三口しか食べないそうですね。わたくしの猫も同じでございます
「すまない、ヘレーネ。フェリクスがまた寝込んだ。熱が下がらない。咳が止まらない。三口しか食べない。放っておけないんだ」
クラウゼ伯爵家の玄関で、婚約者のディートリヒ・ベームは帽子を胸に当てて頭を下げた。ベーム侯爵家の三男で、近衛の正騎士をしている。今夜はヘレーネの十九の誕生日で、食堂にはもう三人分の皿が並んでいる。
ヘレーネは笑って頷いた。頷きながら、いま聞いた三つの症状を、頭の中で前の六回と並べていた。
去年の誕生日も、母の墓参りの日も、婚約二年の記念の晩も、ディートリヒは同じことを言って来なかった。熱が下がらない。咳が止まらない。三口しか食べない。七回とも、一字一句同じだった。七回とも、三口だった。
フェリクス・ヴォルフはディートリヒの幼馴染の男で、子どものころは冬のたびに寝込んでいたという。
「お大事になさってくださいませ。フェリクス様にも、どうぞよろしく」
「ありがとう。君は本当に話の分かる人だ」
ディートリヒは帽子をかぶって出ていった。
食堂に戻ると、父のクラウゼ伯爵がナプキンを広げたまま待っていた。
「ディートリヒ殿は」
「フェリクス様がお熱だそうです」
「そうか。侯爵家にご迷惑をかけるなよ。病人の看病を責めるものではない」
父はそう言って、空いた椅子の前の皿を下げさせた。二年前から、父はこの話になると同じことしか言わない。
ヘレーネは膝に乗ってきた猫のオスカーを撫でた。十二になる雄猫で、人見知りが強く、家族のほかには誰の膝にも乗らない。
三年前に婚約が決まったとき、ヘレーネが望んだのは一つだけだった。約束の日に、約束の場所へ来てくれる人であってほしい。最初の一年、ディートリヒは約束を守った。二年目から、三口しか食べない幼馴染の話が始まった。
七回とも同じ言葉だということに、ディートリヒは気づいていない。自分が前に何と言ったかを、覚えていないのだろう、とヘレーネは思った。
それなら、同じことをされたら気づいてくださるかもしれない。
ヘレーネはオスカーの耳の後ろを掻きながら、次の約束の日を数えた。十日後に、ディートリヒの叙勲の祝いがある。
十日後、ベーム侯爵家の広間には、近衛の仲間と親戚が四十人ほど集まっていた。ディートリヒは王女殿下の護衛の功で勲章を受けたばかりで、胸の勲章を何度も直しながら客の間を回っていた。
ヘレーネは広間の入口でディートリヒに頭を下げた。
「申し訳ございません、ディートリヒ様。オスカーがまた寝込みましたの。熱が下がらない。咳が止まらない。三口しか食べない。放っておけませんの」
ディートリヒは目を二度瞬いた。
「猫だろう?」
「ええ、猫でございます」
「今夜は私の叙勲の祝いだぞ」
「存じております。ですから、ご挨拶だけはと思って参りました」
「医者に預ければいいじゃないか。猫なんだから」
「フェリクス様も、お医者様に預ければよろしいのに」
ヘレーネが笑って言うと、ディートリヒは眉を寄せた。
「フェリクスは人間だぞ」
「ええ、存じております。お祝いの席に水を差して、申し訳ございません。お大事に、とおっしゃっていただけますか」
「……お大事に」
ディートリヒは不機嫌そうに言って、客のほうへ戻っていった。
帰りの馬車の中でヘレーネは膝の上の籠を開けた。オスカーは大きなあくびをして、また丸くなった。熱も咳もない。出がけには鶏の皮をきれいに平らげていた。
ディートリヒは、最後まで気づかなかった。
ひと月に一度の騎士団の夜会は、近衛の家族が顔をつなぐ場になっている。ヘレーネが父と一緒に顔を出すと、ディートリヒは仲間の輪の真ん中にいた。
