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じいじのウソと、ばあばの100個のてるてる坊主

作者: 家森 慈絵夢
掲載日:2026/03/08

 二〇二六年一月七日。午前七時。

 福岡、糸島の沿岸に位置する古い平屋の縁側で、俺は吐き出す息が白く濁るのを眺めていた。


 液晶画面の中では、気象予報士が沈痛な面持ちで、灰色の日本地図を指し示している。


『本日、九州全域は厚い層雲に覆われ、沿岸部では冷たい雨が混じるでしょう。日中の気温も上がらず、一月らしい、厳しい曇天の一日となります。お出かけには厚手のコートと傘が手放せません』


 俺はため息をつき、静かにテレビを消した。『やっぱり雨か』

 今日は、祖父母の金婚式だ。

 じいじは、半年も前からこの日を「人生最高の晴れ舞台にする」と繰り返していた。庭の片隅で、ばあばが愛してやまない純白の菊を、霜に負けぬよう毎日世話し、今日という日のために育て上げてきたのだ。


 だが、窓の外に広がるのは、無慈悲な鉛色の空だった。海は鈍く、重たい光を反射している。


 ばあばは、曇り空が嫌いだ。


 かつて戦後の貧しかった頃、雨漏りのする狭い部屋で、幼い子供たちを抱えて耐え忍んだ日々の記憶が、ばあばを曇天から遠ざける。ばあばにとって、暗い空は我慢と忍耐の象徴だった。


「……じいじ、残念だったね」

 吐き出した白い息と一緒に呟いた時、背後の襖が迷いなく開いた。


「おはよう。何をそんなに暗い顔をしているの」

 明るい声と共に現れたのは、ばあばだった。

 背筋を真っ直ぐに伸ばし、糊のきいた真っ白な割烹着を締めている。ふと見ると、割烹着のポケットから白い端切れがわずかに覗き、指先には小さな絆創膏が巻かれていた。その凛とした佇まいは、外の暗鬱な景色を撥ね退けるような独特の気高さがあった。


「でも、予報は雨だって。せっかくの金婚式なのに」

「予報がどうしたっていうの。空が暗いなら、私たちが家の中を明るくすればいいだけ。さあ、掃除を始めるわよ」

 鼻歌でも聞こえてきそうな軽やかな仕草で雑巾を手に取ると、一切の迷いなく縁側に膝をついた。


 ばあばは知っているのだ。じいじが今日のために、どれほど心を砕いて準備してきたかを。だからこそ、自分にできる最高のおもてなし――家中の隅々までを清めることで、じいじを迎えようとしていた。


 そこへ、一張羅の紺色の背広に身を包んだじいじが廊下を通った。

 ばあばの働く姿を見た瞬間、じいじは言葉を失い、顔を耳の先まで真っ赤に染めた。七十を過ぎた男が、まるで初めて恋を知った少年のように、たどたどしく背中に隠した「白い菊」の花束を差し出す。


「……ばあさん。お、おはよう。……これ、庭で咲いたから、あげるよ」

 差し出されたじいじの顔は、燃えるように赤かった。その圧倒的な熱量が、冷え切った廊下の空気をじわじわと震わせた。


 二人が連れ立って、海沿いの「菊まつり」へと出かけていった後。

 俺は一人、静まり返った家で、じいじが脱ぎ捨てていった仕事用の上着の下からこぼれ落ちた、一冊の手帳を拾い上げた。

 何気なくページをめくった俺は、その瞬間、心臓を強く鷲掴みにされた。


 そこには、「今日を一月で一番の晴天にする」という目的のためだけに費やされた、一人の老人の壮絶な戦いの記録があった。



『十月十二日。気象庁の元予報官に面会。一月七日の雲の発生確率を分析。絶望的だと言われる。統計学的には、一〇〇%に近い曇天。……ならば、確率の外側へ行くまでだ』


『十一月三日。地元の漁師仲間に頭を下げる。当日、沿岸部でドライアイスを散布する協力体制を確約。上昇気流を人工的に生む。……費用は、これまで貯めた酒代と、父から継いだ古い時計を売って作る』


『十二月二十日。近隣の商店街、小学校、すべてに手紙を書いた。――もし当日、空が暗くても、どうか皆、明るい色の服を着てほしい。黄色や赤の傘を差してほしい。ばあさんに「世界はこんなに明るい」と信じさせてやりたいんだ』



