前日譚 二人の王子、ひとつだけの椅子・前編
イズティハルには双子の王子がいる。
兄はガーニム、弟はアシュラフという。
そして今日、王城では王子の生誕を祝う宴が開かれていた。
「本日は宴にお招きくださりありがとうございます。ツークフォーゲル一座一同、心より両王子十三回目の誕生日を祝福します」
座長の挨拶が終わると、アシュラフと歳近い少年が二人対となって踊る。軽やかな音楽に合わせて跳び、新たな舞い手が加わる。
楽器を演奏しているのは座長と、二人の女性だ。
イズティハルでは見かけない楽器、聞いたことのない音楽、舞い。そして何より、みんなが楽しげに笑っている。
アシュラフは初めて目にする異国の公演に心が浮き立った。
「すごいですね、エリック。こんなに楽しいのは初めてかもしれません」
「アシュラフ様が喜んでくれて何よりです」
エリックはイズティハルの北方にある国ルベルタの辺境伯子息で、ガーニム・アシュラフと歳も近い。アシュラフが唯一、正直に気持ちを話せる友人だ。
この一座はエリックの父が贔屓にしていて、ぜひ王子の祝いの席に、と呼んでくれた。
「舞っていた二人は僕たちとそう年齢が変わらないでしょう? すごいなぁ」
「せっかくの機会ですし、直接話を聞いてみますか?」
「ええっ、いいのかな」
エリックは少年たちと顔なじみらしく、出番が終わって袖に下がっていた少年たちを呼びに行ってくれた。
ずっと黙って葡萄汁を飲んでいたガーニムが、ぼそりと呟く。
「物好きだなアシュラフ」
「ガーニムは楽しくない?」
「つまらん。毎年毎年、用意された原稿の台詞を言うだけのジジイ共を相手にしなきゃいけないなんて、なんの苦行だ」
ガーニムはじっとしているより、駆け回るほうが好きなタイプ。宴の開始前からずっと嫌そうな顔をしていた。
アシュラフは普段部屋で何時間も本を読むような生活なので、宴の間座っていろと言われるのは苦痛ではない。
「連れてきましたよ、アシュラフ様」
エリックが一座の少年を連れて戻ってきた。
少年たちは膝をついて頭を下げる。
「お誕生日おめでとうございます、殿下。お会い出来て光栄です。僕はヨハン、こちらは弟のヨアヒムです」
「はじめまして。今のはルベルタの曲とも違うように思えたのですが、一座のオリジナルですか? 音楽をこう表現するのは正しいかわからないけれど、すごく温かい曲だなと思いました」
素直な感想を伝えると二人は誇らしげに笑う。
「今のはロータスさんの故国に伝わる曲に、一座が独自の踊りを合わせたものです。ヤ・ポン皇国の装束を着た楽士がいたでしょう? 彼女がロータスさん」
ヨアヒムが手のひらで楽士を示す。
今も曲を奏でている女性だ。見慣れない弦楽器を弾いている。
「あの楽器は?」
「サンシンという楽器です。ヤ・ポン南部にしかないので、僕達の一座でも弾けるのはロータスさんだけなんです。僕もヨアヒムも習っている最中なんですが、これがまた難しくて……」
ルベルタのこと、ヤ・ポンのこと。城の中にいるだけではわからない旅の話を聞けて、アシュラフは嬉しかった。
「次の曲はまた僕たちの出番なので、失礼します」
「忙しいのに、話をしに来てくれてありがとう」
兄弟が舞台に戻ったあとも、アシュラフは音楽を楽しんだ。
その夜、アシュラフは父王ヤザンの部屋に行ってお願いをした。
「ふむ、城下を見たいと?」
「はい。ヨハンとヨアヒム……今日の宴に来ていた、一座の少年がいたでしょう。彼らに旅先のことを色々と聞いたのです。僕は遠くに旅することはできないけれど、せめて城下のことは知っておきたいと思ったのです」
イズティハルの城下はどんなところですか、と兄弟に聞かれて、ろくに話せることがないことに気づいた。
自分の国を知らないのはとても恥ずかしいことなのだと、こどものアシュラフでもわかる。
「そうか、アシュラフにもようやく王族としての自覚が芽生えたか。なら公務日程を調整して……」
「あの、できれば公式訪問のような格式張ったものでなく、お忍びで。公務として行くと取り繕った姿しか見られないでしょう。きちんと、素の町を見たいです」
