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契約結婚の旦那様、置き去りにしてくれてありがとう

作者: 悠木 源基

 どうでもいい話なのですが、今日は令和7年7月7日。7が三つ並んでいる。30年ぶりだそうですね。

 そして作者も今日が誕生日です。あいにく、7の3並びではないのですが。

 せっかくの誕生日。しかも珍しくお日様が出ている貴重な誕生日なので、自分の記念に短編を投稿します。

 

 先月夕方のテレビで、パスポートを失くした外国人の女性が、夫や友人に置いてきぼりにされて、言葉の通じない日本で一人困っていたニュースを見て思い付いた話です。

 いくら飛行機のチケット代がもったいないからって、妻一人外国に置いて帰国するか?とかなり驚いたので。


 読んでもらえたら嬉しいです。


「カーリラ、私は先に国に帰る。仕事で人に会う予定になっているからな」

 

 夫であるクリプトの言葉に、私は「はあ?」と声を上げた。

 信じられなかった。異国に私一人を残して帰るなんて。しかも、通行手形のない私をよ。見つからなかったら帰国できないし、警邏に職務質問されたら即アウト。留置場行きよ。

 しかもこの国には知り合いもいないのだから、当然身元引受人なんていない。

 つまり、自国へ戻れない。それを分かっていて妻一人を置き去りにしようというの?

 

 そもそも私の通行手形を失くしたのは夫だった。失くすと大変だからといって、私の手から無理やりに取り上げたのだ。

 そのくせに、私の分だけ失くすなんて信じられないわ。意図的にやったと考える方が自然なくらいよ。

 

 いつも役に立たない、能無し、愚図、不細工と私を散々貶めてきた夫だったけれど、これまで離婚しようとしなかったのは契約結婚だったからだ。

 でもそういえばちょうど今月、その契約の三年だったわ。

 

 それを思い出して、やっぱり私と別れたくて意図的に私の通行手形を捨てたのだなと私は解釈し、納得した。

 私が隣国で行方不明、または不法滞在で逮捕されて罪人となったら、不妊だけでなく堂々と正当な理由で離縁できるものね。

 外で囲っている真実の愛の相手がどうやらおめでたらしいし、早く離縁したかったのね。

 

 それにしてもなんて卑怯で残忍な男なのだろう。こんな異国で私を切り捨てるなんて。

 こっちこそこんな男とは縁切りしてやるわ。信じていなかったみたいだけれど、最初から契約はきちんと守ると言ってあったのに。本当に恨めしいわ。

 でも、感情的になっては向こうの思う壺。冷静にならなくては。

 こうなったらこの国でなんとか生き延びていかなきゃいけないのだから。

 

「わかりました。通行手形は自分一人で探します。貴方はお仕事があるのだから、先にお帰りください。

 ですが、お金は多めに置いて行ってくださいね。

 もちろんこの国滞在中に贅沢をするつもりはありません。安宿に移るつもりですが、探し出すまでどれだけの時間がかかるか見当もつかないので」

 

 私はお付きの者達にもよく聞こえるように大きめな声でそう言った。

 まさか、使用人の前でお金をケチるなんてみっともない真似はしませんよね? 見栄っ張りな貴方のことですから。

 案の定半月ほどは暮らせそうなお金を私に手渡すと、無駄遣いはするなと嫌味を言って、お付きの者と護衛を引き連れて国へ戻って行った。

 護衛は二人いるのだから、普通の夫なら妻のために一人は残すだろうに。全く人の心を持たない男だった。

 護衛の方の方が申し訳なさそうにしていた。そして、護身用にしてくださいと小刀を手渡してくれたことに、感謝で涙が溢れたわ。

 

 夫の後を追うように、私はそこそこ高級な部類の宿を出た。

 そして真っ先に向かったのは安宿ではなく、昨日夫と共に訪れた商会だった。

 

「これはハードン伯爵夫人。どうなさったのですか、お一人で。契約書に何か不備がございましたか?」

 

「滅相もないですわ。

 昨日は良いお取り引きをしていただき感謝しております。今日は仕事とは別のことで伺いました。

 大きな声では申し上げられませんが、こちらに私どもが忘れ物をしていなかったか、それを確認したくて参りました」

 

