第2章-洛陽編・第2話~反董卓連合~
天幕の設営もほぼ終わり、めいめいに休憩を取り始めた馬騰軍の陣に1人の兵が訪れて来た。金ピカの派手な鎧に身を包んだ兵は、軍議を開始するので集まるように伝え、去って行った。
「じゃあ、あたしと一刀で行ってくるから、たんぽぽはしっかりと留守番しとけよ」
「えーっ! 退屈だよ、そんなの。たんぽぽも行きたい!」
翠の指示に、案の定蒲公英が不満を漏らす。しかし、これは聞き入れられなかった。
今の状況で陣内から将がいなくなる訳にはいかない。3人の内、誰かは残らなければならないのだ。翠は琥珀の名代である以上、軍議に出席する必要がある。一刀も一応とは言え、軍師の任を帯びているため、出席しないのはまずい。それに、一刀は劉備や曹操といった英雄達を見てみたかったし、何より、少しでも時間の掛かる方向に話を持って行かなければならないと考えていた。歴史に名を残す様な英雄や軍師相手にどこまでやれるか自信は無かったが、翠や蒲公英に任せるよりはましだろう。
未だに文句を言い続ける蒲公英を置いて、2人は軍議の開かれる大天幕へと向かった。
連合軍全体の陣地のほぼ中央に大天幕はあった。そこには細長く巨大なテーブルがあり、両脇にいくつもの椅子が並んでいる。テーブルを挟んで入口の反対側、天幕の一番奥は一段高くなっており、そこには玉座の様な豪華な椅子が2つ並ぶ。一刀から見て左側の椅子には、金髪の小さな女の子が退屈そうな顔で座っていた。
一方、テーブルの両脇の椅子は8割方埋まっていた。そのほとんどが一刀の予想通り、美少女である。中には男性もいたが、全員が中年か初老で一刀と同年代の者はいなかった。
「おい、いつまでも鼻の下を伸ばしてるなよ」
翠は一刀の脇腹を肘で小突くと、自分に割り当てられた椅子に腰掛けた。どうやら、自分でも気が付かない内にニヤニヤしていたらしい。一刀は顔を引き締め直すと翠の後ろに立った。
その後、5分と経たずに椅子は全て埋まったが、ただ1つ、奥の玉座だけがポツンと空いていた。時間が立つごとに諸侯がイライラして行くのが分かる。実際、天幕の外にいる兵を呼び付けて文句を言ったり、その遅れている人物を呼びに行く様に命令する者も出始めた。しかし、何度人を呼びに遣っても渦中の人物は現われない。
そんな状況のまま、およそ1時間が経過する。諸侯の不満も大分限界に近付いて来た、そんな時だった。
「おーっほっほっ!」
どこからともなく高笑いが聞こえて来たかと思うと、天幕の入口に掛かっている布が開けられた。とっさにそちらに目をやる一刀と翠。2人は気付かなかったが、諸侯の約半分はげんなりした顔をしていた。
逆光の中に立っていたのは1人の女性だった。金髪の長い髪を縦ロールにし、片手を口元に、もう片方の手を腰に当てて高笑いをしている。その様は、漫画かゲームの中でしか見る事が出来ない様な、ベタなお嬢様、と言った感じだった。
お嬢様は高笑いをしたまま天幕の奥へと歩き出す。その後ろに2人の少女が続くが、3人共先程の兵士よりもさらに豪華な金色の鎧を身にまとっている。もはや、悪趣味としか言い様の無いレベルだ。
ともかく、玉座の前で足を止めたお嬢様は、諸侯を見渡して満足気に笑う。
「どうやら全員揃っていらっしゃる様ですわね。では、早速軍議を始めるとしましょう」
はぁ〜、と大きなため息が至る所から聞こえるが、当事者はまったく気付く素振りも見せずに話し続ける。
「ですが、まずはお互い自己紹介といきましょう。これから共に戦うのですから」
そう言って一歩前に出る。
「ここに集まって頂いたほとんどの方はご存じかと思いますが、中には私の事を知らない田舎者もいらっしゃるでしょう。ですから、一応名乗っておきますわ。私は四代三公の名門、袁家の当主にして冀州州牧、袁本初です。皆さん、よろしくお願い致しますわ」
彼女がこの連合を結成した張本人、袁紹である。何が楽しいのか、再び満足そうに高笑いをする袁紹。彼女の機嫌がよくなればなる程、諸侯の雰囲気は悪くなっていった。
そうしてしばらく気持ちよさそうに笑った後、先程彼女に付いて入って来た2人の少女を紹介する。おかっぱで黒髪のおとなしそうな少女が顔良、緑色のショートカットのボーイッシュな方が文醜。この2人の将が袁紹軍の双璧、2枚看板になっている。
