熊廷弼伝
信長横死した万暦十年、明の神宗万暦帝は二十年に渡り彼を厳酷叱咤し指導した主席大学士たる張居正の死に及んで政務の一切を放棄した。宮殿に籠って遊興・美食・造陵とあらゆる奢侈に耽り、かの宰相が十年かけて蓄えた国庫の銀四百万両は瞬く間に底を尽いた。政争に明け暮れ糾弾繰り返す官吏に従い、張居正一族滅して補填をさせても尚足りず、人民に重税を課した。しかし、どれ程の金も神宗の虚心を満たすには至らなかった。
万暦二十年、重税と汚職に耐えかねた北狄哱拝が反乱に及び、続いて東夷豊臣が冊封筆頭たる朝鮮に侵攻した。生涯数度しか臣下に姿を現さなかった神宗も流石に朝見を行い断固朝鮮を救えと詔勅したが、この機に乗じて播州宣慰使楊応龍も独立を試み乱を起こした。万暦三征と称された中華四千里に及ぶ大遠征は合わせて銀千万両が費やされたが、しかし神宗は奢侈をやめず、役人の給金まで惜しむに至りて汚職と賄賂が蔓延し、人民は益々苦しむ羽目となった。
さて、中国東北部、満州は女真と呼ばれる民族が住んでいたが、彼らは建州、海西、野人に大別され、さらに内部で細かく分かれて抗争に明け暮れた。明は現代米露よろしく内戦が続くよう支援したが、極度の混乱により難民という名の略奪者が度々明国境を侵して漢族を攻撃した。遼東総兵、李成梁は努爾哈赤という部下を使って建州女真を統一させて混乱こそ収束させたが、当時の役人軍人以上に多額の賄賂と着服を行ったため、遼東は荒れた。
熊廷弼、字は飛百、武芸を認められ聯捷進士と称せられた監察御史が遼東巡按した際、努爾哈赤の唯ならぬ野心を看破し李成梁に警告した。李成梁は女真にどっぷり賄賂漬けにされ聞く耳を持たないため、已むを得ず更迭させ、熊廷弼が任についた。熊廷弼はひたすら守備を固め女真軍を退け、終始優位に立ったが、趙将廉頗の如き消極策を用いた事で結局更迭されたため、いよいよ努爾哈赤を止める者がいなくなった。
万暦四十四年、努爾哈赤は敵対する女真を相手に怒涛の勢いで連戦連勝、建州統一して満洲国を建て、宿敵海西女真をも下して臣従させるに至り、後金を建国した。遂に重い腰を上げた明は総勢六十万の軍を興して四方より満州に攻め寄せたが、わずか五万の後金軍に完敗を喫して崩壊した。明軍を率いた将は蔚山城で加藤清正に敗れ、賄賂で黒を白と変えるような男であったから致し方ない。二百年の歴史を誇り世界の盟主中枢たる大明帝国が、しかし僅か二十余年の頽廃を経て、最早進退窮まった。後世の歴史家をして明は万暦に滅ぶと言わしめたのである。
万暦四十八年、神宗が天寿を全うして崩御する頃には宦官が権勢を得ており、長子泰昌帝は英邁だったため一月で毒殺され、孫にあたる天啓帝が即位した。天啓帝は乳母の魏朝に依存した哀れなマザコンであり、泰昌帝の嬰児は寵愛が移るのを恐れた魏朝に全て毒殺され、彼女に取り入り事実婚関係となった宦官魏忠賢は皇帝と権力を意のままにした。魏忠賢は諂諛と政敵への異常な記憶力の他に何ら見るべき所はなく、賢臣は道理に基づき抵抗を試みたが終に皇帝の賛意は得られず郷里に帰り、役人は諂い阿り腐敗は益々加速した。
賢しくもなく諂うこともない剛直の士、熊廷弼は明軍六十万の大敗によって左遷先から復帰し、収賄を禁じ佞臣を処刑して軍政改革を進め、泰昌帝に命ぜられ未だ不敗の努爾哈赤率いる後金軍を遼東の中核たる瀋陽で再び退けた。しかしわずか一月で天啓の世となり、佞臣と手を組む宦官の讒言が魏忠賢の耳に入り、赫赫たる武功も敢え無く牢に入れられ処刑を待つばかりになった。熊廷弼に代わって将軍となった者は税徴収と賄賂額こそ正確だったが、兵略兵站は数字遊びの机上の空論であり、案の定後金軍に大敗して瀋陽と共に自裁し、最終的に努爾哈赤の勝利に終わった。
未だ明朝内部に東林党と云う憂国の士がいたため、熊廷弼は三度政界復帰し遼東大臣として瀋陽奪還の軍略を練った。満州八旗重装騎馬軍が苦手とする河川沿いに軍を配置して侵攻を防ぎつつ、河川を遡っては後金本拠地を伺う態勢を築き、未だ遼東四十余城を抑える明軍が三方から瀋陽を睨む地の利で以って後金軍を撤兵に追い込む必勝の策である。しかし、剛毅剛直、言論闊達にして鼻持ちならぬ熊廷弼を好まぬ官僚宦官は遼東総督に学者然とした王化貞を推挙し、かき集めた六万の精兵を彼に率いさせた。戦場で幾度も努爾哈赤と干戈を交えた熊廷弼と、漢民族の尊大さばかりが先行し未だ後金の強さを知らぬ王化貞ではまるで話が通じない。魏忠賢の息がかかった朝廷は王化貞の強気な空論を頼んで、いよいよ熊廷弼を軽んじる。金軍が遼東要衝たる西平に迫っても二人は相容れず、指揮すら統一されぬままに王化貞が向かい討つべく先に出立し、都は「必勝」の言だけ信じ歓呼に包まれた。熊廷弼は上官を差し置いて勝手に軍を進めるなどとは夢にも思わなかったため、急ぎ後を追う羽目となってしまった。
