幸運(バグ)は、英雄を名乗らない
ゴブリン・ジャイアントの巨体が、黒ずんだ泥のように崩れ落ちていく。
腐臭と静寂が混じり合う廊下で、黒崎は信じられないものを見る目で葛城稔を凝視していた。
「……あり得ない。俺の最高傑作だぞ、それは。死霊術の結晶、因果さえ無視する力……それを、ただの“偶然”で片付けたというのか?」
驚愕は、やがてどす黒い憎悪へと変わる。
宙に浮かぶ黒崎の瞳に、もはや余裕の色はなかった。
「葛城稔……だったな。あんた、向こうでは何をしていた?」
稔は肩で息をしながら、ミミックの蓋の隙間から黒崎を見返す。
膨れ上がった血管。破裂した毛細血管から滲む血が、白いワイシャツを赤く染めていた。
「……中堅メーカーの営業です。あなたこそ、その手慣れた煽り……同業者ですね?」
「ハッ! 正解だ。営業部次長、四十歳。バツイチ。負け組人生だよ」
黒崎は嗤う。
「葛城、あんたも似たようなもんだろ? 擦り切れて、頭を下げて、報われなかった。なのに――なぜ王族なんて守る? 奪う側に回れる力を手に入れたってのに!」
黒い魔力が黒崎の周囲に渦巻く。
死者の怨念を束ねたそれは、空間そのものを歪ませていた。
「俺は決めた。この世界では、俺がルールだ。
俺を見下した社会への復讐――その第一歩が、この王国の崩壊だ!」
その独白に、稔は短く鼻で笑った。
「……四十にもなって、まだ反抗期ですか。
私とは営業方針が合わないようですね。あなたみたいな“押し売り”は嫌いです」
「死ねッ! 葛城ァ!」
黒崎が両手を突き出す。
《死霊の波動》。数千の死者の叫びを圧縮した、回避不能の死の濁流。
稔は――一歩、前に踏み出した。
――ガクッ。
石畳の僅かな段差に、足が“偶然”引っかかる。
無様な前のめりの転倒。だが、それこそが正解だった。
ドォォォォン!!
死の霧は稔の頭上を通過し、背後の壁を消滅させる。
「な……ッ!?」
追撃しようとした黒崎の前で、天井が“たまたま”崩落する。
巨大な石材が降り注ぎ、二人の間を遮った。
「偶然だ! そんなもの、ただの偶然に過ぎない!」
狂ったように叫び、黒崎は瓦礫を粉砕して迫る。
稔は、身体の悲鳴を無視して地を蹴った。
ミミックの身体強化。
三十八歳の肉体を無理やり“最適化”する暴力的な補正。
心臓が破裂寸前まで加速する。
一歩ごとに膝の軟骨が削れ、腕を振るたびに筋繊維が千切れる。
それでも――稔は止まらない。
防壁を張る黒崎。
だが、そこには制作時の“僅かな魔力のムラ”があった。
稔の拳が、吸い込まれる。
バキンッ!!
「ぐ、はぁっ……!?」
防壁を貫かれ、黒崎の身体が廊下を転がる。
「なぜだ……! あんた、身体が限界だろ! そんな力を使えば、死ぬぞ!」
「……きついのには、慣れています」
稔は吐血しながら、前に出る。
「……心なんて、とっくに死んでました」
営業マンの武器は、忍耐だ。
拒絶されても、踏みつけられても、目的を果たすまで引かない。
世界が、黒崎を拒絶していく。
落ちるシャンデリア。
反射する魔法。
偶然の爆発。
「……化物め。英雄じゃない、ただのバグだ!」
黒崎は悟った。
ここで命を賭ける価値はない。
「……今日は引く。だが覚えておけ、葛城。絶望はまだ始まったばかりだ」
闇の門が開く。
「次は、もっと残酷な条件で会おう」
黒崎が消えた瞬間――
稔の脚から、力が抜けた。
ドサリ。
宝箱を戴いたまま、稔は倒れ込む。
静寂の戻った廊下に、朝光が差し込んだ。
床に転がる《万能薬》を、
アイリスは震える指で掴み、飲み干す。
奇跡は一瞬だった。
砕けた骨が繋がり、筋肉が編み直される。
「……動く……」
力だけではない。
“立つ理由”が、身体に戻ってきた。
「アイリス!」
フィオナが泣きながら抱きつく。
「よかった……本当に……」
アイリスは王女を抱き留めながら、
廊下の中央で倒れる男から目を離せなかった。
宝箱頭の中年。
それでも、最後まで前に立ち続けた背中。
フィオナが、そっと近づき、跪く。
「ありがとうございます」
王女として。
そして一人の人間として。
稔は、意識の底でその温もりを感じていた。
(……悪くない商談だ……)
そこへ、アイリスが膝をつく。
「葛城稔。貴公を疑った非礼……詫びよう」
宝箱の縁に、そっと触れる。
「貴公は、私の命と……騎士としての魂を救った」
その瞳に宿るのは、信頼。
そして、まだ名を持たない感情。
「この命、この剣……
いつか必要とあらば、必ず貴公のために」
「……重いのは……苦手でさ……」
それを最後に、稔は深い眠りに落ちた。
朝日が、壊れた廊下を照らす。
倒れた一人のボロボロのおっさんと、
その背を、静かに見守る二人の女性。
葛城稔の異世界生活は――
英雄譚ではなく、人の縁から始まった。




