影に恋する
私は、おかしくなってしまった。
◆
影と呼ばれる者がいる。
表沙汰にされない仕事を請け負う者。秘密裏に事を運ぶ者。人知れず主人を守る者。
ある程度の貴族ならば、必ず抱える者たちだ。
彼らは決してその姿を見せないが、時には命をかけてその家の存続を護る。危険を顧みないその姿勢は、表を守る私兵と対をなす守護者の姿だ。
そんな相手に、私は恋をしてしまった。
「はぁ……」
「おお、どうしたのだ。マルティナ」
「何をそんなに憂いているの?」
「いいえ、お父様お母様。なんでもないの」
言えるはずがない。
私は、へースティング伯爵家の長女、マルティナである。いずれ、どこかの高官へと嫁に出されると決められているのだ。高貴の生まれである以上、私の感情よりも大切なものを背負う義務がある。
だから、決して言えない。
私が私である限り。
きっかけは、ほんの些細な事だ。
街で買い物をした帰り。店から馬車までのわずかな距離で、人にぶつかった。
いや、助けられたのだ。影に。人混みから飛び出した子供を受け止めた、人混みの一人に紛れた影に。
本当ならば、当主である父しか会う事のない相手である。私はもとより母ですら、垣間見る事もなく一生を終えるはずの相手。それが、その時私の目の前にいたのだ。
外套の隙間からほんの僅かに覗く横顔はキリリと凛々しく、『危ないから向こうで遊んできなさい』と子供を諭す声は中世的で爽やかだった。背は私よりも頭一個分も高く、その力強さときたらどんなに勇敢な騎士とも引けを取らないだろう。
そんな、理想の相手に、私の心は瞬く間に奪われてしまった。
私が声をかけるよりも早く消えてしまったために、それ以来顔を合わせられていない。しかし、今もこの屋敷のどこかにいて、きっと私を守ってくれているのだ。
「はぁ……」
「やっぱりどこが悪いのか? 医者を呼ぶか?」
「いいえ、お父様」
「今日は一緒に寝ますか? 母は構いませんよ」
「いいえ、お母様」
ため息が出てしまう。あの人の事を想うと。
きっとこの世界にいるどんな王子よりも素敵で、どんな勇者よりも素晴らしい相手だ。しかし、私と結ばれる事は決してない。生まれて初めて、私は自分の血を恨んだ。あの人と結ばれる事のできない、この高貴の血を。
それは、ひどく冷える朝だった。
私は寒さのせいですっかり目が覚めてしまい、まだ朝靄で白む窓の景色をぼんやりと眺めていた。
この時間が、愛おしく思えた。あと十数分のうちに、この景色は陽の光がかき消してしまうのだろう。とてもありふれていながら、ほんの束の間だけこの世に現れる、幻のような光景なのだ。
ふと、庭に動く人影を見る。
へースティング家の兵士は練度が高いと評判で、定期的に行われる公開演習は一つの名物として領内でも有名だ。しかし、表庭で訓練しているところは初めて見た。兵士には専用の兵舎と訓練場が設けられているため、多くの者がそこを活用する。
不審に思い、目を凝らす。あるいは、やましい者ではないかと疑って。
そして……
「——っ!」
見たのだ。見るはずのないものを。見る事のないだろうと思われていたものを。
そこにいるのは、不審者などではない。その背格好。立ち姿。私が見間違えるはずがない。なにせ、ここ最近、想って止まない相手なのだから。
ベランダに飛び出した。寒さなどすっかり忘れて。思わず、身を乗り出す。目を離してしまわないように。見失ってしまわないように。
「ぁ——!?」
我ながら間の抜けた事だが、乗り出した勢いのままに足を滑らせてしまった。
「危ない!?」
正直、死んだと思った。少なくとも、重篤な後遺症を残すような大怪我をするだろうと。
だから、傷一つなく済み、私は心底驚いた。まさか、私があげた僅かな悲鳴に気がついて、地面に落ちるよりも早く近づいて受け止められるなど思ってもみなかったのだから。
肩と足を支えられ、仰向けに自らを助けた相手の顔を見る。俗にいうお姫様抱っこというやつだ。その相手は、確かに私が恋した相手で、案の定私の家の影であるらしかった。
……しかし。
「あなた……」
「お、お怪我はありませんか!? お嬢様!!」
「ええ、問題ないわ。それより、あ、あなた、名前を聞いてもいいかしら……?」
「レイチェル・ララックと申します」
私の記憶と相違ない、中世的な声。記憶よりもさらに、凛々しい姿。振る舞いは洗練されていて、おそらく鍛えられた体幹がそうさせるのだろうと感じさせた。
……ああ、しかし。
私の、理想の相手だ。いや、この人と会ってから、この人が私の理想となった。
そう、しかし……
「女性ではありませんか!」
「ええ!? ご、ごめんなさい!」
「謝らないで!」
女性かぁ!! ……いや、別に男性だろうと女性だろうと一緒にはなれないんだけどね!!
