両者の間が30メートル程にまで詰まったところで、どちらからともなく馬を止めた。
「我が名は華雄! 無謀にも、私に一騎討ちを挑んで来たその度胸だけは誉めてやろう!」
「我は劉備が義妹、関羽! 華雄よ、私はお主と……」
「問答無用っ!」
関羽の言葉を遮ると、華雄は馬を駆けさせ距離を詰める。そうしながら、両手で戦斧、金剛爆斧を振りかぶった。
一刀が何としてでも回避したかった両者の一騎討ちは、こうして始まってしまった。
斥候からの情報で華雄が氾水関から打って出た事を知った翠は、部隊を率いて劉備軍の方へと向かっていた。
騎兵は攻城戦において、ほとんど役に立たない。そのため、騎兵が部隊の大半を占める馬騰軍と公孫賛軍は前衛から外されたのだ。そうして中盤に配置された両軍には、野戦になった際の迎撃が主任務として与えられていた。
しかし、翠達が華雄隊の所に向かっているのは、もちろん戦うためではない。逆に戦いを止めるためだ。だが、全軍でぶつかっておいて戦わない、という訳にはいかなかった。そこで、翠は先行する事にした。
「あたしと一刀は先に行く。たんぽぽ、お前は部隊を率いて後から来い。いいな?」
それだけ言うと、翠は返事も聞かずに自らの跨る黄鵬の腹を蹴り、スピードを上げさせた。今回の遠征にあたり、翠から彼女の愛馬である麒麟を借り受けている一刀は、その首を軽くたたく。すると、それだけで全てを察したのか、麒麟は速度を上げて黄鵬の後ろに付いて駆けた。
金属同士のぶつかる高い音が戦場に響く。華雄が両手で振り下ろした戦斧を、関羽が青竜偃月刀で防いだためだ。
「ほぅ、私の一撃を防ぐとは、少しはやる様だな」
攻撃を防ぐと同時に馬を下がらせ距離を取った関羽に対し、華雄は余裕の笑みを見せた。
「くっ……! 華雄よ、私の話を聞け!」
「問答無用と言ったはず! 貴様等と話す舌など持ち合わせてはおらん!」
翠達から話を聞いている関羽は、出来る事なら戦いを回避したい、と考えていた。しかし、華雄は聞く耳を持たず、険しい表情で大喝する。
再び間合いを詰める華雄。一方の関羽は戦う気が無いとは言え、このまま黙ってやられるつもりも無い。華雄の攻撃を止めるため、偃月刀を持つ手に力を込める。
『んっ……!』
そこで関羽は自分の手が痺れている事に気付いた。華雄の初撃を防いだ時のものだ。そのせいで反応が一瞬遅れる。何とか華雄の横薙を防いだものの、関羽はバランスを崩してしまう。その隙を見逃す訳も無く、華雄は追撃を掛けた。
華雄の使用している戦斧と言う武器は、長い柄の先に巨大な斧の刃が付いている。そのため、翠の使っている槍や関羽の偃月刀と比べて、武器の先端の方に重量が偏っている。それにより、強烈な一撃を放つ事が出来るのだ。ただし、その分攻撃が大きくなり、隙が出来易くなる。
しかし、華雄の操る戦斧は違っていた。円を描く様に振るわれる戦斧には、攻撃と攻撃の継ぎ目が無い。切り返しの隙が生じなくなるのである。しかも、遠心力によってさらに威力が増していた。
とは言え、誰にでも出来る事ではない。ただでさえ先端に重量の寄っている戦斧に遠心力が加われば、これを操るためには相当な力が必要になる。ましてや、華雄は馬上で行っているのだ。驚嘆に値する行為だった。
「どうした、関羽とやら! 自ら一騎討ちに臨んでおきながらその程度とは、片腹痛いぞ!」
防戦一方の関羽に対し、華雄は調子に乗ってさらに攻撃を仕掛ける。
関羽はその攻撃の威力に面食らっていた。しかし、それも最初の内だけだ。体勢を立て直してみれば、確かに一撃は重く隙も無いが、攻撃自体は単調である事に気付く。正面から攻撃を防ぐのは大変でも、力の方向を変えて攻撃を受け流すだけなら簡単だった。
「話を聞け、と言うのが分からんのか!?」
余裕が出て来た関羽とは対称的に、華雄には苛立ちが見て取れる様になってきた。
「うるさいっ! 貴様も武人であれば、言葉ではなく己が武で語ったらどうだ!」
そう叫び、華雄はさらに激しく戦斧を振るう。その攻撃を捌きながら、関羽の中にも次第にイライラが募ってきた。
なぜ華雄はこちらの話を聞かないのか。なぜ話し合いをしようとしているのか。そもそも、なぜ奴の言う事を聞かねばならないのか。自らの主を辱めた男のなのに。
数日前から積もりに積もったフラストレーションが、堰を切った様に一気に爆発する。
「いい加減に、しろーっ!」
まるで雷鳴の様な咆哮と共に振るわれた青龍偃月刀は、華雄の戦斧と激しくぶつかり合う。その衝撃と関羽のあまりの迫力に、華雄は思わず下がって距離を取ってしまった。
「……北郷に馬超、それに貴様。涼州の連中は、どいつもこいつも……」
関羽の憎気な呟きは、距離があったために華雄の耳にはっきりとは届かなかった。