それが終わると、袁紹は玉座にどっかと腰を下ろした。そして訪れる沈黙。普通に考えれば隣の玉座に座っている少女の番なのだが、彼女は手に持った湯呑みに夢中になっていて気付かない。
「ちょっと、美羽さん! あなたの番ですわよ!」
その様子に気付いた袁紹は、多少ヒステリックに声を荒げる。だが、その声も少女には届かず、一心不乱に何かを飲み続けている。距離があったために一刀には分からなかったが、袁紹のこめかみがヒクヒクし出した事に気が付いた女性が代わりに答えた。
「こちらは袁紹様の従姉妹で南陽郡太守、袁術様です。皆さん、よろしくお願いしますね」
紺色の短い髪の女性は、笑顔で隣の少女を紹介する。ちなみに、彼女自身の名は張勲、袁術の親衛隊兼お守り役の様な存在である。と、そこでやっと飲み終わった様で、湯呑みを口から放した袁術が大きく息を吐く。
「ぷは〜っ! やはり蜂蜜水は最高なのじゃ。……ん? 七乃、なぜ皆、妾の方を見ておるのじゃ?」
袁術は口の周りをベトベトにしたままで張勲に尋ねる。
「もぅ、決まってるじゃないですか。美羽様が可愛らしいからですよ」
もちろんそんな事は無いのだが、袁術は真に受けた様で満面の笑みを浮かべている。そんな様子を見ながら、一刀は内心ホッとしていた。各地に放っている間者からの報告で、袁紹、袁術の暗愚振りは聞いていた。しかし、実際に自分の目で見てみるまでは、と考えていたのだが、それが予想以上だったからだ。その方が一刀達にとっては都合がいいのだ。
さらに諸侯の名乗りは続いていく。次は一刀達とテーブルの対角、袁紹側の一番上座にいる人物だ。
「私は陳留太守、曹操、字は孟徳よ」
やれやれ、といった感じで立ち上がった少女は曹操であった。金色の髪をツインテールにした上でロールさせている。蒲公英と同じ位の身長しかないが、その佇まいには威圧感が感じられた。
曹操は後ろにいる髪の長い長身の女性も紹介する。彼女の名は夏侯惇、字は元譲。曹操配下で一番の猛将である。曹操の護衛としてここにいる夏侯惇は、鋭い目付きで諸侯を見渡していた。
続いて曹操の正面に座る女性。
「私は袁術軍の客将、孫策の軍師、周瑜だ。よろしく頼む」
褐色の肌に長い黒髪、眼鏡を掛けた理知的な雰囲気の女性だった。
ここで一刀は引っ掛かりを覚えた。彼の知っている歴史なら、まだこの段階では孫堅が軍を率いていた筈である。すでに亡くなっているのならどこで、と、そこまでで考える事を止めた。元々、武将が女の子、と言う時点で一刀の知っている歴史とは齟齬が起こっているのだ。違いは少なからず存在している。
一刀は頭を切り替えて他の諸侯の名乗りを聞く。荊州牧劉表、幽州北平郡太守公孫賛等、数人の将が名乗った後、翠へと順番が回ってきた。
「あたしは武威郡太守馬騰の名代で娘の馬超。後ろのは、うちの軍師の北郷一刀だ」
翠に紹介され、一刀は軽く頭を下げた。と、それまで静かだった天幕の中が騒つき出す。どうやら、想像以上に天の御遣いとしての一刀の名は広まっている様だ。特に一刀達の斜向かい、一番の下座に座っている桃色の長い髪の少女は、柔らかく笑いながら手を振っている。それに対し、一刀は半分苦笑いの笑みを返す。すると、キャーッ、と歓喜の声を上げて家臣と思われる少女達と手を合わせた。しかし、黒髪の少女は少し困惑した顔をしている。
「ちょっと、何をしているんですの!? 次は貴方の番ですわよ!」
「は、はいっ! ごめんなさいっ!」
袁紹のヒステリックな怒声に、桃色の髪の少女は椅子を倒す勢いで立ち上がる。その拍子に、大きな胸がポヨンと揺れた。
「私は平原の県令を務めています劉備、字は玄徳です。それと、こっちは義妹の関羽と軍師の諸葛亮。よろしくお願いします」
そう言って、深々と頭を下げる。それを聞いて、一刀は思わず吹き出しそうになる程驚いた。黒髪で長身の少女が関羽だろう。だとすると、ベレー帽を被った小さな女の子が諸葛亮だと言う事になる。董卓よりも幼く見えるこの少女が、臥竜と呼ばれた希代の名軍師、諸葛孔明だとは、言われなければ絶対に分からないだろう。
