否認(ノー)から始まる商談 ―三十八歳、営業の本領―
帝国の迎賓館、その一室を支配していたのは、肺の奥まで凍りつかせるような通夜の静寂だった。
西日に照らされた豪華な内装が、かえって敗北の色を際立たせている。フィオナは窓の外、帝都の無機質な石造りの街並みを眺めたまま、彫像のように動かない。その細い指先は、絶望を堪えるように窓枠を白くなるまで握りしめていた。
「……私の、力が足りなかった」
震える声が、静寂に波紋を広げる。
「陛下の怒りは、理屈を超えていたわ。祖父の代の遺恨、関税の不平等……。あんなに根深く、憎しみが残っているなんて。これでは、魔王軍が来る前に……」
「あの傲慢な皇帝め……!」
アイリスが机に拳を叩きつけた。重厚な木材が悲鳴を上げ、銀の食器が鋭い音を立てて跳ねる。
「民を、世界を守るという大義よりも、ちっぽけな過去のプライドを優先するとは。フィオナ様が、あそこまで頭を下げられたというのに……っ!」
アイリスの憤りは、彼女自身の無力さへの裏返しでもあった。騎士として、剣では守れない領域がある。それが彼女を苛んでいた。
その時だ。重苦しい空気の中に、あまりに場違いで、乾いた「音」が響いた。
――カチリ。
稔が、安物のボールペンの芯を出す音だった。日本では百円もしない、どこにでもある消耗品。だが、稔にとっては、戦場に赴く兵士が銃の安全装置を外すのと同じ意味を持つ音だ。
「……お二人とも。諦めるには、まだ早いですよ」
「稔様……?」
フィオナが、潤んだ瞳を向ける。そこには、すがるような、けれど諦めきった光が混在していた。
「ですが、ゼオン陛下はあそこまで明確に、不戦同盟を拒絶されました。王国は信用に値しないと……。もう、交渉の余地など残されてはいません」
その悲痛な問いに、稔は営業マン特有の、感情をあえて削ぎ落とした「薄い笑み」を浮かべた。
「いいですか。営業の世界じゃ、『ノー』と言われた瞬間が、本当の商談のスタートラインなんです。むしろ、何でも『イエス』と答える相手の方が怖い。断る理由が明確であればあるほど、それは『その理由さえ解消すれば、契約を勝ち取れる』というヒントになるんですよ」
三十八年間、理不尽な門前払い、罵声、そして目の前で破り捨てられた名刺。そんな泥水を啜り続けてきた男の瞳には、絶望の影すらなかった。あるのは、ただ淡々と「課題」を見つめる冷徹な計算だけだ。
稔はアイリスとフィオナを部屋に残し、単身で行動を開始した。
公式な謁見が閉ざされたのなら、狙うは「非公式の場」しかない。これは飛び込み営業の基本だ。
城内の庭園。夕暮れ時、一人で木刀を振るう皇帝ゼオンの前に、稔は悠然と姿を現した。
影から現れた不審者に、近衛兵たちが色めき立ち、剣の柄に手をかける。だが、ゼオンは鋭い眼光を稔に向けたまま、手でそれを制した。
「……王女の連れか。何の用だ。交渉なら終わったはずだ」
「いえ。今日は『交渉』に来たわけではありません。ただ、少しばかりこの庭の美しさに目を奪われましてね」
稔は、ゼオンとの距離を絶妙に保ちながら、深々と頭を下げた。近すぎれば警戒を呼び、遠すぎれば声を届かせられない。相手のパーソナルスペースを侵さないギリギリのライン。
「私はただの、しがない元営業マン……まあ、商人のようなものです。異世界から来た身として、帝国の素晴らしい建築様式に感銘を受けまして。特にあの、回廊から庭園へ繋がる梁の細工……あれは、機能性と威圧感を両立させた見事な設計だ。……もしや、陛下のご考案ですか?」
ゼオンの眉が、わずかに動いた。
「……貴様、あれがわかると言うのか」
