食われる者、戴冠する者
意識が戻ったとき、最初に感じたのは耐え難い背中の痛みだった。
「……っ、痛つつ……なんだ、また接待で飲み潰れて駅のベンチか……?」
葛城稔は、呻き声を上げながら体を起こそうとした。三十八歳。中堅精密機器メーカーの営業マン。連日の残業と、理不尽なクライアントへの謝罪行脚で、肉体は慢性的な疲労に蝕まれている。昨夜も確か、接待ゴルフの後に三次会まで付き合わされ、終電を逃したはずだった。
だが、目を開けた稔の視界に飛び込んできたのは、見慣れた駅のホームの天井でも、自宅の安アパートの壁紙でもなかった。
岩だった。
それも、湿気を帯び、苔とカビが張り付いた、ゴツゴツとした天然の岩肌が、薄暗い視界を覆い尽くしていた。
「……は?」
思考が停止する。肌にまとわりつく空気は冷たく、淀んでいる。鼻をつくのは、錆びた鉄と、何かが腐ったような生臭い臭気。遠くから、ポタ、ポタ、と水滴が落ちる音が反響して聞こえる。
稔は慌てて自身の体を確認した。ヨレヨレになった青山のスーツ。擦り切れた革靴。首元を締め付ける安物のネクタイ。間違いなく、いつもの「営業用の自分」だ。しかし、置かれている状況が決定的に違っていた。
「ここは、どこだ? 俺は誘拐でもされたのか?」
立ち上がろうとして、足がもつれた。地面は舗装などされておらず、ぬかるんだ土と尖った石ころだらけだ。革靴の底が滑り、無様に尻餅をつく。スーツの尻が泥水に濡れる冷たい感触に、現実感が急速に押し寄せてきた。
夢ではない。ここは、どう見ても自然の洞窟の中だ。それも、観光地化された鍾乳洞のような生易しいものではない。生物の気配が濃厚に漂う、未開の闇。
稔は慎重に立ち上がり、スマートフォンのライトを点けようとポケットを探った。ない。財布も、名刺入れも、何一つない。あるのは、この疲れ切った中年男の肉体だけだ。
「まさか……異世界、ってやつか?」
若手社員が休憩時間によく話していたアニメの話題が、脳裏をよぎる。だが、すぐに否定した。そんな馬鹿な話があるわけがない。これは何かの犯罪に巻き込まれたか、あるいは現実逃避が見せるあまりにリアルな悪夢だ。そう自分に言い聞かせ、出口を探して歩き出した。
どれほど歩いただろうか。腕時計もないため、時間の感覚が曖昧になっていく。空腹と喉の渇きが、じわじわと体力を削り取っていく。
その時だった。薄暗い洞窟の奥に、不自然な「何か」
が見えたのは。
稔は目を凝らした。それは、岩壁のくぼみに鎮座していた。
木製で、縁が黒い鉄で補強された、アンティーク調の箱。大きさは、人間一人が入れるほどだろうか。ファンタジーRPGに出てくる「宝箱」そのものだった。
「……宝箱、か?」
三十八年の人生経験が、警鐘を鳴らす。こんな場所に、あからさまな宝箱が置いてあるはずがない。罠だ。絶対に近づいてはいけない。営業マンとしての危機管理能力がそう叫んでいた。
だが、それとは裏腹に、極限状態に置かれた人間の生存本能が、彼をそちらへと突き動かした。もしかしたら、中には水や食料が入っているかもしれない。あるいは、この状況を打開する何かが。
稔はスーツの袖口で額の脂汗を拭い、慎重に、一歩ずつ宝箱へと近づいていった。周囲を警戒し、石を投げて反応を見る。何も起きない。
(大丈夫だ。慎重にいけば……)
彼は息を呑み、宝箱の前に屈み込んだ。鍵はかかっていないようだ。重厚な蓋の縁に手をかけ、ゆっくりと持ち上げる。
ギィィ、と錆びついた蝶番が悲鳴のような音を立てた。
