数字なき契約と命の価値
ふかふかの羽毛布団、洗いたてのシーツの香り。
稔が目を覚ましたのは、地下牢の冷たい床ではなく、王城の最上層に位置する「迎賓の間」だった。
窓からは眩い朝日が差し込み、磨き上げられた大理石の床を照らしている。
昨夜の激闘の傷は、王宮医師団による懸命な手当てと、フィオナたちの献身的な看病によって驚くほど引いていた。
「……日本なら、これだけで一ヶ月は休職案件だな」
稔は寝台の上で、自分の手を見つめた。
三十八歳の肉体。営業職として、理不尽な接待や深夜残業に耐え、胃を荒らしながら過ごしてきた日々。
便利だが息苦しい、あの「箱庭」のような日本を思い出す。
満員電車、ノルマ、そして自分を捨てた婚約者。
異世界に来てしまった恐怖はあるが、同時に「すべてを捨てられた」という解放感が、彼の胸の奥で澱のように溜まっていた。
胸の奥で、異質な心音が一つ。
ミミックは、今も彼の体内に潜んでいる。
姿は見えずとも、その禍々しい力が、彼を英雄でも怪物でもない「何か」へと変えていた。
コンコン、と控えめなノックの音が響く。
「葛城様、お目覚めでしょうか。フィオナ様がお待ちです」
侍女の声に、稔は重い腰を上げた。客人として迎えられた今の立場は、営業時代の「大口契約後の接待」に似ている。だが、相手は本物の王女だ。裏を疑う習性が抜けぬまま、稔は用意された正装に着替えた。
重厚な扉が開くと、そこは静謐な空気が流れる謁見の間だった。
高い天井から差し込む光が、等間隔に並ぶ近衛兵たちの銀色の鎧を反射している。その最奥、玉座の傍らに彼女はいた。
「よくぞ参りました、葛城様」
穏やかで、心地よく耳に響く声。
王女フィオナ。昨夜は混乱の中でよく見えなかったが、改めて正視した彼女の姿に、稔は思わず足を止めた。
透き通るような空色の長い髪に、深い知性を湛えた紫の瞳。瑞々しい美しさは見る者の心を洗うようだ。身に纏っているのは、空の色を映したような慎ましやかながらも気品溢れる水色のドレス。彼女が微笑むだけで、殺風景な石造りの広間が華やいで見えた。
「昨夜は貴方の勇気ある行動に救われました。心より感謝いたします」
フィオナが優雅に一礼する。その隣に立つアイリスが、一歩前へ出た。
「……葛城、稔。まずは、貴公への無礼を詫びさせてほしい」
アイリスは黄金の髪を揺らし、わずかに視線を泳がせた。昨夜、自らの手で彼を牢へ繋いだことへの恥じらいが、その白い頬を赤く染めている。彼女は再生した左腕を無意識にさすり、決心を固めるように稔の目を真っ直ぐに見据えた。
「私は貴公をただの不審者と決めつけ、信じようともしなかった。それなのに……貴公は命を賭して私を、そしてフィオナ様を救ってくれた。騎士として、この上ない醜態だ。だが……心から感謝している。……本当に、ありがとう」
強気な口調の中にも、隠しきれない震えと感謝が混ざり合っている。彼女は深々と頭を下げた。その姿には、以前の威圧感ではなく、一人の戦士としての誠実さと、助けてもらったことへの素直な「熱」が宿っていた。
謁見の後、稔は地図の広げられた会議室へと招かれた。
フィオナは穏やかな口調で、現在の世界情勢を説明し始める。
「現在、魔王国……魔王ベリアルは、世界のすべてを自らの領土とし、支配することを目的として侵攻を続けています。我々人間、そしてエルフ、ドワーフの三種族は、かろうじて均衡を保っていますが……」
白磁のように白い指が地図の上を滑る。
フィオナによると、王国とは別に、北には巨大な「帝国」が存在するそうだ。
帝国とは祖父の世代から続く不和があり、かつての戦争の火種は消えておらず、帝国の若き皇帝は、虎視眈々と王国の隙を伺っているという。
そして、種族間の壁も厚い。