「どのような忘れ物でしょうか?」

 

 支配人の和やかな笑みに、やっぱりここじゃなかったわね、と私は悟った。

 まあ、最初から分かっていたけれど。

 昨日、私達夫婦はこの商会で一つの大きな契約を結んだが、その後は別行動となった。

 付き人にこっそりと聞き出したところ、夫が訪れたという場所は三カ所だったみたいだけれど、女が独りで確かめに行ける場所ではなかった。

 だから無駄だとわかっていながらもここに来たのだ。もしかしたらと微かな希望を抱いて。

 でも、もしここに通行手形を忘れていったとしたら、きっとホテルまで届けて下さったはずよね。

 これまで何度か交渉の場に立ち会ったけれど、こちらの主であるボルズルド伯爵がとても誠実な人柄だということはわかっていたから。

 それでも確かめずにはいられなかった。ここでなかったのなら、おそらく二度と通行手形は戻ってはこないだろうとわかっていたから。

 

 警邏隊の本部へ通行手形紛失の届け出をしなければならないわ。悪用される恐れがあるもの。

 意図的に夫が捨てたのではなかったとしたら、きっと昨日夫が出かけた遊興場で盗まれたに違いないから。この国から逃げ出したい女性の中の一人に。

 そんな場所に貴重品を持って行くなんてなんて不用心なのかしら。ズボラ、非常識、能天気、いや、何も考えていない馬鹿なのだろう。

 

 通行手形の不携帯がわかればどうせ捕まるのだから、自ら出向いた方が少しは心象が良いでしょう。

 

 ようやくそう決意した私は、支配人に頭を下げて出て行こうとした。

 しかし、彼に引き留められて事情を説明することになった。

 そして話し終えると、支配人を始めとして使用人の皆さんまで怒りで顔を真っ赤にしていた。特に女性の方が。

 大切な通行手形を治安の悪い遊興場に持ち込んで抜き取られた挙句に、それを自ら探したり、届けを出したりもせず、妻一人置いて帰国するなんて! なんていう夫なの! いや、男としてというより、人間としてクズでしょう。

 しかも護衛も残さないなんて鬼畜のような所業だわ、と。

 

 ハードン伯爵家では私が夫にどんな理不尽な目に遭わされても、執事やメイド長を始めとする使用人達は、それが当然かのような顔をして、助けてくれる者なんていなかった。

 それなのに、ここの皆さんはなんて優しい人達なのだろう。

 名前ばかりの妻で、その実無報酬の使用人である私。同じ無報酬ならば、せめてこんな温かな職場で働きたいわ。

 たしか、職員を募集している話を昨日していたけれど、さすがに通行手形をなくした犯罪人を雇ってはくれないわよね。

 

 そんなことをぼんやり考えているうちに、なんと商会長であるボルズルド伯爵が現れた。

 

「ハードン伯爵夫人、話は支配人のラッスルから聞きましたよ。

 これから警邏隊の本部へ通行手形の紛失届け出を出しに行くのでしょう?

 それなら私も同行しますよ」

 

 その言葉に私は目を見張った。世の中にはこんな親切な人がいるのかと驚愕した。

 しかし、その言葉に甘んじるわけにはいかない。目の前の人物が超多忙な方だということをよく知っているからだ。

 

「お気持ちは嬉しいですが、ボルズルド伯爵様の貴重なお時間を私のような者のために奪う訳にはいきませんわ」

 

「貴女のような方のために私の時間を使えるのなら、とても光栄ですよ」

 

「はあ?」

 

「私がご一緒して貴女の身分を保証すれば、新たな通行手形もすぐに再発行されると思います。

 これでも私はこの国ではある程度の信頼を得ているのですよ」

 

「それはもちろん存じておりますが。本当によろしいのですか」

 

 ボルズルド伯爵はこの国の公爵家のご出身で、お母様のご実家の養子に入って当主になられた方だ。しかも国王陛下の従兄弟に当たり、王族の血筋を引く尊い方なのだ。

 それでいて偉ぶったところのない、気さくで穏やかな性格の聖人君子である。

 ここまで言ってもらって断るのも失礼にあたると、私は素直にお願いすることにした。

 