その瞬間、稔の視界が暗転した。
「え――?」
中身を確認する暇などなかった。蓋が開いたと思った次の瞬間、箱の中から「何か」が爆発的な勢いで飛び出し、稔の顔面に食らいついたのだ。
「がっ、ごぼぉッ!?」
悲鳴すら上げられなかった。顔面を覆い尽くす、生温かく、ぬめり気のある肉の感触。腐った肉と強酸が混じり合ったような猛烈な悪臭が鼻腔を突き抜け、肺を焼く。
それは宝箱ではなかった。宝箱の形に擬態した、捕食者――「ミミック」だった。
ミミックの口腔内には無数の鋭利な牙が渦を巻いており、それが稔の顔面の皮膚を、肉を、容赦なく食い千切ろうとしていた。
「んぐ、ぐぅぅぅッ!」
痛い。熱い。喰われる。死ぬ。
三十八年、会社のために神経をすり減らし、頭を下げ続けてきた人生の最期が、こんな薄暗い洞窟で、わけのわからない化け物の餌になることなのか。
冗談じゃない。
ふざけるな。
俺まだ、結婚もしてないんだぞ。
死への根源的な恐怖が、理性を焼き切った。稔は無我夢中で抵抗した。スーツの袖が引きちぎれるのも構わず、両手をミミックの「口」の中に突っ込み、自分を飲み込もうとするその喉奥を、逆に
掴みかかった。
ぬるりとした感触の奥に、硬い、核のようなものがあった。
(これか、こいつの急所は……!)
稔は残った力のすべてを込め、その核に爪を立て、獣のように食らいついた。ミミックが苦悶に身をよじる。消化液が逆流し、稔の喉を焼く。だが、彼は離さなかった。喰われる前に、喰い殺す。その一心だった。
ブチリ、と何かが千切れる音が、頭蓋骨の中で響いた。
その瞬間、ミミックの動きが止まった。それと同時に、稔の体の中に、ドス黒い奔流が逆流してきた。ミミックの生命力、あるいは呪いそのものが、稔の肉体を侵食していく。
視界が明滅する。全身の血管が沸騰するような熱さ。筋肉が引きちぎれるほどの激痛。
「あ、が、あぁぁぁぁぁッ!」
絶叫が洞窟に木霊した。
稔の意識は、そこで一度、途切れた。
***************
次に目を覚ましたとき、奇妙な感覚があった。
痛みは引いていた。代わりに、頭がひどく重い。まるで鉛の兜を被っているようだ。
稔はゆっくりと手を頭にやった。指先に触れたのは、自分の髪でも皮膚でもなく、冷たく硬い木の感触と、冷ややかな鉄の縁取りだった。
「な、んだ……これ……?」
慌てて頭を振るが、それは外れない。まるで頭蓋骨と一体化してしまったかのように、完全に張り付いている。
彼は恐る恐る、自分の頭の「蓋」を開けてみた。パカリ、と口が開くように蓋が開く。視界が広がる。
稔は理解した。自分が、あのミミックを、まるで兜のように被っているのだど。あの宝箱が、今や自分の頭部そのものになっているのだと。
「嘘だろ……こんなの、あんまりじゃないか……」
中年サラリーマンが異世界転生したら、頭が宝箱になっていた。笑えない冗談だ。
だが、感傷に浸る時間は与えられなかった。
ギャギャッ、ギギィッ!
耳障りな鳴き声が、洞窟の奥から響いてきた。先ほどの稔の絶叫を聞きつけたのだろう。暗闇から、小柄だが筋肉質な影がいくつも現れた。
緑色の肌。醜悪な顔つき。手に持った粗末な錆びた剣や槍。
ゴブリンだ。それも、十匹はいる。
彼らは頭部が奇妙な形をした稔を見ると、獲物を見つけた喜びに歪んだ笑みを浮かべ、一斉に襲いかかってきた。
「くそっ、やっぱりそういう世界かよ!」
逃げ場はない。戦うしかない。だが、営業職の自分に何ができる?