だが、一刀が驚いた理由はそれだけではない。本来ならばこれから先、劉備は軍師の不在によって苦労に苦労を重ねる事になるのだ。それなのに、もうすでに諸葛亮がいる。この世界の未来は一刀にも全く分からなくなった。
「さて、皆さん自己紹介も終わった様ですし、早速軍議を始めましょう。ですが、その前に大事な事を決めねばなりませんわ」
やっと軍議に入れる、と思っていた諸侯にしてみれば、またもや肩透かしを食らった格好になり落胆してしまう。だが、そんな事はお構い無しに、袁紹は意気揚々と話を進めて行く。
「それは、この連合の大将ですわ。これだけの諸侯が集まった大連合なのですから、当然それを率いる者には高い家柄が必要。ですが、それだけではなく、品格、容姿、知性等も必要であると私は思うのです。果たして、その様な傑物がいるかどうか……。皆さんは御存じありませんか?」
しかし、袁紹の問い掛けに答える者は無く、皆一様にうつむいて彼女と目を合わせようとする者はいなかった。唯一何かを言おうとした袁術も、張勲に口を押さえられている。そんな状況に、袁紹は同じ様な内容の事を繰り返し始めた。
「……なぁ、一刀。あれって、袁紹が大将になりたがってるんじゃないのか?」
翠が小声で尋ねる。どうやら、彼女にも見抜けたようだ。一刀は黙って首を縦に振った。
「なら、何で自分からやる、って言わないんだ? あたしなら、やりたいなら自分から言うけど……」
自分から名乗りを上げない理由までは分からなかったらしい。一刀は翠の耳元に顔を近付け、小声で説明し始めた。
「理由は色々あるだろうけど、一番は自尊心の問題だと思う。自分から言い出せば、手柄を焦った浅ましい奴、と思われかねない。けど、他人から推薦されたのなら、嫌だけど仕方無く、って感じに収められるだろ?」
もっとも、その考えが見透かされれば素直に自分から言い出すよりも評価が落ちるのだが、袁紹にはそこまでの頭は無かった。
「ふーん。何だか、面倒臭いな」
武による名誉以外、地位や権力、名声と言った物にほとんど興味の無い翠らしい答えに、一刀の顔は僅かにゆるんだ。
「ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……、ふぅ。……ですから皆さん、これ、と思う人物がいるではありませんか。その者の名を上げてくれればよいのです。華琳さん、貴方なら分かるのではなくて?」
湯呑みに注がれた水を一気に飲み干した袁紹は、最も近くにいる曹操に尋ねた。この2人、お互いを真名で呼び合う様な旧知の仲である。しかし、曹操の返事は冷たかった。
「さぁ? 私にはとんと心当たりが無いけど?」
明らかに落胆した表情をした後、袁紹はもう一度喋り始めた。
かれこれ2時間以上もの間、袁紹はほぼ1人で話し続けていた。たまに、今回の様に曹操や公孫賛等の袁紹と既知の人物が、気の無い返事や相づちを打つだけの不毛な時間だった。天幕の中は気だるい空気が蔓延しており、袁術に至っては、離れた位置にいる一刀にも分かる位はっきりと熟睡している。
袁紹が自分からやりたいと言い出さない理由は、プライドだけではない。大小合わせて10名を超える諸侯が集まった連合を率いるのは、極めて大変な仕事になる。彼女はそれが嫌だった。つまり、大将の名が欲しいだけで実は欲していないのである。
それが分かっているからこそ、袁紹を推す声がどこからも上がらないのだ。そんな事をすれば、厄介事を押し付けられてしまうから。
この状況に、さすがに一刀も飽きて来た頃、彼は翠の背中から苛立ちを感じた。そっと顔を近付け、小声で彼女を諭す。
「俺達の目的は時間稼ぎなんだぞ。間違っても、バカな事は口に出すなよ」
「……分かってる。けど、あたしはこういうの好きじゃないんだ」
そう言われても、翠には我慢してもらうしかない。一刀が再び声を掛けようとした時、バンッ、とテーブルを叩く大きな音と共に、1人の人物が立ち上がった。突然響いた音に驚いて目を覚ました袁術も含め、全員の視線がその人物、劉備に集まる。
「皆さん! 私達が集まったのは、董卓さんの暴政に苦しむ洛陽の人達を助けるためじゃないんですか!? こうしている間にも苦しんでいる人がいるのに、いつまで、ここで腹の探り合いをしているつもりなんですか!」
