赤き瞳の騎士姫
森の奥から、規則正しい足音が聞こえてきた。
乾いた音。一定の間隔。乱れがない。
獣ではない。魔物でもない。
稔は反射的に身を強張らせ、呼吸を殺した。
(……来る)
心臓の鼓動が、やけに大きく耳に響く。さっきまで感じていた疲労や痛みが、一気に現実へ引き戻された。生き残ったという安堵は、まだ体に馴染んでいない。
金属が触れ合う、硬い音が近づいてくる。
鎧だ。
その事実に気づいた瞬間、稔の胸に小さな希望が灯った。
(人間……だよな?)
異世界に来たことは、もう疑いようがない。だが、同じ「人」であるなら――話は通じるかもしれない。少なくとも、さっきまで相手にしていたゴブリンよりは。
「……人、か?」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
木々の隙間から、影が現れる。
次いで、はっきりとした輪郭を持った人影が、複数。
武装した集団だった。
全員が統一された鎧に身を包み、剣や槍を手にしている。歩き方に無駄がなく、周囲を警戒する視線にも迷いがない。素人ではない。少なくとも、現代日本で見る「人」ではなかった。
(……映画、じゃないよな)
一瞬、そう思ってしまう自分がいる。
だが、近づくにつれて分かる。鎧の擦り傷。金属のくすみ。布地の色褪せ。どれも、飾りではない。本当に使われてきたものだ。
「止まれ!」
鋭い声が飛ぶ。
命令だ。疑問ではない。
稔は慌てて両手を上げた。武器を持っていないことを、少しでも早く示したかった。
「待ってください! 私は――」
言葉は、途中で喉に詰まった。
兵士たちの視線が、揃って自分の顔――いや、頭部に集まっていることに気づいたからだ。
熱を帯びた視線。警戒。嫌悪。恐怖。
それらが混じり合った空気が、一瞬で森を満たす。
「……ミミックだ」
低い声が、誰かの口から漏れた。
その一言で、空気が変わった。
「魔物と融合している……」
「呪われ者か」
囁きが、ざわめきに変わる。
(……そう見えるよな)
稔は、内心で乾いた笑いを浮かべた。
自分でも分かっている。頭に箱が張り付いた人間など、どう考えても異常だ。説明しろと言われても、どう説明すればいいのか分からない。
「違う! 私は人間です!」
気づけば、叫んでいた。
声を張り上げなければ、押し潰されそうだった。
「私は葛城稔と申します! ここがどこかも分かっていません!」
必死の自己紹介。
だが、兵士たちの反応は変わらない。むしろ、警戒が強まったように見えた。
そのとき、兵士たちの列が左右に割れた。
一人の女が、前に出てくる。
蒼いマント。無駄のない装飾の鎧。背筋の伸びた立ち姿。
近づくにつれて、彼女の顔がはっきりと見えた。
金色の髪は陽に晒されて褪せたような軽さではなく、しっとりと重みを感じさせる色合いで、肩から胸元へ静かに流れている。前髪は目元にかかるほどの長さだが、視界を遮ることはなく、むしろその奥の表情を隠すためにあるようだった。
目が合った瞬間、稔はわずかに息を呑む。
赤みを帯びた瞳――深い紅色。感情を映すというより、相手を見定めるための色だ。強い光を宿しているのに、そこには熱がない。まるで刃の切っ先を向けられているような、静かな圧迫感。
整った顔立ちだ。驚くほどに。
だが、柔らかさは感じられない。口元はわずかに引き締められ、笑うことを前提としていない形をしている。その表情からは、迷いも慈悲も読み取れなかった。
(……綺麗だ)
そう思ったのは一瞬だった。
すぐに、別の感覚が背中を撫でる。
(……違う。これは――怖い)
この女は、感情で動く人間じゃない。
最初から「守る側」であり、「裁く側」だ。
人を見る目ではない。
危険か、否か。それだけを量る目だった。
「名前は?」
短い問い。
「……葛城稔です」
「所属は?」
所属。
その言葉に、稔は一瞬戸惑った。
(会社名? 国? 組織?)
だが、どれも当てはまらない。
「分かりません」
女の眉が、わずかに動いた。
それだけで、空気が冷えた。
「ふざけているのか」
責めるような声ではない。ただ、事実として切り捨てる声音。
「本当です。私は、この世界のことを何も知らない」
必死に伝える。
だが――
次の瞬間、衝撃が腹を打った。
息が詰まり、体が横に倒れる。
「嘘をつくな!」
「魔物に操られているに決まっている!」
拳が、蹴りが、次々と降ってくる。
ミミックを被った状態でも、ダメージは変わらないのか相当な痛みだ。いや、痛み以上に、恐怖が勝った。
(……殺されるかもしれない)
反撃しようと思えば、できる。
腹の中で、ミミックの感覚が確かに蠢いている。力を使えと、囁いてくる。
だが、稔は動かなかった。
(ここで暴れたら、終わりだ)
抵抗した瞬間、自分は「魔物」になる。
それだけは、嫌だった。
「やめなさい」
低く、しかしよく通る声が響いた。
殴打が止まる。
女――騎士姫アイリスが、兵士たちを制していた。
「これ以上は不要」
短い命令。
稔は地面に伏したまま、荒い息を吐いた。肺が焼けるように痛む。
「……なぜ抵抗しない」
アイリスの声が、上から降ってくる。
「抵抗したら、私は魔物になる」
それだけ答えた。
本心だった。
一瞬だけ、彼女の視線が揺れた。
だが、それはすぐに消え、冷たい光に戻る。
「連行する。王都へ」
その言葉と同時に、頭部の重みが消えた。
箱が、音もなく消失する。
兵士たちがざわめいた。
「消えた……?」
(収納できる……)
稔は理解したが、口には出さなかった。
説明すればするほど、疑われる。
鎖を掛けられ、歩かされる。
どこへ行くのかも分からない。
ただ一つ分かるのは――
自分は、完全に疑われているということだけだった。
こうして稔は、異世界の王国の牢へと連行されていった。




