固着
目の前には鍋が用意されていた。水炊きだろうか。この家では白滝ではなく春雨を入れるらしい。
「いや、なんでこうなるんだ」
「僕が知りたいよ」
「遠慮せずじゃんじゃん食べちゃってね。あの人、今日は夕飯いらないって連絡してくるのが遅かったから気にしないでね」
「お鍋は苦手でしたか? 水炊きになりますが」
なぜか波風家の夕飯にお邪魔していた。波風のお母さんは家に着いたときすでに、具材の準備を終わらせていた。
「あの、電話お借りしてもいいですか? 連絡しないとなので」
「どうぞどうぞ」
家電を借りて安曇さんにかける。帰りが遅くなることはすぐに了承してくれた。
「では改めて。私は波風カナの母親をやっています、波風キミカです。娘がお世話になっております」
「いえ、こちらこそです......」初めましてのあいさつはこれで正しかっただろうか。どうにも慣れない。
「えーっと、自分は鈴懸高等学校一年の深海ユウです」
「僕は月島ジュンといいます。僕は中等部三年です」
「ユウちゃんにジュンちゃんね。カナから話は聞いています四月になってからとても楽しそうにいろんなことを話してくれるんですよ。いつもありがとうね」
「こ、こちらこそ――」
そこは、まるでこれまで当たり前に過ごしてきたかのような暖かさのある空間だった。若いキミカさんは波風といると親子というよりは姉妹のようにみえた。ジュンは終始落ち着かない様子だった。四月とはいえ冷え込みの激しい天乃市に、暖かいこの空間が存在する事実だけで心が安らぐ思いさえする。
ジュンは食後に駆け足で出て行った。塩浦には俺からも詫びを入れなければならない。
「ご馳走様でした」
「迷惑ではありませんでしたか? いきなりお誘いしたりしてごめんなさい」
俺は食後、波風の部屋に座していた。俺と波風で小卓を挟んでいた。小卓にはキミカさんが淹れてくれたお茶が二人分置かれていた。ほのかに立ち上る湯気に心地良さを覚えていた。
「押しかけたのはこっちだから。気にしないで」
「そういえばそうでしたね。お母さんはイベントを本気で楽しもうとする人なので深海さんとはあまり波長が合わないかもしれませんね。本人に悪気はないと思います。ごめんなさい」
「自分の家以外で誰かと食卓を囲むことがあんなに楽しいものだとは知らなかった。いい思い出になったよ。ありがとう」
何年も昔の頃に戻ったような感覚だった。
湯呑から一口お茶を口に流す。お茶を美味しいと感じられる身体は宝物だと痛感する。
「本題に入りたい。これはジュンから聞いた話だ。波風さんが、”困っている人がいたら助けてあげろ、いつかその人がまた他の誰かを助けて、いつの日か自分を助けられるから”って昨日言っていたと」
「ええ、言いました」
「実は、もしかしたらそれは記憶を失う前に聞いていたた言葉のような気がして」
「私の過去に繋がる手がかりかもしれない、ということですね」
「ああ。ジュンが携帯にストラップを付けていたことには気づいていたか? あのストラップのキャラクターが登場する映像作品の台詞なんだ。あのストラップは大幅にデフォルメされたものだが。心当たりはないだろうか?」
波風は立ち上がり、学習机の上に置いていた自分の携帯電話を持ち上げる。薄い水色のハードカバー以外は目を引くもののない携帯電話だった。
「作品名はなんというんですか?」
「『超越電神ドリルゼノン』。もうかなり古い特撮ドラマだ」
携帯電話で「ドリルゼノン」について調べているのだろう。
「いまいちピンときませんね」