 警邏(けいら)隊の隊長だけでなく役所の所長も、通行手形を紛失した経緯を説明すると、酷く呆れ、私に同情してくれた。

 この国では女性に敬意を払い、大切にする。それ故に、妻に護衛も付けずに他国に置き去りにするなど、信じられない行為であるらしい。

 まあ母国でもそうなのだろうとは思うが、私の周りの人間ならこの行為も許容範囲のような気がするわ。

 

 とは言え、今後夫クリプト=ハードンはこの国においては野蛮人として認識されることだろう。

 まあ、批判され、軽蔑されても言葉がわからないから気にしないかもしれないけれど。

 

 ボルズルド伯爵のおかげで、すぐさま通行手形を再発行してもらうことができた。

 お礼に食事をお誘いしたら、逆にご自宅に誘われてしまった。

 

 直ぐに帰国するのかと訊ねられて、帰る気はないと言ってしまったからだ。それなら我が家で働きませんか? と。

 求人募集は商会ではなかったのですかと訊ねると、もちろんそちらも募集しているが、それよりも先ず娘さんの家庭教師探しの方が緊急の問題なのだという。

 

「まだ七つだというのに気難しい性格で、すぐに教師をクビにしてしまうので困っているのですよ。今日食事を共にして相性を確認したいのです。

 もちろん、娘との相性が悪ければ商会の方で働いてもらえればと思います。そちらの方は問題がないので。

 貴女のように多国語が話せて、商売に慣れた方に働いてもらえたら、他の使用人も喜ぶと思いますし」

 

 その言葉に私は絶句した。何故そんなに私が過大評価されているのかがわからなかった。

 たしかにボルズルド商会との付き合いは、結婚直後からだったから、すでに三年は経っているけれど。

 

「三年前の飢饉の時、貴女に助けて頂きました。その恩を私だけでなく、この国も忘れていません。

 ですから通行手形もすぐに再発行されたでしょう? 貴女も覚悟をしていたようですが、他国で通行手形をなくすことは、ある意味死刑宣告を受けるようなものですよ。

 どこの国の人間なのか、どうやって入国できたのか分からない以上、スパイだと疑われても仕方ないですからね。

 でも、貴女はカーリラ=ハードンです。それさえ証明されれば疑われることはないのです」

 

「どう言う意味でしょうか?」

 

「三年前に何十年かぶりの自然災害が起こり、通常なら流通させられないような規格外の農産物を、貴女の判断で八割の値段で買い取って頂いたことがありましたよね。そのおかげで、我が国の農家は生き延びることができたのです。

 貴女には感謝しかありません」

 

 馬車の中で私の正面に座っていたボルズルド伯爵が侍従の方と共に頭を下げられたので、私は慌ててしまった。

 

「私は当然のことをしたまでですわ。こちらの国の農家の皆様が廃業されてしまったら、困るのは我が国も同じですもの。

 多少規格外であっても味も栄養分も変わらないのに処分するなんてとんでもないことですわ」

 

 本当はただ同然で買取ろうとした夫に逆らって、私が勝手に契約をしたのだが。

 そのせいでその後、夫や使用人達からの冷遇を受けるようになったわけだが、そのときの決断は未だに後悔も反省もしていない。

 

「それだけではありません。貴国に留学していた我が従兄弟が、緊急事態で帰国しなくてはならなくなったとき、大雨の中、貴女は自ら渡し船を動かして国境の川を越えて下さったでしょう。

 そのおかげで彼は母親の死に目に間に合うことができたのです。

 彼は末っ子で母親の王妃に溺愛されていました。ですから、最後の別れができたことを貴女に深く感謝していました。

 手紙を出したそうですが、返信がなくて心配していましたよ」

 