うぅ〜ん……! どうにも……どうにも……どうにも複雑ぅ。
「あ、あの……私が何か……?」
「い、いいえ! 何も問題ないわ! 降ろしてちょうだい」
ああ、顔が……はちゃめちゃに整った顔が私を見つめる。どうした事だろうか。
私は、おかしくなってしまった。胸が高鳴って仕方がないのだ。
「すみません、お嬢様……影である私が御身の前に姿を晒すなど……」
「いや、本当にいいから、そういうの……ごめんなさい、私はこれで失礼するわ」
足早に、その場を後にする。どうしてもいられなかったのだ。長くいると、この胸がどうかしてしまうかと思って。
ドキドキする。そう、ドキドキだ。
昨日は見つけられなかった、簡単な言葉。私は、確かにドキドキしていた。彼女——レイチェル・ララックを前にして。
どうしよう……
会う事も、会えない事も苦しくて仕方がない。この感覚は、貴族には不要であると断じたはずのものだ。まさか、このマルティナ・へースティングが、物語に咲く生娘のように振る舞うとは。自らの気持ちを取り落とし、どこかに転がらせてしまうとは。
「マルティナ、やはりどうかしたのではないか?」
「あ、いや、本当になんでもないの。安心して」
「そうか? しかし、どうも最近気がそぞろではないか。心配してしまうよ」
「……確かに、少し落ち着かないけれど、心配をかけるような事ではないわ。本当に、すぐ落ち着けるから」
「だが、私の話も聞いていないではないか」
「話……?」
驚いた。確かに、お父様が何を話していたのか全く記憶にない。自分自身ですら、そこまで動揺しているとは思わなかった。
「ご、ごめんなさい」
「いや、怒っているわけではないんだ。別に大したものでもないしな。リリが辞職する事になった、というだけだ」
リリとは、私の身の回りを世話させている使用人だ。そう言えば最近、田舎の母の体調が芳しくないと言っていた。
意外かもしれないが、使用人の辞職や転職はありふれた事だ。むしろ、三年以上同じ職場で働く者の方が希少である。生涯を賭して、あるいは一族代々仕えるような者にいたっては、もはやほとんどいないと言って過言ではない。
——ただし、あくまで表向きはではあるが。
「リリはいい子だったから、寂しくなるわね」
「ああ。だから、すぐに代わりの人材を用意しよう」
「そう、代わりの……」
代わりの人材。
その言葉は、私に悪い考えをさせた。
ああ、やはり、私はおかしくなってしまった。
本当ならこんな事思ってはならないのに、どうしても想ってしまうのだ。まして、口にするなどもってのほかである。もってのほかだというのに、どうしても我慢ならなかった。
「お父様、私、欲しい子がいるの」
「欲しい?」
「ええ。リリの代わりなら、その子をくれないかしら」
その先は、言うべきではない。
撤回すべきだ。『やっぱりなんでもないわ。忘れてください』と。そして、いつもの私に戻るべきだ。
そうすべきだ。そうすべきだというのに……
「レイチェル・ララックをください」
言ってしまった。
もう、取り返しはつかない。
◆
「お前は何をやっとるか」
「いやぁ……面目次第もございません……」
「我らは姿を見せてはならんと言ったよな?」
「えと……確かに聞きました……」
「普段から口を酸っぱくして言ってるな?」
「はい、おっしゃる通りです……」
「お前、聞き飽きたとか同じ事を何度も言わなくても分かってるとか言ってたな?」
「お恥ずかしい限りです……」
「その結果が『どうしよう父さん、お嬢様と会話しちゃった』か?」
「…………」
叱られた。怒られた。
私が未熟なばかりに、一族代々続く鉄の掟が破られたのだ。
でもあの場面じゃ仕方なくない? お嬢様が落ちるのをそのまま見とけっての? そりゃあ、ちょっと外の空気吸いながら稽古しようかなぁ、なんてのは軽はずみだったかもしれないけど、こんなに怒られるほどの事かなぁ?
なんていう言葉は口に出さず、心底反省しているという態度をこれでもかと強調する。
実際、反省してはいるのだ。挨拶とか自己紹介までするのは、さすがに軽はずみすぎた。
「深く反省しております。もう二度とこのような事はいたしません」
「いや、残念ながらそうはならんだろうな」
父が、頭を掻く。困った困ったとため息をつく。
どういう意味なのか、その答えは問いかけるまでもなく教えられた。もっとも、教えられたとしても意味など大して理解できなかったのだが。
「お前は今日からお嬢様のメイドだ」
「……ん?」
「だから、きっと会話はしなくてはならんだろう」
「いや……え? は……?」
冗談、ではないらしい。
父は首を傾げ、不思議そうに私を見つめる。いや、私にだって分からないのだから、そんな顔をされても困る。『お前何やったの?』とでも言いたげだが、それは私も聞きたいくらいだ。
私、何かしたかな?
