緊急案件発生 ―祝宴の夜の残業―
砂煙が晴れ、夕闇に沈む鉄機都市アイゼンガルドの一角で、一つの野望が潰えた。
巨大な看板の下敷きになり、白目を剥いて痙攣する男――大臣ガランド。
かつて帝国の影で甘い汁を吸い尽くし、我が世の春を謳歌していた権力者の末路は、あまりにも無様で、そして呆気ないものだった。
「確保! 国賊、大臣ガランドを拘束せよ!」
「手加減は無用だ! 陛下への尋問まで、舌を噛ませるな!」
駆けつけた帝国兵たちが、怒号と共に大臣ガランドを取り囲み、その豪奢な衣服ごと地面に押し付け、粗暴に手錠をかける。
罵声と歓声が入り混じる喧騒の只中で、稔はふぅ、と長く重い息を吐き出した。
全身の筋肉が、悲鳴を上げている。
ミミックという理外の怪物をその身に宿し、因果すらもねじ曲げる『絶対幸運』と『身体強化』を行使した代償。それは三十八歳の中年男性の肉体には、あまりに過酷な「請求書」となって跳ね返ってきていた。
ふくらはぎは断裂寸前のように熱を持ち、肺は鉄の味で満たされている。
(……あー、きっつい。疲れたな……)
稔は苦笑いしながら、乱れた服の襟を正した。
どんなに疲れ果てていても、身だしなみを整えるのは営業マンの習性だ。クライアントの前で、疲れた顔を見せるわけにはいかない。
「……稔!」
人混みをかき分け、切羽詰まった声が響いた。
長い金の髪を揺らし、息を切らせて駆け寄ってきたのはアイリスだった。その背後には、安堵の表情を浮かべるフィオナの姿もある。
「稔、無事か!?」
アイリスは稔の目の前まで来ると、勢いよくその肩を掴んだ。
彼女の瞳は揺れていた。
先ほどまで、稔の頭部を覆っていた禍々しい『宝箱の怪物』。その異形を目にした時、アイリスは恐怖したのだ。稔が稔でなくなってしまうのではないか。あのおぞましい力に、彼自身が食い尽くされてしまうのではないか、と。
だが、そこにいたのは、いつもの頼りなさげな、しかしどこか底知れない強さを秘めた、くたびれた男だった。
「ええ、なんとか。少々『運』を前借りしましたが、納期には間に合いましたよ」
稔がいつもの「営業用スマイル」を浮かべると、アイリスは身体から力が抜けたように、深く息を吐いた。
掴んでいた肩の手を、そっと彼の腕へと滑らせる。その温もりを確認するように。
「……無茶をして。あなたという奴は、いつもそうだ。心臓が止まるかと思ったぞ」
「すみません。ご心配をおかけしました」
「……無事なら、いい。本当に……無事でよかった」
アイリスの声が震えていた。
彼女は、気丈な騎士だ。戦場で弱音を吐くことなどない。だが、異界から来たこの「武器を持たない男」のこととなると、どうにも調子が狂う。
守らなければならない対象なのに、気がつけば彼が先陣を切り、道を切り拓いている。その危うさが、アイリスの胸をきゅっと締め付けるのだ。
「さあ、戻りましょう。陛下がお待ちです」
フィオナが優しく声をかける。
三人は夕闇の帝都を背に、黒鉄城へと歩き出した。
◇
その夜。黒鉄城、「黒曜の間」。
急遽執り行われた晩餐会は、煌びやかなシャンデリアの輝きとは裏腹に、どこか張り詰めた緊張感に包まれていた。
本来ならば、同盟締結を祝う華やかな宴になるはずだった。
だが、その食卓に並ぶのは、祝杯というよりも「和解と謝罪」の儀式としての重々しさだった。
長テーブルの上座。
赤い髪の皇帝ゼオンは、手つかずのワイングラスを置くと、ガチャン、と音を立てて椅子を引き、立ち上がった。
その表情は、いつもの不遜な傲慢さが消え失せ、苦渋に満ちていた。
「……フィオナ殿下。そして、アステリア王国の方々よ」
ゼオンの低く太い声が、広間に響く。
周囲に控える近衛兵たちが息を呑む。
皇帝は、誰にも頭を下げない。それが帝国の流儀であり、ゼオンという男の矜持だったはずだ。
だが、彼は深く、ゆっくりと頭を下げた。
「詫びて済む問題ではないことは承知している。だが、皇帝として謝罪する。……我が国の膿が、貴国に多大なる無礼を働き、長きにわたり不当な利益を貪っていたことを」
広間が静まり返る。
プライドの塊であるゼオンが、他国の王女に頭を下げる。それは、彼が自身の不明を恥じ、王としての責任を全うしようとする覚悟の表れだった。
大臣ガランドの不正を見抜けず、あまつさえ重用していた己の未熟さ。それを認めることは、ゼオンにとって大変なことだ。
フィオナは静かにその姿を見つめていたが、やがてふわりと微笑み、首を横に振った。
「頭をお上げください、ゼオン陛下。……膿が出たということは、これから傷が癒えるということですわ」
「……しかし」
「私たちは過去を糾弾しに来たのではありません。未来への『握手』を求めて、ここまで参りました。陛下が真実を受け入れ、正してくださるのなら、王国にとってこれ以上の喜びはありません」
フィオナの言葉には、一国の王女としての気高さと、少女のような純粋な慈悲が同居していた。
ゼオンは顔を上げ、眩しいものを見るようにフィオナを見つめた後、視線をその隣に控える男――稔へと移した。
「……感謝する。貴国の寛大さと、そこの営業マン……葛城稔の働きに」
突然の名指しに、稔は恐縮しつつ、手元のグラスを軽く掲げた。
「過分なお言葉です、陛下。私はただ、王国と帝国の円滑な業務提携のために、ボトルネックとなっていた障害を取り除いただけですので」
「ボトルネック、か。……フッ、面白い男だ。剣も持たず、魔法も使わず、言葉と紙切れと、あのような異形の力で国を動かすとはな」
ゼオンの口元に、ようやく微かな笑みが戻った。
彼は新しいグラスを手に取り、高らかに宣言する。
「いいだろう! アイゼンガルド帝国は、アステリア王国との正式な軍事同盟を締結する! これより我らは、背中を預け合う盟友として――」
その時だった。
バァァァァン!!