王化貞は後金軍と戦い瞬く間に敗れ、明軍六万は呆気なく全滅した。配下の将軍が全て戦死又は逃亡したため報告がなされず、全滅すら気づかなかった王化貞は、本陣を敷いていた城下の兵が恐慌状態に陥り反乱に及んで漸くこの致命的敗北に気付いたのである。決済書類を投げ捨て命からがら遁走し、大寧河まで援軍に駆けつけた熊廷弼と合流した時、安堵で流涙が止まなかった。熊廷弼は笑って怒り問い詰めた。「六万の軍がどうしたら一度で敗れるのだ?」。王化貞は自らを大いに恥じて、残りの城を守るよう進言したが、熊廷弼はもはや手遅れと悟り、敗軍をまとめ北京を守る万里の長城、その最東端たる山海関まで撤退し、今度ばかりは王化貞も大人しく続いた。遼東四十余城は悉く後金の手に落ち、此処に明と朝鮮は分断され連携できなくなったのである。
気焔を揚げて意気揚々と出立した明軍が次の瞬間に敗戦全滅の報を持ち帰って都から程近い山海関に敗走し、しかも遼東難民が押し寄せ後金軍の恐ろしさを口々に吹聴したため、首都北京は恐慌に陥った。王化貞は自らの奮戦により万里の長城を超えられる最悪の事態は避けたと釈明し、魏忠賢はこれを容れたため、撤退を判断した熊廷弼が逮捕されるに至ったのである。
熊廷弼は裁判にかけられ、銀四万両の賄賂で罪が延ばされると宦官に持ち掛けられた。収賄蓄財に拘らなかった熊廷弼は銀の持ち合わせがないと答え、益々魏忠賢を怒らせた。高位高官にあって金が無いことなど有り得ず、軽んじられたと憤激したのだ。しかし、熊廷弼は万暦帝に限りなく低く設定された給金で身を立て、兵と辛苦を共にしていたからこそ籠城戦の名手だったわけであり、本当に大金は無かったのだろう。熊廷弼を推挙した東林党の賢臣達は罪を庇おうと試みたが、秘密警察と裁判所と処刑執行機関を束ねた魏忠賢に敵うはずもなく、全員纏めて敗戦の責を負わされ政争の露と消えた。
とうとう処刑の日となった。熊廷弼は皇帝への御礼状を認め首に下げて刑場へ向かう。魏忠賢の腹心の一人が目敏くこの袋を見つけ、鼻で馬鹿にする。お前は李斯伝も知らないのか。犯罪者如きが陛下に上書するなど、と。軍人である熊廷弼の無学を嗤ったのである。熊廷弼は目を怒らして「これこそ趙高の言動だ」と吐き捨てた。秦国を中華統一に導いた李斯の法と、それを恣意的に運用して秦国を破滅させた宦官趙高を挙げられては、専横極めし宦官魏忠賢に愛用される此の重臣も暫し言葉を返せず、処刑を命じる他無かった。
熊廷弼は獄門に処され、その首は国境に掲げられた。
軍の予算を着服したとして一族家財は全て没収され、長男は恥辱の余り自害し、長女も憤怒の余り喀血して死んだ。魏忠賢は七年に渡り権勢を恣にしたが、天啓帝の死と共に即位した崇禎帝に暗殺され、その崇禎帝も明と共に十七年で滅亡した。
かくして、熊廷弼の名も中華史の闇に葬られたのである。
愚帝佞臣邪法を前にしては、善を信ずると言えども身を保つには賢臣も奸臣と成らざるを得なくなる。この臨界点こそ、組織が滅亡に至る鏑矢である。熊廷弼や袁崇煥ほどの勇将名将を用いても明が滅んだ歴史を鑑み、せめて無辜の市民に害が及ばぬ事を祈る。
中島敦、良いですよね。私の駄文では遠く及びませんが。
以下補足です。
信長横死: 本能寺の変。1582年。
万暦帝の造陵: 定陵のこと。国家予算2年分に当たる銀800万両が費やされた。
東夷豊臣: 文禄、慶長の役のこと。
趙将廉頗: 中国戦国時代、秦の白起と戦った守勢の名将。讒言にあって大将の座から落とされ、代わりの大将によって趙軍は大敗した。長平の戦い。
遼東: 中国東北部、遼東半島とその周辺。中国と朝鮮をつなぐ交通の要衝で、日露戦争でも係争地となった。
東林党: 万暦帝の無為無策に抗った官僚集団。
西平: 遼東西側の守城。
山海関: 北京と遼東の間にある関所。山と海に挟まれた難所であり、難攻不落とされた。