「うちの婚約者はな、猫の話しかしないんだ。この前なんか、俺の叙勲の祝いを猫の熱で断ってきた」
輪の中から笑いが起きた。ディートリヒは杯を上げて、続けた。
「まあ、慣れてるさ。フェリクスで慣れてる。あいつは昔から、俺がいないと何もできないからな」
もう一度、笑いが起きた。父は聞こえなかったふりをして、ほかの伯爵と話を続けていた。
輪の端にいた騎士の一人がディートリヒの肩を叩いた。マティアス・ケラーという、ディートリヒと同じ組の正騎士である。
「看病もいいけどな、ディートリヒは夜が忙しいからな」
「おい、余計なことを言うな」
ディートリヒが笑いながらマティアスの口をふさぎ、輪はまた別の話に移った。
フェリクス様のお見舞いに伺おう、と決めたのは、帰りの馬車に乗ってからだった。婚約者の幼馴染が二年で七回も寝込んでいるのに、ヘレーネは一度も見舞っていない。一度は伺っておくのが婚約者の務めだった。三口しか食べない方が本当にいらっしゃるのか、見てみたくもあった。
ヘレーネが見舞いの菓子とオスカーの籠を抱えてヴォルフ子爵家を訪ねると、出てきた使用人は困った顔をした。
「若様は、ただいま稽古場でございます」
「稽古場? お熱は、もうよろしいのですか」
「お熱、でございますか」
使用人が首を傾げているうちに、裏手から汗をふきながら男が一人歩いてきた。背が高く、肩幅が広く、木剣を二本担いでいる。
「お客様か」
「若様。クラウゼ伯爵家のお嬢様が、お見舞いにと」
「見舞い?」
男はヘレーネを見て、それから自分を見下ろした。
「……私の、ですか」
それがフェリクス・ヴォルフだった。ヴォルフ子爵家の次男で、ディートリヒとは同じ年に近衛へ入っている。
客間に通されてから、ヘレーネは順に話した。二年のあいだに七回、ディートリヒがフェリクスの看病を理由に約束を取り消したこと。七回とも、熱が下がらない、咳が止まらない、三口しか食べない、だったこと。最後は三週間前の、ヘレーネの誕生日の晩だったこと。
フェリクスは途中から、黙って懐の手帳を出した。近衛は夜勤の組を手帳に控えておくものだという。
「三週間前の晩は、王宮の東門で夜警をしていました。朝までです」
「去年の誕生日は、九月の十二日でございます」
「九月の十二日も夜警です。婚約の記念の晩は」
「三月の二日」
「その晩は兵舎の当直でした。ディートリヒは来ていません」
フェリクスは手帳を閉じた。
「この二年、私は熱を出していません。ディートリヒに看病してもらったことも、一度もありません」
ヘレーネは菓子の箱を膝に置いたまま、少し考えてから訊いた。
「フェリクス様。夜会でディートリヒ様が、フェリクス様は昔から自分がいないと何もできない、とおっしゃっていました。近衛の皆様は、フェリクス様がいまもお体が弱いと思っていらっしゃるのでは」
フェリクスはしばらく何も言わなかった。
「……正騎士への昇格を、二度見送られています。同期で準騎士のままなのは、私だけです。理由は聞かされていません」
そう言ってから、フェリクスはまた黙った。ヘレーネも、黙って待った。
膝の上で、籠の蓋が持ち上がった。オスカーが出てきて、床に下り、迷いもせずにフェリクスの椅子に跳び上がると、そのまま肩まで登って座った。
「オスカー」
「いえ、構いません」
フェリクスは肩の猫を落とさないように、首だけでヘレーネのほうを向いた。家族のほかには誰の膝にも乗らない猫が、初めて会った男の肩にいる。
「クラウゼ嬢。あなたは、どうなさるおつもりですか」
「同じことをお返ししております。ディートリヒ様のおっしゃったとおりの言葉で、オスカーの熱を理由に」
「気づきましたか、ディートリヒは」
「いいえ。叙勲の祝いの席でも、お気づきになりませんでした」
