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踏みにじられた夜に、立つ者

牢獄の静寂は、不快な「音」によって破られた。

葛城稔かつらぎ・みのるは、石壁に預けていた背中を跳ねさせた。


地上の喧騒とは明らかに違う。金属が硬い骨を断つ音、湿った石畳を無数の足が引きずる音、そして――絶叫。


「……なんだ」


稔は低く呟いた。


数分前まで聞こえていた「王都の日常の音」が、急速に「戦場の不協和音」へと塗り替えられていく。三十八年の人生で培った危機管理能力が、心臓を早鐘のように打たせた。


身体の奥底、頭部と一体化した《ミミック》が、かつてないほど激しく脈打っていた。


稔は立ち上がり、冷たい鉄格子を掴んだ。


「誰か、誰かいませんか!」


返事はない。いつも廊下に立っているはずの衛兵の姿も消えていた。ただ、遠くから腐敗した肉が焼けるような嫌な臭いだけが漂ってくる。


(待っていても、死ぬだけだ)


稔は覚悟を決めた。今まで拒み続けていた「箱」の力に、自らの意識を沈ませる。

――出てこい。


ガガガッ、と鈍い音が響いた。


稔の頭部にミミックが顕現する。宝箱の姿をした異形が、稔と完全に重なった。ミミックの身体強化が、衰えかけた中年の細い腕を、重機のような剛腕へと変貌させる。


メキメキ、と嫌な音を立て、鉄格子が飴細工のようにひしゃげた。その瞬間、稔の全身の筋肉に強烈な負荷がかかり、口内から鉄の味が広がる。


「が、はっ……くそ……一歩進むだけで、これかよ」


膝をつきそうになりながらも、稔は牢を這い出した。壁に手をつき、悲鳴の響く地上へと向かって走り出す。


自分を不審者として捕らえた「騎士」など、助ける義理など、どこにもない。

だが、この不条理な暴力の気配に、彼の内なる「矜持」が激しく抗っていた。


―――


王城の廊下は、地獄と化していた。


「フィオナ様、私の後ろへ!」


黄金の髪を乱し、アイリス・ド・ヴァランシエンヌは槍を振るった。彼女の瞳に宿るのは忠誠心、そしてそれを上回る困惑。襲いかかってくるのは、かつての戦友や部下たち。だが、彼らはすでに生者ではなかった。