 文字は震え、必死の筆致だった。

 じいじは、奇跡を待っていたのではない。魔法もSFも存在しないこの現実で、一人の人間ができるすべてのおもてなしを尽くし、物理的に、そして心理的に、世界を塗り替えようとしていたのだ。


 俺は衝動に駆られて表へ飛び出した。

 空を見上げる。雲は依然として厚い。

 だが、海の向こうから、白い煙を吐き出しながらゆっくりと進む漁船の列が見えた。それが雲を散らすことなど、誰にも証明できないだろう。それでも、その白い煙は、一人の男の執念そのものに見えた。


 さらに、町を見る。

 登校する小学生たちが、眩しいほど鮮やかな黄色やピンクのカッパを身にまとって歩いている。商店街は、真昼だというのに全店舗が照明を全開にし、鮮やかな花々の装飾で埋め尽くされていた。


 じいじは天気を変えたのではない。ばあばを愛するあまり、世界そのものをばあばの味方に変えてしまったのだ。


 その時だった。

 

 じいじとばあばが歩く、海沿いの遊歩道。

 何十隻もの漁船が放ったドライアイスが海風に乗り、奇跡のような上昇気流を生んだのかもしれない。あるいは、数千人の住民たちがじいじの無謀な願いに応えようと発した熱量が、空気を動かしたのかもしれない。


 突然、空に亀裂が走った。


 厚い雲の層が、劇的に、ドラマチックに割れたのだ。

 そこから溢れ出したのは、純度の高い、一点の曇りもない太陽の光だった。光はばあばが磨き上げた家の窓を反射し、町中の明るい色彩を照らし出し、そして並んで歩く二人の背中を祝福するように包み込んだ。


「……あ」

 感嘆の息を漏らし、ばあばが天を仰いだ。

 その瞳には、一〇〇%の確率で雨が降ると言われた空を裏切る、抜けるような青が映っていた。


「……おじいさん。見て、晴れたわ。……なんて、綺麗なのかしら」

 眩しそうに細められた眼差しが、隣を歩くじいじへと向けられる。


 じいじは何も言わなかった。ただ、真っ赤な顔のまま、こらえきれなくなった涙を隠すように、ばあばの手を強く、強く握りしめた。


 天気と情緒はリンクしない。けれど、一人の男が五十年の愛を込めて作った景色は、自然という冷徹なシステムを、その一瞬だけねじ伏せたのだ。



 夕暮れ。

 オレンジ色の光が縁側に差し込み、長く伸びた二人の影が畳の上で重なっている。帰宅した二人はピカピカに磨かれた縁側に並んで腰を下ろし、俺が淹れた茶を啜っていた。


 じいじが手洗いに立った隙に、ばあばは小さく、いたずらっぽく俺に耳打ちした。


「……実はね、ばあばも朝からテルテル坊主を百個作っていたのよ。おじいさんが、あんまり一生懸命だったから」

 内緒話をする少女のようなはにかみに、俺の頬も自然と緩む。『絆創膏の理由はこれだったのか』


 ばあばはじいじの手帳の努力を、最初から知っていたのかもしれない。あるいは、町中の不自然なまでの明るさに、すべてを察していたのかもしれない。それでも何も言わずに「じいじが晴れを連れてきた」と微笑み続けた。


 廊下を軋ませて、じいじが戻ってくる。その手には、まだ少しだけ色を保った、あの白い菊の花束があった。


「ばあさん。……今日は、いい天気だったね」

 照れ臭そうに鼻の頭を掻きながら、じいじが腰を下ろす。


「ええ、本当に。私、人生で一番の日本晴れだったわ」


 二人の手が、夕焼けの中で静かに重なる。

 その皺の刻まれた重なり合いは、どんな最新の気象衛星よりも確かな、幸福の指標だった。


 明日もきっと、今日のような穏やかな天気が続くだろう。


 たとえ空に雲が立ち込めても、この家には、世界で一番優しくて、狂おしいほどに熱い太陽が、ずっと輝き続けているのだから。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

一〇〇%の雨という運命すら捻じ伏せる、少し「おもてなしがすぎる」おじいさんの奮闘記でした。


数々の困難を乗り越えてきた「あの二人」が、もし、そのまま長い年月を共に重ねたとしたら……。そんな想像から生まれた、一つの可能性の物語です。

不器用で真っ直ぐな彼と、それを静かに受け止める彼女。二人の生きた証の終着点として、少しでも温かいものを感じていただけたら嬉しいです。

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