「おは、おはようごじゃいますお嬢様!」
「おはよう、レイチェル」
……噛んだ。初めての挨拶で。声を裏返らせながら。
顔から火が出そうだ。優雅で可憐なお嬢様に対して、私はなんとみっともないのだろう。
起きたばかりのお嬢様は、目が覚めるほどに美しかった。
ただベッドに腰掛けているだけで芸術のようだ。ただ乱れているだけの髪に色気が宿る。ただ見つめられるだけで誰もが恋に落ちてしまう。
生唾を飲み込みそうになる。これが本当に、私よりも二つ年下の少女だろうか。
意識して、凛々しく振る舞わなくては。せめて、お嬢様の隣に立っても不自然ではないくらいに。
「初めに何をいたしましょう、お嬢様」
「そうね。では、着替えを手伝ってくれるかしら?」
「はい、喜んで」
き、着替え……着替え、かぁ。
それはつまり、お嬢様の柔肌を間近で見て、お嬢様の下着姿を前にしなくてはならないという事。
どうしよう、目のやり場に困ってしまう。
寝巻き一つとっても、お嬢様の身につける物は全て高級品である。本当ならば、私程度では触れる事すらも烏滸がましい代物だ。手が震えないように細心の注意を払わなくてはならない。
あと、できるだけお嬢様のあられもない姿を直視しないようにする。
挙動不審だと思われなければいいが。
◆
言うまでもなく、私は貴族である。
私の行動には常に責任がつきまとうし、何より誇りを失ってはいけない。それが、民草に対しての礼節だ。
そのように育てられてきたし、私自身もそれを理解している。これまでも、そしてこれからも、私は貴族かくあるべしという姿を体現し続けなくてはならないのだ。
いかなる時においても、優雅に、心を乱さない。それが貴族としての責務で……
「お嬢様、お足元にお気をつけて」
「ええ、ありがとう」
あぁ〜、顔がいい〜……
私のメイド最高すぎかぁ? こんなの永遠に見てられるぞ。
今は、屋敷の庭を散歩している。
我が家の庭師自慢の庭は、他家にも知られた我が家の宝だ。
私は、当然レイチェルも、生まれた時からこの屋敷で過ごしているので見慣れたものではあるが、それでも色褪せない作品としていつだって人々を感動させている。素晴らしい絵画や彫刻が、いつまでも評価を受け続けるように。
お父様は、現在お客の対応をしている。仕事の場に女は必要ないので、しばらくはこうして庭を見て回る事になるだろう。
最高の時間だ。今までで一番幸福だ。
どんなドレスを着た時よりも、どんな宝石を手に入れた時よりも、そしてきっと、産まれた時よりもずっと幸せを感じている。
お父様の仕事など、永遠に終わらなければいいのに。永遠に、ずっとこの時間が続けばいいのに。
みっともない。私は、貴族らしくもなく、舞い上がっている。
本来は恥ずべき事だというのに、それがどうしても嬉しいなんて。
だというのに……
「おや、マルティナ。久しぶりじゃあないか」
「…………」
不快な声が、私を呼び止めた。
「王子殿下。いらっしゃったのですね」
「ああ。叔父上に連れられてね」
「お父様のお仕事相手はキッシンジャー公でしたのね」
ケイネスロート第三王子。優秀な兄二人とは対照的な、国内外に名を轟かせる放蕩息子である。
あまりにも遊び歩きすぎていたために、国王陛下もとうとう立腹なされた。現在では財務大臣キッシンジャー公の令嬢と婚約して、大臣の仕事ぶりを見て学ぶように言いつけられているらしい。
……なんで仕事見てないんだこの人。
「折角だから、ちょっと歩こうか。この眺めを独り占めにするのは勿体無いと思っていたところだ」
「……ええ、喜んで」
遊び人だけあって、歯が浮くセリフはお手のものだ。
しかし、私は全く嬉しくない。
なにが『この景色を独り占めにするのは』だ。この景色は余す事なく我が家のものだ。お前のものになった試しなんて一瞬もない。
とはいえ、相手は王子だ。邪険になどできるはずもない。どれほどはらわたが煮えくり返っていても、女神のように微笑んで三歩後ろを歩く。貴族女性として生を受けた者ならば、誰もが備えた教養である。
「美しい女性と歩くと、この美しい景色がなお一層美しく感じるな。見てみたまえ、この美しい花を。まるで微笑んでいるようではないか」
「ええ、まさしく」
会話が浅い。
気取っているばかり、鼻にかけるばかり、調子のいいばかり。王子という肩書きに群がる有象無象は大層有り難がるだろうが、私にとっては鬱陶しいばかりだ。
王子でなかったなら突き飛ばしている。
