凍れる謁見 ―深紅の皇帝と高い壁―
ガタゴトと、規則正しい車輪の音が腹の底に響く。
王国の国境を越え、帝国へと続く街道に入ってから既に三日が経過していた。石畳は王国よりも整然と敷き詰められ、馬車の揺れは最小限に抑えられているものの、長旅の疲労は確実に身体の芯へと降り積もっている。
だが、閉ざされた馬車の中だけは、外の張り詰めた冷気とは裏腹に、奇妙なほど柔らかい空気が滞留していた。
「……稔様、お顔色がだいぶ良くなられましたね」
向かい側の座席。豪奢なクッションに身を預けたフィオナが、その紫色の瞳を優しく細めて微笑んだ。
旅装に着替えた彼女は、城で着ていた煌びやかなドレスとは違い、機能美を重視した深い紺色のライディングドレスを身に纏っている。
しかし、装飾が減ったことでかえって彼女本来の素材の良さ――透き通るような肌の白さや、気品ある顔立ちが際立っていた。
移動中の馬車という密室。三十八歳の独身男にとって、王女と至近距離で見つめ合う状況は、心臓に悪いことこの上ない。
「ええ、まあ……。おかげさまで。皆様に手厚い看病をいただいた甲斐がありました」
稔が視線のやり場に困りながら答えると、隣に座っていたアイリスが「ふん」と鼻を鳴らした。
金色の髪をポニーテールに束ね、騎士としての警戒を怠らない彼女だが、その横顔には以前のような氷のような拒絶はない。
「当然だ。あなたには、フィオナ様の護衛を手伝ってもらうからな。道中で倒れられては困る」
アイリスは窓の外を流れる荒涼とした景色を見つめたまま、ぶっきらぼうに告げる。だが、その耳朶は夕焼けに染まったかのように赤い。
馬車が大きく揺れ、稔の肩が偶然アイリスの二の腕に触れた。
びくり、と彼女の肩が跳ねる。
(……なんだ、この落ち着かない気分は)
稔は自分より十歳も年上だ。
童顔で若く見えるが、どこにでもいる中年男のはずなのに。
昨夜、自分を救うために見せた行動力。そして、一転して今見せている、大人の余裕を感じさせる穏やかな物腰。
他の世界から来たこの男に、背中を預けられる「安心」を見出してしまっている。
その事実は、誇り高い女騎士の心を甘く、そして激しく揺さぶっていた。
彼女は自分の胸の鼓動が稔に聞こえてしまわないか、そればかりを気にしていた。
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数日の旅を経て、一行はついに帝国の首都、鉄機都市アイゼンガルドへと到着した。
アステリア王国が「伝統と信仰、そして魔法」の国なら、この帝国は「規律と鋼鉄、そして武力」の国だ。
城門をくぐった瞬間、肌を刺す空気が変わった。
整然と区画整理された幾何学的な街並み。木造建築は少なく、切り出された灰色の石材と鉄骨で組まれた堅牢な建物が、威圧するように立ち並んでいる。
通りを行き交う人々もまた、どこか硬質だ。華やかな笑い声はなく、足早に目的地へと向かう市民たちの目は鋭く、他国から来た馬車を値踏みするように見つめている。
魔王国の脅威が大陸全土を覆いつつある今、人類同士が争っている場合ではない。王国と帝国、二大国が手を組むこと。それが、生存のための絶対条件だ。
だが、この張り詰めた空気を見る限り、交渉が一筋縄でいくとは思えなかった。
巨大な鉄の門扉が、重々しい金属音と共に開かれる。
帝国の心臓部、皇帝の居城「黒鉄城」。
その最深部にある謁見の間へと、稔たちは通された。
高い天井。壁には歴代皇帝の肖像画と、狩り取った魔獣の首が飾られている。
冷たい石の床には深紅の絨毯が敷かれ、その遥か先、数段高くなった玉座に一人の男が鎮座していた。
燃えるような紅蓮の髪。
鋭利な刃物を思わせる美貌。
二十代半ばという若さで帝位を継ぎ、内政・外交共に非凡な才能を見せる名君。
ゼオン・ド・バルムンク皇帝がいた。
「よく来たな、王国の姫君よ。私が皇帝ゼオン・ド・バルムンクだ」
その瞳には冷静な理知と、隠しきれない情熱が同居している。