 ボルズルド伯爵の言葉に私も嬉しくなった。そうか。殿下はお母様とお話ができたのか。良かった。

 それに今気付いたけれど、母国から殿下を迎えに来たと言っていた青年は見事な金髪で、茶髪の殿下よりも王子様に見えたことを覚えている。

 もしかしてあの時の方は、今目の前にいるボルズルド伯爵だったのかしら。見事な金髪で深い青色の瞳をしているし。


 当時私は学院を卒業したばかりでちょうど領地にいたのよね。でもその後間もなくしてハードン伯爵家に嫁いだので、その後日談は知らなかった。

 殿下から頂いた手紙は私には届かなかった。実家が処分したのだろう。いつもそうだったから。全く不敬だわ。

 

「手違いがあったのかもしれません。私は殿下の手紙を受け取っておりませんでした。お返事できずに本当に失礼なことをしてしまいました。

 図々しいお願いですが、私が謝罪していたことをお会いした際にお伝え下さるとありがたいのですが」

 

 そう言うと、伯爵からはご自分でお伝え下さいと、とんでもないことを言われてしまった。

 手紙を書けということかしら? これから庶民になると思うのだけれど、庶民の手紙が王族に届くものなのかしら? おもわず首を捻ってしまった。すると

 

「差出人の名が貴女のものだったなら、手紙はきちんと殿下に届きますよ」

 

 と、先ほどと似たような摩訶不思議なことを言われてしまった。

 

 そんなやり取りをしているうちに、馬車はボルズルド伯爵の館に到着した。

 まるで城のように大きな建物に驚愕した。しかし、そこが元は王家の離宮だったと言われて納得した。

 大きな扉が開いて中へ入ると、すぐに一人の少女が現れた。銀髪に緑色の瞳をしている。七歳くらいだからボルズルド伯爵令嬢に間違いないわね。


 彼女の名前はミラージュ=ボルズルド。

 父親である伯爵とは色合いは違っているが、顔立ちはよく似ていて、とても愛らしい少女だった。

 しかし、その目は少し勝ち気で、私を見て値踏みするように全身を見回していた。

 

「貴女が私の新しい先生なの? 本当に私の知らないことをちゃんと教えてくれるのかしら?」

 

「ミラージュ、お客様に向かってなんて失礼なことを言うのだ。謝りなさい」

 

 少し後から現れた父親に叱られて、少女はしまった!という顔をした。これまで、そんな家庭教師に対する態度を父親には見せてこなかったのだろう。

 

「ごめんなさい」

 

 彼女は嫌々というようにそう言った。

 

「そんな不貞腐れたような顔をして謝っても、何の意味もありませんよ。

 心のこもった謝罪でなければ、余計に相手を怒らせてしまうだけですよ」

 

 私がそう言うと、父と娘は驚いた顔で私を見た。まさか、子供相手にそう返すとは思わなかったようだ。

 すると彼女は泣きそうな顔をしてもう一度謝った。だから、私は笑ってこう答えた。その謝罪を受け取りますと。

 

 その後ボルズルド伯爵はご令嬢、そして執事やメイド長に私のことを紹介し、私のために客室を準備するように命じた。

 それから、夕食には戻るからゆっくりしていて下さいと言って、彼は仕事に戻って行った。

 

 ミラージュちゃんと一緒にランチを取った後、本の読み聞かせをし、お人形や積み木で遊んでいるうちに、すっかり彼女と仲良くなった。

 彼女はかなり頭の良い子で、好奇心がかなり旺盛であることがすぐにわかった。

 それなのにやることなすこと全て、周りの人間が心配して止めてしまうために、彼女はストレスを溜め込んでいるのだと思った。


 ミラージュちゃんの亡くなったお母様は体の弱い方だったらしく、彼女を産んだ一年後に亡くなってしまったのだという。そのせいで周りが神経質になっているようだった。

 彼女達の気持ちはわかるけれど、心配だからといって、彼女の一挙手一投足に手や口を出してやらせないのはどうかと思うわ。

 しかも人として間違ったことを注意もせず、ただ甘やかすなんて、彼女のためにはならないし。

 彼女は私の注意を素直に受け入れた。彼女はきちんと叱って欲しかったのではないかしら。それが自分のためだとわかるから。

 

 夕方になってボルズルド伯爵が帰宅した。それがいつもよりかなり早い時間だったらしく、ミラージュちゃんはとてもはしゃいでいた。

 やっぱり寂しかったのね。

 