「失礼、殿下。私、少々用事がございますので、この辺りで」
「ツレない事を言うものじゃあない。いいではないか、次にいつ会えるかも分からないんだから」
何故食い下がるのか。もう会いたくないと言っているのが分からないのか。何故それほどに頭が悪いのか。何故この程度を察せられないのか。
およそ、王子として育てられた人間の思考ではない。その一挙一動一思一考に至るまで、一々全てに教養を感じられない。
何故、こんな手合いの相手をしなくてはならないのか。私はただレイチェルと二人だけでいたいだけなのに。
遠回しではあるが、明確な拒絶。しかしそれは、残念ながら王子には理解できないらしかった。私の笑顔が、心からのものであると信じているようだ。あまりにめでたく、あまりに愚かしい愚物の思想である。
「私に付き合うよりも大切な事などあるもんか。それとも、まさか父上や兄上からの要件とでもいうつもりか?」
「いえ、まさか」
「ならば来い」
一歩引く私を追って、王子の手が伸びる。恐らくは何気なく、しかしそれでいて身の毛のよだつ魔の手が。
私は、叫ばなかった。それは非礼だからだ。どれほど嫌っていようとも、礼を失する事などできないからだ。
きっと、王子には伝わらない。私がどれほど嫌がっているかなど。分かるとすれば家族か、普段から私と共にある者くらいだろう。
「失礼」
「なぁ!?」
王子の手は、私に触れなかった。触れる前に、王子が突き飛ばされてしまったからだ。
その体は背後の木に打ち付けられ、大した痛みではないだろうが顔をしかめる。思ってもみなかったのだ。まさか、使用人に触れられるなどと。
レイチェル・ララック。ずっとこの場にいながら、あたかもいない者かのように扱われていた少女である。
「き、貴様! 使用人の分際でこの俺に手を上げたな!」
「失礼いたしました。虫がおりましたので」
「む、虫???」
見れば、確かにレイチェルの指には虫が摘ままれている。小さな、どこにでもいる、単なる蝶だ。
「こ、こんな小さな虫を捕まえるために俺を突き飛ばしたのか!?」
「小さいからと甘く見てはいけません。種類によっては人間よりも大きな生き物だって命を落としかねない猛毒を持っているんです」
「そ、そうなの……?」
「ええ、大変な苦しみが三日三晩続き、見るも無残な最期を迎える事になります」
「ひええ……」
王子は顔を真っ青にして、レイチェルから一歩退いた。視線は蝶に釘付けで、唇はわなわなと震えている。
「なので、失礼と思いながらも出しゃばりました。差し出がましい事でしたか?」
「い、いや! 別に構わん。よくやった」
「ありがとうございます。加えて、そろそろ屋敷に戻るのがよろしいと愚考します」
「そうだな! こんなおっかない場所はごめんだ!」
王子は、私をエスコートするつもりもない早足でそそくさと屋敷の方へ行ってしまった。その様子があまりにも無様で、胸がスッとする。流石に可哀想なので笑わなかったが。
「……貴女、中々言うじゃない」
「失礼ながら、何がでしょう?」
「その蝶々よ。どこにでもいる普通の虫よね。毒なんてあるはずがないわ。『種類によっては』だなんて曖昧な言い方をして、あの人を謀ったわね」
「嘘は言っておりません。王族の方に嘘をつくほど、私は勇敢ではありませんから」
「まったく……あの人がもっと腹を立てていたら、貴女は処分されていたかもしれないのよ。あまり無茶な事はしないで」
「いや、それこそまさかですよ」
レイチェルが、不意に微笑んだ。そのキリリとした目を、ほんのわずかに優しく細めて。
「この私が、怖がるあなたを助けないはずがありません」
「……っ」
…………チクショウ、かっこいい。
これは困った。何か魔が差してメイドにしてしまったのを、後悔し始めている。こんなのが近くにずっといて、私は嫁になどいけるだろうか?
この世のレイチェル以外の全てを合わせても、レイチェルには遠く及ばない。どんなに素敵なお伽話の王子様でも、今の私にはタヌキの焼き物と変わらなく見える。
レイチェル・ララック。私の、初恋の人。
この女性のせいで、私はおかしくなってしまった。
貴族である私がこんな気持ちになるなんて、本来許されていない。
許されていないというのに、溢れ出る感情がどうにも抑えられそうもない。
ああ、私はおかしくなってしまった。これ以上なく。
おかしくなってしまった。きっと、未来永劫、元に戻る事はない。