アイリスの槍が死霊兵の胸を正確に貫く。だが手応えは異様に軽い。血は流れず、乾いた砂がこぼれるような、不気味な音がするだけだ。


「……なんてこと。死してなお、辱めを受けるというのですか」


背後で、王女フィオナが小さく震えていた。


フィオナにとって、アイリスは無敵の象徴だった。だが今の彼女は明らかに疲弊している。倒しても倒しても、死霊たちは痛みを知らず、音もなく立ち上がってくる。


「おっと、そこまでだ、騎士様」


上空から冷ややかな声が降る。


黒い霧を纏い、宙に浮遊する一人の男。死霊術師特有の不浄な魔力を放ちながら、静かに地上へ降り立った。


「……何者だ。王都を、わが家臣たちを汚した不届き者は、貴様か」


槍を向けるアイリスを、男は薄笑いで見返した。


「初めまして、だな。俺は黒崎。『旧い世界の住人』を掃除しに来た、死を統べる者だ」


「黒崎……? 聞き覚えのない名だな」


「当然だろう。俺はこの世界の理の外から来たんだからな。

 ……さて、王女フィオナ。君には魔王城まで同行願おうか」


黒崎は肩をすくめ、指を鳴らした。


「さて。茶番はここまでだ。――仕事をしようか」


その合図と同時に、王城の壁が内側から爆ぜた。

石片と粉塵の向こうから現れたのは、全高四メートルを超える巨躯。腐肉を縫い合わせたような身体に、歪な魔法陣が無数に刻まれている。


ゴブリン・ジャイアント。


死霊術によって再構成された、戦争用の怪物だった。


「アイリス!」


フィオナが叫ぶ。

だが、アイリスは一瞬たりとも迷わず、前に出た。


「行かせません……! 私が、この国の盾です!」


槍を構え、踏み込む。

だが、次の瞬間――世界が歪んだ。


巨大な棍棒が振り下ろされる。

回避も、防御も間に合わない。衝撃を逃がそうとした盾ごと、石畳が砕け散った。


――バキィッ。


乾いた破壊音。

白銀の盾が、粉砕された。


「が……ぁっ……!」


アイリスの身体が宙を舞い、壁へ叩きつけられる。呼吸が、肺の奥で止まった。


追撃は、容赦なく続いた。

ゴブリン・ジャイアントの巨大な足が、アイリスの左腕を踏み潰す。


「ああああああああぁぁぁぁぁぁッ!!」


骨が砕ける感触が、はっきりと伝わった。

あり得ない方向に折れ曲がる腕。黄金の髪は床に散り、鎧は歪み、誇りは踏みにじられた。


「アイリス! やめて、もうやめてください!」


フィオナが駆け寄ろうとする。

だが、黒崎が放った闇の鎖が彼女の身体を絡め取り、床へ引き倒した。


「王女様は、そこで見ていなさい。希望が潰れる瞬間というのは、なかなか味わい深い」


ゴブリン・ジャイアントは、無抵抗になったアイリスの髪を掴み、乱暴に吊り上げた。


「……はぁ、はぁ……っ……まだ……」


意識が遠のきながらも、アイリスは槍を離さない。

だが次の瞬間、巨大な拳が腹部に叩き込まれた。


ドゴォォォォォォォッ!!


鎧がひしゃげ、胃液が床に散る。

髪を放され、彼女はゴミのように床を転がった。


もう、指一本動かせない。


フィオナは、その光景を呆然と見つめていた。

無敵だった騎士が、蹂躙され、壊されていく。


――神など、いない。

あるのは、理不尽な力と、冷酷な勝者だけ。


「さあ、王女様」


黒崎が歩み寄り、アイリスの喉元へ魔力の刃を突き立てる。


「まずはこの騎士を殺して、君の心を完全に折ろうか」


フィオナは、震える瞼を閉じた。


その時だった。


廊下の奥から、場違いな「足音」が聞こえた。


一歩。

また一歩。


重く、遅く、それでいて――何かを決定づける足音。


黒崎が眉をひそめ、振り返る。


「……何だ? まだ生き残りがいたのか」


闇の中から現れたのは、ボロボロのワイシャツを着た中年の男だった。

そして何より異様なのは、その頭部。


禍々しい装飾が施された、巨大な「宝箱」。


「……葛城、稔?」


血に染まった視界の中で、アイリスがその姿を捉えた。

地下牢に押し込めたはずの、不審な異邦人。


「……おいおい」


黒崎は鼻で笑った。


「その格好は何だ? 同郷かと思ったが、ずいぶんとハズレを引いたな。その箱、ミミックか? 惨めすぎて――」


言葉が、途切れた。


稔の周囲の空気が、一瞬で変質した。


「……営業時間は、とっくに過ぎてますよ」


低く、静かな声。

だがその奥には、三十八年分の抑圧と怒りが、煮え滾っていた。


稔は、床に転がるアイリスを見た。

折れた腕。汚れた髪。

そして、拘束されたまま震えるフィオナを見た。


赤の他人だ。

助ける義理もない。


それでも――。


「女性に怪我をさせるのは、見逃せません」


一歩、前へ。


「ハッ! 死に損ないが!」


黒崎が叫ぶ。


「ジャイアント! 潰せ!」


咆哮とともに、ゴブリン・ジャイアントが突進した。

巨大な拳が、稔の頭部――宝箱へと振り下ろされる。


その瞬間。


パカリ、と。


宝箱の蓋が、わずかに開いた。


溢れ出したのは、どす黒い因果の奔流。


――ガキンッ!!


拳が触れた刹那、ジャイアントの腕の筋繊維が、あり得ない角度で同時に断裂した。

自重に耐えきれず、骨が砕け散る。


「ギ、ギギィィィィィィッ!?」


稔は、一歩も動いていない。

ただ、そこに立っているだけで、世界の「偶然」が彼に味方する。


「な、何をした……!? 魔法か!?」


黒崎が、明確に怯えた。


稔は答えない。

ゆっくりと、蓋を閉じる。


次の瞬間、身体が軋んだ。

ミミックの過負荷が、三十八歳の肉体を容赦なく壊しにかかる。


それでも。


一歩、踏み出した。


ドゴォォォォォォォッ!!


拳が、心臓部を正確に貫いた。

偶然そこにあった、古い傷跡。

偶然そこに吸い込まれた、必然の一撃。


怪物は、崩れ落ちた。


「……あり得ない……」


黒崎の声が、震える。


稔は血に染まったワイシャツのまま、立ち尽くしていた。


「……次は、あなたの番です」


その時、宝箱の中から、小さな光る瓶が転がり出た。

稔はそれを、這いつくばるアイリスの方へ転がす。


「……飲めますか? これで治ると、ミミックが言っているようです」


フィオナは、その光景を呆然と見つめていた。

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