ヤザンはしばらく考え、部屋の入り口を警備をしていたザキーに声をかける。
「ザキー。明日、アシュラフと城下を歩いてきてくれ」
「承知しました」
「ありがとうございます、父上。ザキー、面倒をかけるがよろしく頼みます」
そして翌日。
朝食を終えたアシュラフは、教育係を努めてくれているラシードから平民の服を借りた。ラシードにはアシュラフと歳近い息子がいる。
城下のことを知りたいのだと言うと喜んで貸してくれた。
公務以外で外出なんて初めてで、アシュラフはドキドキしながらザキーの一歩後ろをいく。
市場には賑やかな声が飛び交い、熟れた果物の甘い香りがする。人々が絶え間なく行き来する。
城の中で一度にこれだけの人に会うことはまずないから、それだけでも驚く。
「これが、城下町」
「いいですか殿下。くれぐれも、私のそばを離れないでください。危ない者もいますから」
「わかりました」
今日のザキーは兵の軽鎧でなく、私服姿。ひとごみに紛れると見つけるのは困難かもしれない。
「すごい人数だ」
「生誕祭のさなかなので、普段はこの半分くらいですよ」
パンを積んだ屋台にこども達が並び、買ったその場でかぶりついている。行儀がいいとは言えない行動だ。パン屋の近くでも、買ったばかりのりんごを丸かじりするおじさんもいる。
「あれは普通のことなんですか」
「真似してはいけません」
「……はい」
市場を抜けた先は住宅街だ。住宅街に向かう途中に、薄暗い路地が見える。そこだけゴミが散乱していて、そちらから変な臭いが漂ってくる。
その地区から出てきたネズミが、アシュラフの通り抜けた。
「ザキー。あちらには何がある」
「見てはなりません。スラムは我々の管轄外です」
「管轄外? でも、人が見える」
「あれは貧民。ドブネズミですので、貴方が配慮するような存在ではありません」
ザキーはスラムのことを説明したくなさそうな顔をしている。
管轄外、何が管轄外なのか。
ドブネズミとは何なのか。
アシュラフの目には人間に見えるのに、ザキーは人間じゃないと言う。
アシュラフはザキーから離れ、裏路地に踏み出す。
膝を抱えてうずくまっている老人に声をかける。ところどころ破けて変色した服。垢まみれで汚れた肌。
着替えを持っていないんだろうか。湯浴みをできないんだろうか。
「何だお前。スラムは平民のガキが来るところじゃねえぞ」
「平民がだめなら、誰なら入れるんですか」
老人は鼻で笑った。
「ああそうか、あんたは平民どころか、こちら側じゃないやつか。儂らの気持ちはわからんだろう。貴族として何不自由なく生きている人間には。二度とここに来るな!」
怒鳴りつけられ、アシュラフは慌ててザキーのもとに走って戻った。
城に帰ってから、アシュラフはラシードに説明を求めた。
そして城下にあるスラムと呼ばれる区域のこと、スラムに住む者は国籍を与えられず、人として扱われていないということを知った。
籍がないから働けず、金を得られないから盗むことでしか日々の食を得られない。
盗みを覚えられなければ飢餓で死んでいく。
どうしてみんなスラムから目を逸らすのか、アシュラフにはわからない。
ザキーも町に住む人々も、スラムを見ないように、避けて歩く。
そこにいるのに、そこにあるのに。
数年後……ガーニムとアシュラフが十七になったとき、父がある試験を用意した。
ガーニムとアシュラフ、この国のためになる施策を講じた方を跡継ぎにする。
だからアシュラフは、スラムを救いたいと願った。
変えたいと思った。
スラムの未来を変えられる立場にあるのなら、成すべきだ。
父はアシュラフを王に選んでくれた。
その後結婚し、息子が生まれ、アシュラフは息子にファジュルと名付けた。
夜明け。
たとえアシュラフの代で成しきれなくてもファジュルが、ファジュルの代でできなくても孫が、きっと志を受け継いでくれる。
スラムの人々もイズティハルの民として受け入れられる日が、夜明けがいつか来ることを信じて。