フェリクスはほんの少しだけ口の端を上げた。笑ったのを見たのは、それが初めてだった。
「では、私もお返ししていいですか」
「ええ。同じものを、同じ形で」
「熱が下がらない。咳が止まらない。三口しか食べない」
フェリクスは真顔のまま繰り返した。
「……と、言えばいいのですね」
フェリクスの一回目は、それから四日後だった。
ディートリヒが夜勤を代わってほしいと頼みに来たので、フェリクスは兵舎の入口で答えたという。熱が下がらない。咳が止まらない。三口しか食べない。ディートリヒは代わりを探して夜まで走り回り、最後はマティアスに頼みこんだらしい。
ヘレーネの二回目は、その週の終わりにあった。ベーム侯爵夫人の誕生会で、ヘレーネは乾杯のあと、侯爵夫人に詫びて席を立った。
「申し訳ございません、奥様。オスカーがまた寝込みましたの。熱が下がらない。咳が止まらない。三口しか食べない。放っておけませんの」
「まあ、それはお気の毒に。猫も歳を取るとねえ」
侯爵夫人はそう言ってから、ふと思い出したように付け加えた。
「そういえば、フェリクスさんは、まだお悪いの? このあいだもディートリヒが看病に行ったと聞いたけれど」
ヘレーネが答える前に、ディートリヒが二人のあいだに立った。
「ヘレーネ。少しいいか」
廊下に出ると、ディートリヒは声を落とした。
「今夜は母上の誕生会だぞ。猫と私と、どちらが大事なんだ」
「ディートリヒ様がフェリクス様の看病を一番になさったのと、同じ順番でございます」
「何の話だ」
「ディートリヒ様のお話です」
ディートリヒは口を開けて、閉じた。それから、もう一度開けた。
「フェリクスも、この前同じことを言った。熱が下がらない。咳が止まらない。三口しか食べない。君たち、二人で示し合わせているんじゃないだろうな。フェリクスには思い知らせてやる。仮病で勤めを断る男が、正騎士になれると思うな」
「示し合わせてはおりませんわ」
ヘレーネはにこやかに答えた。
「お手本は、お一人ですもの」
近衛の正騎士への昇格は毎年秋の叙任式で言い渡される。
叙任式の三日前、ディートリヒは騎士団長に上申書を出した。ヴォルフ準騎士は仮病で勤めを避けており、正騎士にふさわしくない、という中身だった。
ハルトマン騎士団長は叙任式の前日、関わる者を団長室へ呼んだ。ディートリヒとフェリクス、証人のマティアス、それに同じ言葉を使ったというヘレーネである。婚約に関わる話なので、ヘレーネの父とベーム侯爵夫人も同席した。
団長が上申書を机に置くと、ディートリヒが一歩前に出た。
「ヴォルフ準騎士は、この半月、仮病で勤めを避けています。私の頼んだ夜勤の交代を、熱が下がらない、咳が止まらない、三口しか食べない、と言って断りました。私の婚約者のクラウゼ嬢も、同じ言葉で、猫の仮病を使って私との約束を破っています。二人とも、毎回、一字一句同じことを言うのです。示し合わせているとしか思えません」
団長はヘレーネのほうを見た。
「クラウゼ嬢。今のは、本当ですか」
ヘレーネは椅子から立ち上がった。
「はい。仮病でございます。オスカーは一度も熱を出しておりません」
侯爵夫人が小さく息を呑んだ。ディートリヒが胸を張るのが見えた。
「熱が下がらない。咳が止まらない。三口しか食べない。わたくしが申し上げたのは、全部、ディートリヒ様がこの二年で七回おっしゃったとおりの言葉です。七回とも、三口でございました。フェリクス様は三口しか食べないそうですね。わたくしの猫も同じでございます」
ディートリヒの顔から、笑いが抜けた。
「団長、でたらめです。フェリクスは本当に寝込んでいました。私が看病していたのです」
「団長閣下」