大広間の重厚な扉が、礼儀も作法も忘れた勢いで乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、全身を泥と返り血に染めた伝令兵だった。彼は足をもつれさせながら、転がるようにして皇帝の御前へ這い出した。
「へ、陛下ッ!! 申し上げます!! き、緊急事態です!!」
「何事だ! 狼狽えるな!」
ゼオンが一喝するが、伝令兵の震えは止まらない。彼は絶望に染まった瞳で叫んだ。
「ま、魔王軍です! 北門前方に、魔物の大群が出現! すでに……すでに第一防衛ラインが突破されました!!」
「何だと!?」
ガタッ、とゼオンがテーブルを叩く。
ワイングラスが倒れ、深紅の液体が白いテーブルクロスに血のような染みを作った。
「馬鹿な! 北門の守りは鉄壁のはずだ! いかに大軍と言えど、そう容易く破れるものではない!」
「そ、それが……守備隊を簡単に突破されました!まるで、こちらの防衛配置がすべてが筒抜けになっているかのように……!」
その言葉を聞いた瞬間、その場にいた全員の脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。
――大臣ガランド。
「……あの下衆がッ!!」
ゼオンがギリリと歯噛みする。
大臣ガランドが魔王軍に売り渡していたのは、帝国の資金や美術品だけではなかったのだ。
帝都を守る最後の要、守備隊の位置と人数。
彼は保身のために、国の心臓部への「合鍵」を、悪魔たちに渡していたのだ。
「敵の規模は!?」
「およそ三千! 魔王軍の中にはオーガが確認されています!すでに市街地への侵入を許し、被害甚大!!」
オーガ。
その名は、戦場における「破壊」の代名詞だ。単体で城壁を粉砕する怪力と、軍団を統率する知性を併せ持つ、魔王軍でも指折りの武闘派。
「おのれ、ガランド……! 最期まで国に泥を塗り、民を売りおって!」
ゼオンはマントを翻し、壁に立てかけてあった愛用の大剣を掴んだ。
その顔からは、もはや迷いも政治的な駆け引きも消え失せていた。そこにあるのは、自国の民を守ろうとする一人の「武人」の闘志のみ。
「近衛騎士団、総員抜刀! 私が出る! 第二騎士団は市民を中央区へ避難させろ! 奴らをこれ以上、一歩たりとも進ませるな!」
「はっ!!」
怒号と共に動き出す帝国軍。
広間は瞬く間に戦場指揮所へと変わった。
その喧騒の中、フィオナがスッと立ち上がった。彼女の瞳に、迷いはなかった。
「アイリス、稔。あなたたちも行きなさい」
その命令に、アイリスが驚いて振り返る。
「フィオナ様!? しかし、我々は他国の人間です! 帝国の防衛戦にこれ以上介入するのは、外交的にも危険では……」
「同盟はたった今、口頭で成立しました。ならば、友邦の危機を救うのは義務です。それに……」
フィオナは、稔の方を向いて、ニヤリと悪戯っぽく、しかし頼もしく笑った。
「稔。あなたの会社では、トラブル発生時の『迅速な対応』こそが、最大の信頼獲得のチャンスなのでしょう?」
その言葉に、稔はきょとんとした後、苦笑して肩をすくめた。
飲み干したばかりの空のグラスをテーブルに置く。
服の襟を直し、小さく首を回す。筋肉痛の予兆がある身体に、再び気合という名のエンジンを火入れする。
「……おっしゃる通りです、フィオナ様。契約成立直後のトラブル対応(クレーム処理)、ここでの働き次第で、今後の取引条件が劇的に有利になりますからね」
稔の目に、ビジネスマンとしての冷徹な光と、仲間を守るための熱い光が宿る。
彼はアイリスに向かって頷いた。
「行きましょう、アイリスさん。……どうやら今日は、予定外の『徹夜残業』になりそうだ」
アイリスは、稔のその顔を見て、ふっと口元を緩めた。
先ほどの不安そうな表情はもうない。そこにあるのは、信頼するパートナーと共に戦場へ赴く、騎士の顔だ。
「……まったく。あなたといると退屈しないな。わかった。共に戦おう」
シャラッ、とアイリスは槍を握る。
煌びやかな晩餐の夜は終わり、鉄と炎の匂いが立ち込める死闘の幕が開けた。
稔とフィオナは、崩れゆく帝都の北門を目指し、全速力で駆け出した。