「何? 貴様、どういう……」
「黙れっ! それ程までに武で決着を付けたいのなら、付き合ってやろうではないか!」
華雄を大喝した関羽。彼女は偃月刀の切っ先を華雄に突き付ける様にして構える。
何か腑に落ちない物を感じたものの、それは華雄の頭の中からすぐに消えた。元々彼女の方が話し合いを否定していたのだ。真っ向から打ち合えるのであれば、文句などあるはずは無かった。
「ならば、その素っ首を叩き落とし、本陣突入の景気付けとしてくれる!」
両者同時に馬を走らせる。頭上で戦斧を一度回し、勢いを付けてから振り下ろす華雄。それに対し、関羽は右に目一杯体を捻り、反動を付けて偃月刀を薙ぐ。気迫と誇りを乗せて交錯する互いの刃。
勝負は一瞬だった。
長年に渡り数多の戦場を潜り抜けて来た戦斧は、その持ち主の元を離れて宙を舞った。何が起きたのか理解出来ない華雄。だが、関羽は容赦無く追撃を掛ける。
「はあぁぁっ!」
体の左側へ振り抜いた偃月刀を、気合いと共に右側へと引き戻す。武器を失った華雄にそれを防ぐ術は無い。偃月刀に脇腹を抉られ、そのまま落馬してしまう。関羽が地面に仰向けに倒れる華雄へ偃月刀を突き付けても、何の反応も示さなかった。
「敵将華雄、この関羽が討ち取った!」
関羽は偃月刀を天に突き立てる様に掲げ、高らかに勝ち名乗りを上げた。
「くそっ、間に合わんかったか!」
華雄を連れ戻しに来た張遼は、関羽の勝ち名乗りを数百メートル離れた場所で聞いた。大将を討たれた華雄隊が浮き足立っているのは、この距離でも確認出来た。
このままでは全滅は必至である。華雄は助けられなかったが、その部下にまで同じ道を辿らせるつもりは張遼には無い。
「おい、銅鑼を鳴らせ。華雄隊を連れて撤退や」
言われた通り、張遼の副官は銅鑼を打ち鳴らす。その音を聞いた華雄隊は、『張』の旗を目にした事で落ち着きを取り戻したらしく、隊列を整えて張遼の方へ後退し始めた。当然だが、劉備軍に追撃の動きは無い。
「張遼将軍、華雄隊の合流、完了しました」
副官の言葉に、張遼は意識を引き戻される。それまで、彼女の瞳には関羽の姿しか映っていなかった。
華雄は、将としての総合力はともかく、武力では自分以上の力を持っている、と張遼は評価していた。その華雄を一撃で仕留めた関羽に興味を抱くのは、武人として当然だった。自分も関羽と一戦交えたい。そんな思いが張遼の頭の大部分を占めていたが、副官の言葉で思い止まった。
部下達が撤退を始めたのを確認してから、張遼も馬首を返す。
「華雄、必ず月は守ったるから、迷わず成仏するんやで」
それだけ言い残し、張遼は氾水関へと撤退して行った。
顔良と文醜は、氾水関の前で部隊を再度立て直していた。そこへ、本陣を捨てて逃げていた袁紹が合流する。
「全く、何をしているんですの、お2人は! 名門袁家の将として、恥ずかしいとは思いませんの!?」
袁紹は大声で2人を叱責する。2人は頭を垂れ、甘んじてそれを受け入れていた。そこへ、1人の兵が報告にやって来た。恐る恐る報告をしようとしたその兵を、袁紹は怒鳴り付ける。
「私達は忙しいのですから、そんな物は後になさい!」
そうして2人への叱責を再開しようとする袁紹だったが、兵は下がろうとはしなかった。深い深いため息を吐き、仕方ない、といった表情で、袁紹は報告する様促す。
「連合軍の本陣へと向かった張遼隊が引き返し、我等の後方より迫っております」
「な、何ですって!?」
仰天した袁紹は、顔良と文醜に迎え撃つ様に命じたが、すでに手遅れであった。袁紹は2人の将と数人の側近に守られ、這う這うの体で逃げ出すのがやっとであった。
その様子を、曹操は少し離れた場所から眺めていた。
「あれが神速の張遼。フフッ、欲しいわね」
脇に控える夏侯姉妹に聞こえる様、曹操はわざと大きな声で呟く。その顔には、妖しい笑みが浮かんでいた。
曹操から欲されている事など知る由も無い張遼は、袁紹軍を軽く蹴散らして氾水関に帰還した。休む間も無く、今度は氾水関からの撤退に取り掛かる。とは言え、出撃前に撤退をする事は伝えてあったし、元よりいつでも放棄出来る様な準備はしてあった。
兵糧や武器を積んだ輜重隊は、すでに虎牢関へ向けて発っている。後は、賈駆の計に従い最後の仕上げをするだけだ。
「氾水関に火を放て! そしたら、ウチ等も撤退すんで!」
張遼の命令を受け、兵達は予め決められていた場所に火を点けた。油を伝って広がる炎は、蛇の様に氾水関の至る所を這い回る。そして、要所要所にうず高く積まれた藁や枯れ木に引火し、次々と激しい火柱を上げていく。瞬く間に大蛇へと成長した炎は、全てを飲み込みながら氾水関の中をのたうち回った。
こうして炎の壁となった氾水関は、兵が撤退した後も連合軍の進攻を阻み続けたのだった。