ヘレーネは団長に向き直った。
「七回の日付を申し上げます。二年前の三月二日と九月十二日。去年の三月二日、五月二十日、九月十二日。今年の四月八日と九月十二日。ディートリヒ様がフェリクス様の看病をなさったはずの晩でございます」
団長は黙って、机の上の帳面を開いた。上申書を受けて、ヴォルフの二年分の勤務の記録を取り寄せてあったのである。団長は七つの日付を一つずつ繰って、最後に帳面を閉じた。
「ヴォルフ準騎士は、七晩とも夜勤に就いている。欠勤は一度もない」
ディートリヒは壁際に立っていたフェリクスを振り返った。
「フェリクス、お前からも言え。子どものころは、俺がずっとついていてやっただろう」
「子どものころは、そうだった」
フェリクスは壁際に立ったまま、まっすぐ前を向いて答えた。
「ありがたかったと思っている。だが私は、この二年、一度も熱を出していない。お前に看病してもらったことも、一度もない」
ディートリヒは口を開いたが、言葉が出てこなかった。団長が訊いた。
「ベーム。では、その七晩、お前はどこにいた」
ディートリヒは答えなかった。証人に呼ばれていたマティアスが、青い顔をして目を逸らした。団長はそれを見逃さなかった。
「ケラー」
「……黒鷲亭です」
マティアスは小さな声で言った。
「港通りの、賭場です。ディートリヒは、たいてい、私と一緒でした」
侯爵夫人が扇を取り落とした。父がヘレーネのほうを向いた。
「ヘレーネ。お前、なぜ黙っていた」
「申し上げましたわ、お父様。七回」
ヘレーネは父を見ずに答えた。
「お父様は七回とも、侯爵家にご迷惑をかけるな、とおっしゃいました」
父は何か言いかけて、口を閉じた。
団長は上申書を裏返して、ディートリヒに目を戻した。
「近衛は、勤めの記録と、口にした言葉で信用される。お前は二年のあいだ、幼馴染の名で嘘をつき、その嘘のせいで、ヴォルフの昇格は二度止まった。私が止めた。冬ごとに寝込む者を王族の護衛には立てられんと、噂だけで決めた。記録を取り寄せたのは、お前の上申書が初めてだ」
団長はそこで一度、息をついた。
「ヴォルフは、お前がいないと何もできないそうだな。お前がいなくても、ヴォルフは二年、一晩も夜勤を欠かしていない」
ディートリヒの叙勲はその場で預かりとなり、沙汰は追って下すと言い渡された。
団長室を出るとき、団長はヘレーネを呼び止めた。
「クラウゼ嬢。七つの日付を、一つも間違えずに覚えていたのは、婚約者のほうではなく、あなただった」
「お約束の日でしたもの」
ヘレーネは頭を下げた。
「来ていただけなかった日は、忘れませんわ」
翌日の叙任式で読み上げられた正騎士の名の中に、フェリクス・ヴォルフの名があった。ベーム侯爵家からの使いが婚約の解消を申し入れてきたのは、その三日後である。理由の欄には、侯爵家の側の不始末によるもの、と書かれていた。
婚約の解消が決まった翌日、フェリクスが正騎士の徽章をつけて、クラウゼ伯爵家を訪ねてきた。
玄関の脇に、オスカーの夕食の皿が出ていた。オスカーは皿に顔を寄せて、三口食べると、ぷいと横を向いた。それからフェリクスの足元へ来て、体をこすりつけた。
ちょうど三口だった。
ヘレーネはオスカーを抱き上げて、しばらく顔をのぞきこんだ。
「……これは本当よ」
フェリクスが、初めて声を出して笑った。
「クラウゼ嬢」
「はい」
「猫の具合を見に、また伺ってもいいですか」
ヘレーネは腕の中のオスカーを見た。オスカーはもう、フェリクスの肩のほうへ身を乗り出している。
「ええ。約束の日に、約束の時間にいらしてくださるなら」
「必ず」
フェリクスはそう言って、手帳を出した。次に来る日を、その場で書き込むためだった。