 楽しく話をしながら食事をしている娘を見て、伯爵様は目を丸くしていた。

 これまでは家庭教師と食卓を囲むのを嫌っていたからだという。

 ああ。伯爵様に媚を売る様子を見せられて、ミラージュちゃんは嫌な気持ちになっていたのだろう。人の心の機微に敏感のようだから。

 娘に気に入られれば、もしや……という彼女達の下心が見え見えだったのかもしれない。

 

 珍しくはしゃいで疲れたのだろう。ミラージュちゃんは食事が終わるとすぐにウトウトし始めてしまった。

 その後、私と伯爵は食後のお茶を飲みながら、ゆっくりと話をした。

 

「今日は本当にお世話になりました。伯爵様のおかげで監獄行きを免れましたわ。

 しかも、こうしてお屋敷に招いていただき、ミラージュちゃんと楽しい時間を過ごすことができて本当に夢のようでした。どう感謝していいのか分かりません」

 

「こちらこそありがとうございました。娘が私以外の誰かにこんなに懐くなんて初めてのことで、本当に驚きました。

 えっと、プライベートのことを訊ねるのは失礼だとは思うのですが、子供をお好きなように見えますがいらっしゃらないのですか?」

 

 聞きづらそうな伯爵にこう聞かれて、私は何でもないように答えた。

 

「子供は好きですが、持つことはできませんでした。私達は仮面夫婦で、他人同士でしたから」

 

 伯爵は瞠目した。

 

「夫には元々愛する人がいたのです。しかし、平民と結婚するなら後継者から外すと両親に言われて、仕方なくお飾りになる妻を探したのです。

 それで目を付けられたのが私でした。我が家は金策に走っていましたから、困窮しているのが丸わかりだったのでしょう。

 しかも前妻の娘である私が両親から蔑ろにされていることが耳に入ったのでしょう。

 支援するからといって、政略結婚の話を持ち掛けてきたのです。まあ、この国へと続く街道の通行料を安くしてもらえるかもしれないという、そんな腹積もりもあったでしょうし。

 

 実家は国境となる川に架かる橋の補修工事費の捻出に頭を悩ませていたので、あっさりとこの結婚を受け入れたのです。

 でも、結婚して三年経っても子供ができないと離婚が可能になります。夫は最初からこれを狙っていたので、彼から援助をしてもらえるのも三年だけだったのですが」

 

「ご実家の領地の立地を考えると、娘を政略結婚させなくても、いくらでも収入を増やせそうですが」

 

「さすがですね、伯爵様。その通りです。

 でも両親は領地経営が苦手でしたの。

 私も色々と新しい事業の提案や対策案を進言したのですが、生意気なことを言うなと両親や弟に一蹴されてしまいました」

 

 そう。実家の領地は交通の要所であった。王都だけでなく隣国とも。

 確かに二方向を川にはさまれているために、橋や渡し船の維持にお金は掛かったが、対岸の国や他の領地と上手く交渉すれば、負担はかなり軽減できたのではないかと思う。

 

「貴女を嫁がせた後、ご両親は後悔されたのではないですか? ハードン伯爵家の今の繁栄ぶりには目を見張りますから」

 

「私の力だとは誰も思っていないでしょうから、夫だけでなく両親も何とも思っていないでしょう」

 

 私が苦笑いしながらこう言うと、ボルズルド伯爵は大袈裟に驚いたようなジェスチャーをした。

 

「ああ、こう言っては大変失礼ですが、貴女の周りは愚か者ばかりだったのですね。

 その中でも、多大な恩恵を受けていながら、妻の功績に気付いていなかった夫が一番愚昧ですがね。

 貴女はこれからどうなさるのですか。通行手形は再発行されたので、帰国なさるのですか?」

 

「いいえ。帰国するつもりはありません。

 通行手形の無い妻を置き去りにして帰国したということは、夫は私を切り捨てるつもりだったのでしょうから、戻る意味がありませんわ。

 そもそも間もなく結婚して三年になり、契約期間を過ぎるので、どのみち離縁するつもりだったので」

 

