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終止符の疾走 ―確定優位(アブソルート・アドバンテージ)―

「はぁ、はぁ、はぁ……ッ! 動け! もっと速く動かんか、この駄馬がぁ!」


鉄機都市アイゼンガルドのメインストリート。夕闇が迫る石畳の上を、ガランドを乗せた一頭の軍馬が火花を散らして疾走していた。


鞍にしがみついているのは、かつての威厳をかなぐり捨てた大臣だ。


彼の脳内を支配していたのは、恐怖と、それ以上に膨れ上がる歪んだ自己正当化だった。


(なぜだ……なぜワシがこんな目に遭わねばならん! ワシは帝国の柱だぞ!)


風を切る音と共に、彼の目には脂ぎった欲望の記憶が走馬灯のように駆け巡る。


最高級のヴィンテージワインの芳醇な香り。絹のような肌を持つ美女たちの体温。そして、脳髄を痺れさせる魔界の甘美な麻薬。


(あれは報酬だ! 当然の権利だ! 若造のゼオンが剣ばかり振っている間、誰がこの国の経済を回してきたと思っている! ワシの接待と根回しがあったればこそだ!)


「そうだ……逃げ切ればいい。国境を超えれば魔王国の領域だ。黒崎殿に泣きつけば、ワシの知識と人脈は高く売れる。再起できる。いや、むしろ帝国を外から操ってやる……!」


希望が見えた、その時だった。


背後から、蹄の音ではない、もっと異質で、生理的な嫌悪を催す「音」が聞こえた。


バキッ、バキッ、ドォォォン!


石畳を食い荒らし、空気を引き裂く重低音。


ガランドがおそるおそる振り返った瞬間、彼の心臓は氷結した。


「ヒッ……!?」


そこには、牙を剥き出しにした宝箱を頭部に被った「人型の影」が迫っていた。


馬など乗っていない。


影の触手が絡みついた両脚で、建物の壁を、屋根を、そして地面を、重力を無視したデタラメな軌道で跳ね回りながら、軍馬の速度を凌駕する勢いで肉薄してくる。


「逃がしませんよ、大臣殿。……まだ『精算』が済んでいない」


宝箱の口から垂れ下がる生々しい舌が、風になびく。その奥から響く声は、地獄の底から響く取立人のそれだった。


「来るな! 来るなぁぁぁッ!」


ガランドは鞭を振るうが、馬もまた背後のプレッシャーに怯え、泡を吹いている。


商業区のメインストリート。店じまいを始めた商人たちが、暴走する馬と、それを追う黒い雷光に悲鳴を上げて左右に散開する。


「チェックメイトです」


稔が跳んだ。


ビルの壁面を蹴り、弾丸のような速度で馬の側面へと並ぶ。


影の腕が伸び、大臣の襟首を正確に掴んだ。


「降りてください。終点です」


「ギャアアアアッ!」


強引に馬から引きずり下ろされたガランドは、石畳の上を無様に転がった。


高級なシルクの服が裂け、隠し持っていた金貨や宝石がジャラジャラと散らばる。


「く、くそっ……! 近寄るな!」


追い詰められたガランドの視界に、逃げ遅れた一人の少女が入った。パン屋の店先で震えている、看板娘だ。


ガランドは獣のような素早さで少女に駆け寄り、その細い首に腕を回して短剣を突きつけた。


「ひっ……!」


「動くな! この小娘の命が惜しければ、そこから一歩も動くんじゃねぇ!」


最悪の悪手。だが、ガランドにとっては起死回生の一手。


周囲の市民から悲鳴が上がる。


「…… 貴様は甘い! 王国の回し者ならば、民を見捨てることはできまい! ワシに馬を用意しろ! そして国境までの安全を保証せよ!」


唾を飛ばして叫ぶガランド。


その醜悪な姿を見据え、稔はゆっくりと立ち上がった。


兜の奥の表情は見えない。だが、その佇まいは不気味なほどに冷静だった。


「……なるほど。人質交渉ホステージ・ネゴシエーションですか。確かに、私の契約に『民の安全』は含まれています」


「ならば道を空けろ! さっさと失せろ!」


「いいえ。……あなたは一つ勘違いをしている」


稔は懐から、一本のナイフを取り出した。ガランドが隠し持っていた護身用のものではなく、ありふれたペーパーナイフだ。


「ミミック(こいつ)のオプション契約は、『絶対的な優位性の確保』。……運命すらも、私の味方をする」


稔の手首が動いた。


狙いはガランドではない。少女でもない。


彼がナイフを投げたのは、まったくあさっての方向――パン屋の二階、風に揺れる古びた鉄製の看板の支柱だった。


「は……? どこを狙って……」


ガランドが嘲笑を浮かべようとした、その刹那。


カォン!


乾いた金属音が響いた。


投げられたナイフは、錆びついていた看板の留め具に「たまたま」極小の亀裂が入っていた一点に突き刺さった。


その衝撃で、支柱のボルトが弾け飛ぶ。


「――これにて契約完了です」


稔が指を鳴らす。


ガッコン!


「え?」


ガランドが頭上を見上げる暇もなかった。


重量のある鉄製の巨大看板『焼きたてパン・王様の耳』が、まるで計ったかのように垂直に落下し、大臣の脳天を直撃したのだ。


「ぐべぇッ!?」


凄まじい轟音と共に、ガランドの身体は看板の下敷きになり、石畳にめり込んだ。


奇跡的と言うべきか、人質の少女は、看板の枠の隙間にすっぽりと収まり、傷一つなく呆然と立ち尽くしている。


砂煙が晴れると、そこには白目を剥いてピクリとも動かないガランドと、その横で「無傷」で解放された少女の姿があった。


「……ふぅ。少々手荒な決済になりましたが、これで完済です」


稔の頭部を覆っていたミミックの兜が、黒い霧となって霧散する。


現れたその顔は、滝のような汗を流し、顔色は蒼白だった。


ミミックによる身体強化と運命操作。その反動コストは、中年男性の肉体に強烈な「請求書」として跳ね返ってきていた。


(……あー、これ明日は絶対筋肉痛だ。いや、肉離れ確定だな……労災降りるかな、これ)


稔はふらつく足取りで少女に歩み寄ると、営業用スマイルを浮かべて膝をついた。


「お嬢さん。驚かせてすみません。……このパン屋のクロワッサン、美味しいと評判なんですよね? 一ついただけますか?」


恐怖で固まっていた少女の瞳に、ようやく光が戻る。


その光景を見ていた市民たちから、やがて割れんばかりの歓声が沸き起こった。


帝国の夕暮れ。


鋼鉄の街に響くその歓声は、長きにわたる腐敗の終わりと、新しい時代の幕開けを告げるファンファーレのようだった。

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