「そうか。再放送を何回かしているみたいだからそれを見ていたのかもな。いつといつにあったんだっけか......」
作品に覚えがあるならもうとっくに自分で調べているはずだ。
「例の言葉なんですけれど、なんといいますか、こう、面と向かって言われたような気がするんですよね。TVで聞いたとかではなく、誰かが、私に対して直に。明らかに、私に向かって言っていたような。それに調べてみましたが、この作品に登場する台詞は、私が聞いた言葉とは微妙に違うような気もします」
なにかが引っかかる。というよりもことが悪い方へ向かっているような気がし始めた。
「だったら、”桜瀬栄一”って名前に心当たりが会ったりしないか?」
「サクラセエイイチ......?」
波風の顔色が微小に変化した。これは悪い賭けだった。恐ろしく分が悪く、質の悪いもの。
「なにかが引っかかります。うまくは言えないんですけど、桜......」
波風の様子がおかしい。
「もういい、無理をするな。今日はもう保留にしてくれ。俺が悪かった」
波風をベッドで横にさせる。ほとんど力が入っていなかった。キミカさんを呼びに行っている間にかなり落ち着きを取り戻した様子だったが、さすがに心配だった。
波風の部屋に彼女とキミカさんが残り、俺はリビングでアラサー程度の男性と向き合っていた。波風の父親である波風ハジメさんだった。俺の飲んでいたお茶は冷めきってリビングに運ばれていた。湯気はその面影もない。
「君が深海君だね、話はカナから聞いています。野球を教えてもらっているとか」
「ええ、今度の試合のために練習したいとお願いされたので」
「ところで君はカナから、記憶喪失についてどのように聞いていますか」
「去年記憶喪失の状態で保護された、と聞いています」
「やはりそうでしたか。実は、カナの記憶喪失はそれで二度目になります。少なくとも」
少なくとも、二度目? どういうことだ?
「私たち夫婦がカナと出会ったのは、今から五年前です。道で倒れている彼女を発見したのが最初でした。病院に運ばれた彼女はしばらく目を覚ましませんでした。彼女の所持品は多くなく、身元のわかるものもありませんでした。その間に警察は彼女が誰なのかを調べましたがわかりませんでした。警察が明らかにしたことは事件性があるという事実だけでした」
首都消滅後のこの国はまるで統率が取れていない。事件が県を跨ぐと迷宮入りする、なんていう噂もある。彼女が他県の者だった場合警察頼みでは身元が判明することはないかもしれない。
「そして私たちは身元不明の彼女を受け入れる決断をしました。記憶は戻らなかったけれども命だけは助かった、そんな彼女の帰ってくる家でありたい、血は繋がっていなくとも家族のような存在でありたいと常に願っています。カナが再び命を狙われるようなことにはなってほしくありません。私たちがカナと生活を共にするようになってから、決まりごとを設けました。過去の記憶を積極的に取り戻すことはお互いにしない決まりを設けました」
ハジメさんは湯吞のお茶を啜る。
「ですがあるときから彼女は私たちに隠れて自分の過去を探し始めました。私たちがそれを知ったのは彼女がもう一度記憶を失ってからでした。全く不甲斐ない話です」
お茶のおかわりを聞かれたが、すでにその気ではなかった。
「カナは一年前に電話ボックスの中で発見されました。幸いなことに再び記憶喪失になってもカナが帰ってこれるように認識票代わりになるものを身につけさせていましたので、私たちのもとに戻ってきてくれました。他人の娘なのに傲慢な望みなことこの上ないですが」
他人の娘......?