「ええ。美しさだけでなく、有事の際の防御拠点としての強度も計算されている。あれを見て、確信しました。陛下は、感情で動く過去の亡霊ではない。むしろ、あまりに合理的すぎるがゆえに、不確実な『善意』や『友情』を嫌っているだけだと」
これこそがラポール(信頼関係)構築の真髄だ。相手が誇りに思っているであろう、しかし誰も指摘しない細部に光を当てる。自己重要感を満たし、共通の言語……この場合は「合理性」という土俵へ引きずり出す。
ゼオンの剣が止まった。彼は木刀を肩に担ぎ、稔を品定めするように見つめる。
「ふん……。合理的、か。ならば話は早いな。王国と組むメリットを、あの大臣たちが納得する形で示してみろ。あの関税で、我が国の民がどれだけ苦しんだか、貴様にはわからん」
稔は、ゼオンが吐き出したその言葉を逃さなかった。
(……やっぱりだ。関税の問題は『建前』。皇帝自身は、同盟の必要性を脳では理解している。だが、彼が背負っている『帝国の意志』、つまり納得させなきゃいけない内部の壁が、彼の首を縦に振らせないんだ)
「陛下。お話しいただいた関税の件、詳細なデータを拝見させていただけませんか? 私は数字の裏を読むのが得意でしてね。……もしかすると、その『不当な利益』とやらは、どこか別の場所に流れているかもしれませんよ」
稔の言葉に、ゼオンの瞳が、冬の湖のような冷たさを帯びて鋭くなった。
「……何が言いたい」
「帝国の財政を管理しているのは、あの大臣殿ですよね。……彼の『口癖』と、視線。少し気になりましてね。陛下の前では恭しいが、フィオナ様を蔑むとき、一瞬だけ見せたあの目……。あれは誇り高い政治家の目じゃない。……何かあると思っています」
稔は、日本での泥沼の派閥争いの中で、裏切り者の顔を腐るほど見てきた。
大臣が見せた、一瞬の愉悦。それは、国を思って過去を憂う者の顔ではない。
「売り手」と「買い手」の間に立ち、不当なマージンを抜いている汚職の臭い。
ゼオン皇帝は、しばらく沈黙した後、手にした木刀を無造作に投げ捨てた。
「面白い。……葛城稔と言ったか。貴様に三日の猶予をやる。同盟を結ぶための『論理的根拠』と、我が国の膿を暴く『証拠』……それを持ってこい。できなければ、貴様らは全員、国外追放だ」
「承知いたしました。……最高のご提案をお持ちしますよ」
稔は、日本のエリート部長を相手にするときのような、完璧なビジネススマイルで答え、その場を辞した。
迎賓館に戻った稔は、呆然とするフィオナとアイリスを前に、無造作にシャツの袖を捲り上げた。その腕は逞しくはないが、長年のデスクワークと苦労を支えてきた、男の渋みが滲んでいる。
「さあ、徹夜で資料作成ですよ。フィオナ様は王国と帝国の過去十年の輸出入データを。アイリスさんは大臣の過去の経歴、特に彼が重用され始めてから変わった物流の流れを、可能な限り洗い出してください」
「……稔。あなたは、本当に何者なんだ? ただの商人が、あの皇帝を相手にこれほど……」
アイリスが、驚きと、そしてこれまでにない熱い尊敬が混ざった視線を向ける。十歳も年上の男が見せる、圧倒的な「経験値」の差。自分が守らなければならないと思っていた背中が、今は何よりも頼もしく見えていた。その胸の高鳴りは、もはや単なる敬意ではないことに、彼女自身まだ気づいていない。
「言ったでしょう。私は営業マンです。潜在的な課題を顕在化させ、解決させるのが、私の本来の仕事です」
稔は不敵な笑みを浮かべ、散らばった情報を紡ぎ合わせ始めた。
「さあ、商談の準備を始めましょうか」