森を統べる誇り高き**【エルフの女王】と、山脈を支配する武骨な【ドワーフの王】**。
エルフとドワーフは古くから仲が悪く、人間をも含めた三勢力は、事実上の冷戦状態にある。
「魔王国という共通の敵がいながら、私たちは手を取り合うことすらできないのです」
フィオナの説明は続く。
魔王国の軍事力は強大だ。
死霊を操る黒崎を筆頭に、凶暴なゴブリン、略奪を繰り返すオーク、山をも動かすトロール、そして圧倒的な個体力を誇るオーガ。
とても王国の兵力だけでは、手に負えない。
稔は地図を眺め、営業マンとしての直感を働かせた。
(……なるほど、競合他社同士が足を引っ張り合っている隙に、新規参入(魔王軍)が一気にシェアを奪いに来ているわけか。厄介なマーケットだ)
アイリスが深々と頭を下げた。その黄金の髪が揺れ、彼女の握りしめた拳が微かに震えている。
「稔。私達には、あなたの力が必要だ。私達だけでは……今の私達の力だけでは、民を、この国を守りきれない。……恥を忍んでお願いする。力を貸して欲しい」
静まり返った室内で、その言葉だけが重く響いた。
稔は、差し出されたその真摯な願いを前に、黙り込んだ。
(戦うのは……嫌だ。本当は、真っ平ごめんだ)
心の底からの本音だった。
自分は英雄でもなければ、血気盛んな若者でもない。三十八歳。つい数日前までは、上司の顔色を伺い、クライアントの無理難題に頭を下げ、冷え切ったコンビニ弁当で胃を満たしていただけの、しがない営業マンなのだ。
暴力は恐ろしい。痛みは苦しい。
昨夜のジャイアントの拳の風圧を思い出すだけで、奥歯がガチガチと鳴りそうになる。
だが。
稔は自分の胸元にそっと手を当てた。そこには、禍々しくも圧倒的な因果の力を秘めた『ミミック』が眠っている。
(日本にいた頃の俺に、何ができた?)
どれだけ必死に働いても、自分が救えたのは会社の売上数字だけだった。
どれだけ頭を下げても、守れたのは自分のちっぽけな立場だけだった。
自分が心血を注いだ仕事が、誰かの命を繋ぎ止める瞬間に立ち会ったことなど、一度もなかった。
だが、昨夜はどうだったか。
砕け散るはずだったアイリスの命を、自分は繋ぎ止めた。
奪われるはずだったフィオナの未来を、自分は守り抜いた。
仕事では、決して得られなかった感覚。
数字や契約書という記号のやり取りではなく、血が通い、体温があり、涙を流す『命』を救うということ。
(……人助け、か。ガラじゃないが)
かつて、就職活動の面接で「御社の商品を通じて社会貢献を……」なんて口先だけで言っていた綺麗事が、今、異様な重みを持って自分の掌に乗っている。
この呪いのような力があれば、日本での自分には到底成し遂げられなかったことが、ここではできる。
稔は長く、重い溜息を吐き出した。それは、これまでの平穏な人生との決別の音だった。
「……アイリスさん、頭を上げてください」
稔の声に、アイリスがゆっくりと顔を上げる。その瞳は、不安と期待で揺れていた。
「戦うなんて、本当は怖くて逃げ出したいくらいだ。……でも」
稔は、かつてクライアントに覚悟を伝えた時のように、真っ直ぐに彼女たちを見据えた。
「『葛城稔』という商品を、あなたたちがそこまで必要としてくれるなら。……その契約、謹んでお引き受けします」
アイリスの顔に、ぱあっと光が差したような明るい驚きが広がる。
隣にいたフィオナも、胸を押さえて深く安堵の息を漏らした。
「受けてくれるか……! ありがとう、よろしく頼む」
「ありがとうございます、稔様……! 本当に、ありがとうございます」
二人の女性の、混じり気のない笑顔。
それは、三十八歳の男が人生で初めて手に入れた、何物にも代えがたい『報酬』だった。