死の恐怖が再び稔を支配しようとしたその時、頭部の「箱」が勝手に反応した。
ガキンッ!
意思とは無関係に、宝箱の蓋が強く閉じられた。視界が狭まる代わりに、頭部が強固な装甲で覆われる。
そして、体の中から、自分のものではない、爆発的な力が湧き上がってくるのを感じた。
(なんだ、この力は……!?)
先頭のゴブリンが錆びた剣を振り下ろしてくる。稔は反射的に、それを避けようと体を捻った。
その動きは、三十八歳の中年男性のものではなかった。目にも止まらぬ速さで剣撃を回避すると、稔はそのままの勢いで、スーツ姿の拳をゴブリンの顔面に叩き込んだ。
ドゴォォォンッ!
まるでダンプカーが衝突したような衝撃音が響いた。ゴブリンの顔面が陥没し、その体はボールのように吹き飛んで、後続の三匹を巻き込んで岩壁に激突した。
「え……?」
自分の拳を見つめる稔。だが、その直後、凄まじい激痛が右腕を襲った。
「ぐ、あぁぁぁッ!?」
腕の骨がきしむ音が聞こえた。ミミックの力が、人間の肉体の限界を遥かに超えていたのだ。一撃放っただけで、右腕の筋肉は断裂寸前だった。
(馬鹿な、こんな力、使い物にならない……!)
残りのゴブリンたちが、ひるみながらも槍を構えて包囲してくる。力任せに戦えば、敵を倒す前に自分の体が壊れる。
一匹が背後から槍を突き出してきた。反応が遅れた。
(しまっ――!)
稔はバランスを崩し、ぬかるんだ地面に足を取られた。無様な体勢で転倒する。
だが、その「偶然の転倒」が、奇跡を起こした。
突き出された槍は、倒れ込んだ稔の頭上を虚しく通過し、あろうことことか、その向こう側にいた別のゴブリンの喉を正確に貫いたのだ。
「ギャッ!?」
「ギィィ!?」
同士討ちに混乱するゴブリンたち。稔はその隙を見逃さなかった。痛む右腕をかばいながら、左手で近くにあった手頃な岩を掴み、一番近くにいたゴブリンの頭蓋骨を砕く。
「ぜぇ、はぁ……! どけ、どけぇぇッ!」
ミミックの力による身体強化と、自分でも信じられないような「幸運」。その二つが、死地における唯一の武器だった。
槍が体に触れる寸前で石につまずいて逸れる。敵が足を滑らせて勝手に転ぶ。天井から鍾乳石が落ちてきて敵を圧死させる。
泥無双だった。格好良さのかけらもない、必死の足掻き。
稔は体中から悲鳴を上げる筋肉を無視し、なりふり構わずゴブリンの群れを突破した。
ようやく、前方に微かな光が見えた。出口だ。
稔は最後の力を振り絞り、光の中へと飛び込んだ。
まばゆい陽光が視界を焼く。新鮮な空気。鳥のさえずり。
そこは、鬱蒼とした森の中だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ、助かっ、た……?」
安全を確認すると、極限の緊張が解け、稔はその場に崩れ落ちた。
頭部の「箱」の蓋が、パカリと自動的に開く。途端に、ミミックの力が体から抜け、代わりに全身を襲う凄まじい筋肉痛と倦怠感に、稔は呻き声を上げた。
「ぐ、うぅ……体中が、バラバラになりそうだ……」
スーツは泥とゴブリンの返り血で赤黒く汚れ、ところどころ裂けている。革靴は片方脱げていた。そして何より、自分の頭には、呪われた宝箱が張り付いている。
三十八歳、元営業マン。異世界での初日は、最悪のスタートだった。
稔は震える手で、痛む腰をさすりながら、見知らぬ異世界の空を見上げた。
「……明日から、どうすりゃいいんだよ、これ……」
その問いに答える者は誰もいない。ただ、森の奥から、新たな魔物の咆哮が微かに聞こえてきただけだった。