先程まで一刀に見せていたにこやかな顔とは違う、真剣な表情。怒りの中にも憂いの感じられる表情で、劉備は諸侯に語り掛けた。
彼女が劉備だと知った時、一刀はがっかりしていた。確かに可愛い少女ではあったが、曹操の様な特別な雰囲気を纏っていなかったからだ。
だが、今はどうだ。まるで別人の様な表情で放たれる言葉は、一刀の心の奥深くにまで響いて来る。声量や話し方、語句の選び方等の話術ではなく、もっと本質的な部分で惹き付けられる。これこそが劉備の持つ英雄としての力なのだ、と、一刀は彼女の声を聞きながら感じていた。
そんな劉備の声に交ざり、はわわ、と言う声が聞こえた。見れば、劉備の軍師である諸葛亮が、焦った様子でそう呟いている。さらには、その後ろに控えている関羽も、ため息を吐きながら困った顔で額を押さえている。恐らく2人は劉備を諫めていたのだろうが、彼女はそれを突っぱねて発言した様だ。
しかし、そんな言葉もどこ吹く風、とばかりに袁紹は答えた。
「別に、腹の探り合いなんてしていませんわ! 私はただ、総大将に相応しい人物を知らないか、と尋ねているだけです!」
「なら、袁紹さんがやればいいじゃないですか。そんなにやりたそうにしてるんだから」
「なっ! わ、私がいつ、やりたそうにしたと言うんですの!?」
ずっとしてたくせに。一同が同じ事を思ったが、誰も口に出す事無く話は進む。
「……ですが、劉備さんがどうしても私でなければ嫌だ、と、そこまでおっしゃるのであれば、まぁ、引き受けて差し上げない事もありませんわ」
不満たらたらの言葉とは裏腹に、その顔は嬉しくて笑みを隠し切れなくなっている。
「では皆さん。私が総大将でよろしいですわね?」
立ち上がった袁紹は諸侯に確認を取る。
「私は構わないわ」
「こちらも問題無い」
曹操と周瑜が賛成したのを切っ掛けに、そこにいる全ての者が賛成した。それを受けて、高笑いを始める袁紹。そんな彼女を横目に見ながら劉備は腰を下ろした。しかし、ホッとしたのも束の間、袁紹はとんでもない事を言い出す。
「……さて、劉備さん? 私、貴方のせいで連合軍の大将という、とても面倒な役目を引き受けなければならなくなってしまいましたの。ですから、もちろん私を助けるために働いて下さいますわよね?」
いきなり名指しで言われた劉備は驚いた顔をしている。しかし、その隣にいる諸葛亮には予想出来ていたのだろう。驚きは無かったが、どんな無茶を言われるのか、少しビクビクしている様子だった。
「で、でも、袁紹さんがやりたいって……」
「あら、私はそんな事、一言も言ってませんわよ。貴方が勝手に勘違いしたのではなくて?」
確かに袁紹の言う通りだった。やりたい雰囲気を出していただけで、やりたいとは一度も言っていないのだ。相手が正論では、劉備にはこれ以上の反論が出来なかった。
「そんなに難しい事ではありませんから。貴方達には連合軍の先陣を務め、氾水関を抜いて頂きたいだけです」
その発言に劉備達だけでなく、一刀や翠、他の諸侯達も驚いた。なぜなら、劉備の兵力は今回参加している諸侯の中で一番小さいからだ。
漢帝国はその国土を13の州に分けられている。州の中には多くの郡があり、その下の行政区分として県がある。劉備の職である県令とは、この県を治める仕事なので兵力が小さいのは当然だった。
劉備はそれを理由に断ろうとする。
「そうですか。それでは仕方ありませんわね。ですが、総大将である私の命令が聞けないとなると……、どうなるか分かっているのでしょう?」
その言葉に一同耳を疑った。袁紹は自身の強大な兵力を背景にして、脅迫して来たのである。こんな事は連合軍の大将がするべき事ではない。士気の低下は免れないし、最悪の場合、連合の崩壊に繋がりかねないからだ。
劉備はショックを受けた表情で少しの間うつむいた後、脇に控える2人を見た。
「……ごめんね、愛紗ちゃん、朱里ちゃん。私のせいで……」
そう言って謝る劉備を関羽と諸葛亮が慰める。そして、意を決した劉備が袁紹に返事をしようとしたその時、別の所から声が飛んだ。
「お待ち下さい、袁紹様!」
その声の主は一刀だった。不思議そうな顔で見上げる翠を一刀は目だけで制す。
「何ですの? 貴方は……」
「馬騰軍の軍師、北郷一刀さんです。噂になっている天の御遣いですよ」