「そして私達は壁にぶつかりました。予想以上にカナの脳がダメージを受けている可能性があり、今後多くのストレスがかかると今度はカナの身に起こるのかわからない、との説明を医者から受けました」
「自分にこれ以上波風さんの手伝いをするな、と言いたいんですね」
「端的に言えばそうなります。今回も私たちはカナが記憶を取り戻そうとしていることを把握できていませんでした。保護者失格もいいところでしょう。ですが、これ以上彼女が苦しむのは御免です」
苦しむ他人。それを見たときに俺は見て見ぬふりはできなかった。でもやれることはなにもなかった。そうやって俺はそれを取りこぼした。今度は波風カナという自らの過去を追い求める一人の人間を取りこぼす。あの頃となにも変わっていないのか、深海ユウは。
「私たちが疑似家族をやっていることは君の眼には異様に映るでしょう。私たちがカナの記憶が戻ることで、家族でなくなることを恐れていないとも言い切れません。ですが、彼女の身に危険が迫るようなことはなんとしてでも避けたいのです。生きていてくれていることがなによりも嬉しいんです」
「疑似家族、ですか。おかしいとは思いませんよ。自分は生みの親の顔を知りません。物心ついたときには両親がいたので、ごく当たり前の父と母のいる家庭の子供だと思っていました。でも実際は違いました。最悪なことに、その事実を知ったのはその父と母が死んだ後でした。急な事故でしたので当然ですが、なぜ自分を引き取って育ててくれたのか聞くこともできませんでした。もっと家族として一緒にいたかったと思っています。親孝行もできずにいってしまった。正直私はあなた達家族が羨ましいです。本日の夕飯にお邪魔していましたが、部外者のはずなのに本当の家族のような温もりを感じました。久しぶりに心の底から楽しいと思えた。波風さんは誠実で優しくて素敵な人だと会うたびに感じています。その理由が今日わかったような気がします」
今なら湯呑のお茶を飲み干せる気がした。
「気になることはありますが、波風さんにもしものことがあってはいけません。過去を探すことはやめます」
「いやです。最後まで私の過去を探してください」
振り返ると波風が立っていた。顔色はそこまで悪くなさそうだが少々ふらついている。キミカさんが彼女を支えていた。
「......」
「取り合えず今日はもうお開きにしましょう、ユウちゃんも遅くまでごめんなさいね」
キミカさんのアシストで今日のところは収まった。
玄関先、波風の見送りの帰り際。
「盗み聞きしてごめんなさい」
「いずれ話すつもりだったことだ。気にしないでくれ。それよりもう大丈夫なのか」
「今はもうだいぶ落ち着きました。大丈夫ですよ」
顔色もそこまで悪そうには見えなかった。この後彼女は無断で行動していたことを絞られるのだろうか。
「深海さんにあのような過去があったとは知りませんでした。知らなかっとはいえ無神経に夕飯にお招きしてしまってすみませんでした」
「他人の過去を暴くんだ。あれくらい知られたって構わない。知らなくても無理はない。そもそもまだ出会ってひと月もたってないんだからな。当然さ」
波風が胸の前で手を握りしめていた。
「それに謝らなければならないのは俺のほうだ。禁止されていたのを知らなかったとはいえ、君の体に負担を」
「いいんです、自分を責めないでください。私が黙っていたんですから。両親にはきちんと説明しますので。まあ、説得力ないですよね。今まで深海さんを騙していたのに」
「それはお互い様のようなものだろ。元々俺も猫のサクラ探しのために波風さんに協力していたんだから。今度は頭下げに来るよ」
「俺はさ、サクラ探しはもう諦めるつもりだったんだよ。一年間探しても手がかり一つ見つけられなくて。今は助手以下の立場だけど探偵なんて絶対に向いていないなと思ったよ」
夜空に星を探してみる。ここら一帯は住宅街ということもあり星は見つけられなかった。
「俺はきっと君に期待しすぎていた。これを逃せば、もう二度とサクラを見つけられないような気がして焦っていたんだろう」
「深海さんは、どうしてそこまで”探すこと”にこだわるんですか?」
「......。いずれその時が来たらこれも話すよ。今言えるのは、それが自らの存在証明だから」
これだけは絶対に今話すわけにはいかない。いずれその時が来るまでは......。
「それじゃ、おやすみ」
四月だというのにこの天乃市は寒すぎた。特に日が暮れてからの冷え込みは厳しいものがあった。