「しかし、貴女がいなくなって、初めて貴女の価値に気付いて迎えに来るかもしれませんよ」

 

 ボルズルド伯爵が、そんなあり得ない話をするので私は笑ってしまった。


 

「そんなことがあるわけがないじゃないですか。夫の愛する人に子供ができたのです。

 三年経っても子供ができない妻とは離縁が簡単にできるのです。

 愛人とは離縁後にできたといえば、世間体も保てます。出生日なんていくらでも誤魔化せますからね。

 それなのに今さら能無し役立たずの私を必要とするはずがありません。

 実のところ、今回の出張は、他国でこっそりと邪魔な私を始末するためのものではないのかとヒヤヒヤしていたのです。

 まあ、この置き去りもある意味似たようなものでしょう? こうしてボルズルド伯爵のおかげで命拾いはしましたが。


 ですからいつまでもあの男の妻でいるのも嫌なので、私の方からさっさと離縁するつもりです。

 あの男は初夜に私の前に離縁届を突き付けて、これにサインしろと命じたのです。後になって自分に惚れて別れたくないとごねられると迷惑だからと言って。

 あまりの図々しさと自惚れの強さに呆れて言葉も出ませんでしたわ。

 金にものを言わせて結婚を迫り、利用するだけ利用して三年後に離縁しようとしている夫なんて、憎むことはあっても愛するわけがないでしょうに。

 

 書き損じた時用にと、夫の名前が既に記載されていた二枚の離縁届の用紙に、私は躊躇うことなく名前を書き込みました。そしてそのうちの一枚をさっと取り上げて

 

「こちらは私が持っています。貴方の方の気が変わった時に私から提出できるように」

 

 と言ってやったのです。

 すると、夫は馬鹿にした顔をして

 

「おとなしそうな顔をしていて案外負けず嫌いなんだな。いつかは私がお前に惹かれると思っているのか。

 ふん。そんな訳がないだろう。でも、そう信じたいのならお守り代わりに持っていればいいさ」


 と言っていましたわ」


 私はその時からずっと肌身離さず持ち歩いていた離縁届をポシェットから取り出して、それをボルズルド伯爵に見せた。

 すると、なぜか伯爵はとても嬉しそうに微笑みながら、その紙を見つめた。

 そしてなんと信じられないことを口にした。

 

「私の商会で来週隣国へ行く予定がありますので、この届けを代理で役所へ提出してきてあげますよ。

 郵送では時たま届かない場合もありますからね。心配しなくてもきちんと受取書をもらってきますからね」

 

 彼はそう言って、有無も言わせずにテーブルの上に置いていたその離縁届を取り上げた。

 

「えっ?」

 

「ハードン伯爵夫人、いえ、カーリラ嬢と呼んでもいいですよね?

 私のこともルーベンスと呼んでください」

 

「はい?」

 

「優秀な貴女を手放すなんて、ハードン伯爵は本当に信じられない馬鹿ですよね。私なら絶対に放しませんよ。

 あの男に先を越されましたが、私の方が先に貴女を見つけ、ずっと思い続けてきたのですからね。

 もちろん、これまで三年以上待っていたのですから、急ぐつもりはありません。

 ですから、これからゆっくり私を知っていてください。

 ここで暮らして、ミラージュの家庭教師をしながら」

 

 怒涛のボルズルド伯爵の告白に私は面食らって、呆然とした。

 しかし、私はすぐに冷静さを取り戻すと、にっこりと微笑んで、伯爵にこう告げたのだった。

 

「お気持ちはありがたいのですが、ミラージュちゃんの家庭教師の件はお断りします。

 伯爵には私のことよりも、今はミラージュちゃんのために時間を取ってもらいたいので」

 

 

 

 ✽✽✽✽✽

 

 

 

 その後私はクリプトと正式に離縁することができた。

 そして私は今ボルズルド商会でバリバリ働いている。

 そして、平日は商会近くの職員寮で暮らし、週末になるとボルズルド伯爵邸に泊まりに行き、ミラージュちゃんと楽しい一時を過ごしている。

 今では彼女からリラママと呼ばれている。

 今日も子供も参加しているガーデンパーティー会場で、ミラージュは大声で何度も私をそう呼んだ。

 

「私のママになる人はリラママしかいないと分からせてやらなきゃ」

 

 彼女が言うには、父親に色目を使う女性を排除するためだという。

 

「ミラージュもああ言っているし、そろそろ結婚しようよ。ほら、最近なんだかんだ煩わしい連中が隣国で騒いでいて、いつこちらにやって来るかわからないだろう?