名前の出て来ない袁紹に、顔良が耳打ちする。
「そうですわ、お使いさん。何の用なのです?」
「違いますよ、麗羽様。御遣いです、御遣い」
「……分かってますわ! で、その御遣いさんが何の用ですの!?」
間違えた恥ずかしさを誤魔化すためか、袁紹は声を荒げた。一刀はそんな袁紹に対して恭しく答える。
「恐れながら申し上げます。あの劉備とか申す輩、偉大なる袁紹様の連合軍の先鋒を務めるには相応しくないと存じます」
一刀は両手を体の前で合わせて頭を垂れる。一方の袁紹は足を組んで玉座にふんぞり返り、訝しげな顔で続きを促した。
「劉備の職はたかだか県令。本来ならば、この場にいる事も叶わない様な低い身分にございます。そもそもこの者は貧しい農家の出。ムシロを織り、草鞋を売って生計を立てていた貧乏人。それが、黄巾の乱に乗じて手柄を立て、県令の職に就いた成り上がりにすぎません」
視界の端にいきり立つ関羽と、それを宥める劉備と諸葛亮の姿が映った。さすがに軍神と謳われただけの事はある。綺麗な外見をしているが、半端ではない殺気が放たれている。一刀は足が震えそうになるのを我慢しながら話を続けた。
「尚且つ、劉備めは中山靖王劉勝様の末裔を自称して兵を集めた不届き者。この様な者を先鋒に据えれば、必ずや、袁紹様の御名に傷が付きましょう」
草鞋売りや中山靖王劉勝の末裔と言うのは、あくまで一刀の知る歴史の劉備の話であった。勢いで思わず言ってしまったが、誰も何も言わない所を見ると、どうやら彼女の生い立ちもそうなのだろう。
「ですから、ここは袁紹様御自ら先陣を切って頂き、その御威光の下に我らを導いて頂きたく存じます。もし袁紹様に率いて頂ければ、鉄壁を誇る氾水関、虎牢関すら泥の壁の様に容易く突破し、洛陽に巣食う悪臣董卓を打ち払える事でしょう。そして、袁紹様の御高名は天下に知れ渡り、漢帝国の老若男女全ての者がその勇名を讃えるに違いありません」
その後もボキャブラリーを総動員して美辞麗句を並べていく一刀。もう、自分でも何を言っているのか分からなくなって来た頃、袁紹の顔から警戒心が消えて頬がゆるんで来た。
「御遣いさんのおっしゃりたい事は、よく分かりましたわ。確かに貴方の言う通りですわね。よろしいでしょう。この、袁本初が皆さんを……」
すっくと立ち上がった袁紹。しかし、それを顔良が諫める。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ、麗羽様。関攻めがそんなに簡単にいく訳無いじゃないですか。ものすごい被害が出ちゃいますよ」
「……そ、そうですわね。全く、私とした事が……」
せっかく一刀の思い通りに事が運ぶと思いきや、再び心変わりする袁紹。一刀は次の語句を頭の中で懸命に探すが、良い言葉が思い付かない。しかし、全く予想していなかった所から助け船が出された。
「私からもお願いするわ、麗羽」
そう言って頭を下げたのは曹操だった。それを、袁紹は驚いた様な、それでいて、少し嬉しそうな顔で見下ろす。
「ど、どういうつもりですの、華琳さん?」
「どういうつもりも何も無いわ。私は貴方の力を認めているのよ。貴方のその天才的な軍略の腕を、後学のためにも私に見せてもらえないかしら?」
その言葉に、すでに袁紹は笑いを堪える事が出来なかった。常に曹操の後塵を拝していた袁紹にしてみれば、頭を下げて頼み事をされている今の状況はたまらない物があったのだ。
「おーっほっほっ! そこまで言われては仕方ありませんわね。私が、雄々しく、勇ましく、華麗に皆さんを勝利に導いて差し上げますわ。劉備さん、貴方は後方で私の戦い方を学ぶとよろしいですわ」
そこまで言うと、再び袁紹の高笑いが天幕に響いた。一刀は、フーッ、と大きく息を吐き、強張った体から力を抜いた。
結局、軍議はこれだけで終わり、細かい事は全て袁紹本人が決める、という事で解散となった。それと同時に、関羽は一刀に詰め寄ろうとするが、劉備と諸葛亮によって無理矢理天幕の外に連れ出された。その様子を見ていた翠が一刀に尋ねる。
「どうするんだ一刀、あんな事言って。あいつ、下手したらあたしよりも強いかもしれないぞ」
「ああ、知ってるよ……」
一刀はそう呟くと、翠の隣の空いた椅子に勢い良く腰を下ろした。