だが、その態度は、王国から来た一行に対して極めて冷淡だった。
ゼオンの背後には、彼の全幅の信頼を得ているという初老の大臣が控えている。
大臣は恭しく頭を下げているが、稔はその男の「顔」を見た瞬間、営業マンとしての直感が警報を鳴らした。
(……嫌な顔だ)
表情、目の動き、声のトーン。
それは、稔が日本で何度も対峙してきた「腹に一物ある取引相手」のそれだった。
丁寧な言葉遣いの中に、わずかに混ざる愉悦の色。皇帝に助言を与える際、一瞬だけ見せた計算高い視線。
この男、ただの忠臣ではない。
稔は腹黒いと感じた。
広大な謁見の間に、沈黙が落ちる。
ゼオン皇帝は頬杖をついたまま、無言で一行を見下ろしている。
その圧倒的なプレッシャーの中、フィオナが一歩前へ進み出た。
ドレスの裾が擦れる衣擦れの音だけが、静寂の中に響く。
彼女は玉座の前で優雅に膝を折り、完璧なカーテシー(礼)を披露した。
そして、顔を上げる。
その紫色の瞳は、皇帝の威圧的な視線を真っ向から受け止め、揺るぐことがない。
「アステリア王国第一王女、フィオナ・エル・アステリアと申します。ゼオン皇帝陛下におかれましては、突然の訪問にも関わらず謁見の機会を賜りましたこと、心より感謝申し上げます」
鈴を転がすような、しかし芯の通った声が、石造りの広間に朗々と響き渡る。
フィオナはゆっくりと立ち上がり、毅然とした態度で言葉を紡いだ。
「我が国と帝国の間には、長きにわたり冷たい風が吹いておりました。しかし今、我々は共通の、そしてかつてない巨大な脅威に直面しております」
彼女は言葉を区切り、まっすぐにゼオンを見据えた。
「魔王国の軍勢は日々強大化しています。魔王ベリアル、その娘リリス、そして死者の軍団を操る異邦人……。彼らの侵攻はもはや、一国の力のみで支えられるものではありません。陛下。どうか過去の遺恨を越え、未来のために……我ら人間が種族の垣根を超え、手を取り合う道を選んではいただけないでしょうか。帝国と王国の間に、強固なる『不戦同盟』の締結を、ここに提案いたします」
切実でありながらも、決して卑屈ではない。
王族としての誇りを保ったまま、対等な立場での協力を求める堂々たる口上だった。
傍らで控えるアイリスも、主君の立派な姿に背筋を伸ばし、固唾を飲んで皇帝の言葉を待った。
数秒の、永遠にも似た沈黙。
やがて、ゼオン皇帝は鼻で笑い、玉座の肘掛けをバン、と叩いた。
「同盟だと? ……笑わせるな」
その声は低く、広間の温度を一気に氷点下へと叩き落とすような響きを持っていた。
「我が祖父の代から、貴国がいかに我が国を軽んじ、関税条約を盾に不当な利益を貪ってきたか、忘れたわけではあるまい。自分たちが弱り切ったところで、都合よく握手を求める……それが伝統ある王国のやり方か?」
「陛下、それは誤解です! 過去の条約に関しては我が国にも非礼があったかもしれませんが、今はそのような過去を蒸し返している場合では――」
「黙れ」
ゼオンの一喝が、フィオナの言葉を遮った。
彼は立ち上がり、マントを翻して階段を一段降りる。その眼光は、獲物を狩る猛獣のそれだった。
「言葉だけで国は守れぬ。力なき正義など、戯言に過ぎん。魔王軍への備えが必要なのは事実だが、それは我ら帝国の力のみで成し遂げる。足手まといになる貴国と組むメリットなど皆無だ。……交渉は決裂だ」
「なっ……!」
絶句するフィオナ。唇を噛み締め、拳を震わせるアイリス。
ゼオンは冷酷に言い放つと、一行に背を向けた。
「貴様らを即刻追い出せとは言わん。だが、同盟の余地はない。……大臣、あとは任せる」
皇帝は席を立ち、一行に背を向けた。
立ち尽くすフィオナ。唇を噛み締めるアイリス。
そして稔は、不気味な笑みを口端に浮かべた大臣の横顔を、じっと見つめていた。
(……さて。この『無理筋な商談』、どうひっくり返してやるか)
絶望的な状況の中、葛城稔の営業マンとしての魂が、静かに燃え始めてた。