 さっさと結婚してしまえば断りやすいだろう?

 愛しているよ、カーリラ」

 

 ムードもへったくれもないけれど、ルーベンスにこう言われて私も頷いた。そして

 

「ええ、そうね、ルーベンス。私も貴方やミラージュと早く本当の家族になりたいわ。貴方を心から愛しているから」

 

 そう言うと、ルーベンスは精悍なその顔を綻ばせると、娘や人前だというのに、私を思い切り抱き締めたのだった。

 



 **********

 



 クリプトが私と離縁していることに気付いたのは、帰国してから三か月後くらいだったらしい。驚愕した彼は離縁の無効を訴えたが、届けは正式のものだったので門前払いをされたという。

 

 何故私を置き去りにして三か月も経ってから騒ぎ出したのかというと、その頃になってようやく、私がいなくなった影響が出てきたからだ。

 ハードン商会は実質私が責任者となって仕事をしていたから、私がいなくなると全く仕事が回らなくなったようだ。

 なにせ契約や相手との交渉も皆私に丸投げしていたからだ。信頼をなくした商会は次々と契約を打ち切られているらしい。

 しかも、いつまでたっても結婚してくれないクリプトに愛想をつかした恋人にも逃げられてしまったという。妊娠話も嘘だったらしい。


 クリプトは隣国へ妻の捜索願いを出したが、何の情報も得られなかった。通行手形を失くしたので届が出ているはずだと主張したらしいが、通行手形を失くした妻を置き去りして帰ったのかと叱責された上に、そんな薄情な男に情報は教えられないと突っぱねられたらしい。


 実家の方も私の離縁でハードン伯爵家からの援助を得られなくなって、相当困っているのだろう。

 そして斜陽となったハードン商会を見て、娘の力でこれまで上手くいっていたのだと、ようやく私の能力を認識したに違いない。

 そのため、クリプトと一緒に懲りずに私を探しているようだ。

(王家の末王子が率いる諜報部の方が、逐一彼らの情報を伝えてくれるのだ)

 

 自ら不要だと捨てておきながら、今さらそれを拾おうとするなんて、なんて恥知らずな人達なのでしょうね。二度と関わるのはごめんよ。

 でも、少しは彼らに感謝しているのよ。

 私を捨ててくれてありがとう。

 私を置き去りにしてくれてありがとう。

 あなた達のおかげで私は、私を本当に必要としてくれる人達と共に、幸せに暮らしていけるのだから。

 私がミラージュの家庭教師になる申し出を断ったのは、あの時あの子にとって一番必要なことは、父親と触れ合う時間だと思ったからだ。

 良い家庭教師なら私以外にもいる。それならば私はミラージュの家庭教師になるよりも、商会の仕事を手伝って、彼をできるだけ早く家へ帰れるようにした方がいいのでは?と考えたのだ。

 父親と娘が一緒に過せる時間なんて、妻との時とは違ってとても短くて貴重なものだもの。だから大切にしないとね。

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― 新着の感想 ―
多言語を話せて聞き取れる時点で優秀ですよね。 今の妃殿下のよう。義理の母や小姑のイジメでお心が優れない時もあるだろうけど。 早く女系天皇もOKにしない馬と鹿の議員が恨めしい。
そんな実話があったんですね^^; 主人公が過去のしがらみをすっぱり断ち切って幸せになれそうで良かったです。
 主人公が幸せになって良かったと思うけど、直ぐにプロポーズするのはなんとも・・・・直ぐには結婚しなかったのは良かったと思うけど、気持ちがないと分かったら、直ぐに「名前を呼んでくれ」というのはなあ。  …
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