桜瀬
俺は欺かれた。桜瀬邸に帰ってきた次の日。登校日につき、制服の白い半袖のシャツに腕を通していざ外へ出たら、私服のハルカが既にいた。
「あ、あの。あれ嘘」
「振替休日か......」
文化祭が土日に渡って開催されるので、片付けに一日使った後の、水曜日の今日と木曜日の明日は振替休日ということである。
「ごめんね。まさか気づかないとは思ってなくて」
「俺も悪い。抜けていた」
「お詫びに今日は一日付き合うからさ」
これはどうしたことだ。いや、これはさしずめ......。
「またサクラか」
「バレたか」
頬をかいて申し訳なさそうな顔をする。これはなんだかあれの後になって二人ともそれまでの状態に戻れなくなっていると感じざるを得ない。端的に言えば緊張しているのだ。
「ソレイユに行くぞ」
「うん!」
ソレイユに来た理由はこれである。
「え、ユウがコーヒー淹れるの」
「マスターがしばらく店に出れないからな。もうあかねえもいないし。俺が開いている時間帯だけでも店を開けられるようになりたい」
「イケメンのマスター代理かぁ。客足が戻るかもね。ソレイユのエプロンも似合ってる」
「似合うのは嬉しいが、静かな空間が壊れるな。それよりもちゃんとコーヒーを淹れられるかどうかだ」
マスターだけでなくあかねえもたまにコーヒーを入れているのを目撃していた。マスターにはあかねえの失踪理由は詳しく説明していないが、原因の一端は俺にあるのでせめてもの罪滅ぼしというわけである。
「味見を頼む。淹れるところを何度か見ていたからそれを複製できれば問題はない」
そうして淹れた一杯のコーヒーをハルカに出す。何度も息を吹きかけてハルカは口に含む。
「うん、違いが判らないよ。いいと思う」
「それはよかった」
「でもコーヒー派じゃないよね」
「俺は紅茶党」
「そこはどっちでもよくない?」
「じゃあ紅茶派で」
穏やかに時間は流れていく。淹れた二人分のコーヒーはそれに沿うように遅々として減らない。
「ねえ、あのサリヱって女の子となにかあったでしょ」
「なにかって?」
とぼけてみる。
「誤魔化してもだめ、きっと酷いことしたんでしょ」
ハルカがどういう想像をしているのかはわからない。
「あいつの聖域を穢した」
「聖域?」
「あいつとの最初の出会いは全然覚えていないけれど、多分ここがきっかけだっていう日のことは覚えている。中二の三学期の体育だった。
自分で幾つかの競技の中から一つ選んでそれを時間いっぱいやるっていう、ほとんど自由時間みたいな体育の日だった。俺はローテーションでいろんな競技に手を出していた。丁度その日は卓球を選んで、一人だったあいつとずっと卓球していた」
「そのことわかってて卓球にした?」
「半分は。もう半分はその場所でできるものがそれくらいしか思いつかなかった。今ならバスケのワンオンワンとかでもよかったのかもしれない。ただそのときは卓球が一番自信があった。確実にサリヱの意志を砕く必要があったし」
「まあやむなくって事にしておく」
「どうも」
お互いに一口コーヒーをすする。そしてハルカがまた口を開く。
「そういえば、今日はサクラちゃんはどうしたの」
随分今更な気がするが真摯にお答えする。
「今朝早くに出ていった。俺もそこで起こされた」
「なにか言っていた?」
「うん。しばらくは下手に動くなって。きっと次に何が起こるか正確に読めていないからだと思う」
「あの二人はいなくなったんでしょ」
「そこまでなんだ。サクラが体験した未来は。もう未知の領域なんだ。
サクラはあの白い世界にいた。そこで幾通りもの未来の結末を観た。そのどれもがあの二人のうちどちらかが消滅するところまでだ」
いつかの日に俺が見たものがそれだったのだろう。
「じゃあこれからはどうするの」
「俺がすることは変わらない。サクラの計画に最後まで付き合う」
「恩返しなんだよね」
「これで返せるかはわからないけれど」
お返し......。俺はさっきサクラの計画に最後まで付き合うと言った。そしてそれは、恩返しと言った。
「これならお返しできるけど?」
「えっと、携帯を届けに来たよ」
「エリちゃん!」
「ジュン......」
二人は二代目の携帯を俺に届けに来てくれた。どうせならコーヒーを一杯......。
「それと、これも。サクラちゃんにね」
塩浦はもう一台の携帯を差し出してくる。サクラにもプレゼント、ということらしい。
「じゃあね」
「また明日」
そういうと二人はそそくさと店を出て行ってしまった。せめて一杯は味わってもらいたかった。
「これって」
「悪いけれど、この携帯はハルカから渡してくれないか?」
「まあ、それでいいなら。実はサクラちゃんと喧嘩でもした?」
「そうじゃないんだ。そうじゃ、ない......」
「じゃあ、なにかあるの?」
「なにもないよ。私とユウの間には」
一名様ご来店。お好きな席へどうぞ......。
「ご注文は」
「私コーヒー飲めない」
もう一人分のコーヒーを注いで俺がそれまで座っていた席に置く。ホットでございます、ごゆっくりどうぞ。
「ねえ、別にユウとサクラちゃんがなんかギスギスしてるのはいいんだよ別に。喧嘩なんてして当たり前だし。でも、本当はどうでもいいんだけど私、わかったかもしれないから言わせてね?」
長い前置きをして珈琲を最後まで飲み干してハルカはひと息をついた。
「これ、今日渡そうと思って持ってきてたの。家で観れるんでしょ」
「二人で『ガン・デルタ』を観ろと」
「は、ハルカちゃん、私まだなにも」
状況は理解できない。
「というか、サクラは観ていなかったのか?」
「言わせないであげてよ、一緒に観たかったに決まってるじゃん。ねえ?」
「う、うん」
そのような成り行きでその日の夜には『ガン・デルタ』上映会が実施された。夜にはもうすでに夏の気配がない。それどころか次の冬を感じてしまう。
桜瀬邸で二人きり。高校の視聴覚室に勝るとも劣らない上映室を二人でひっ付き合って独占する。一人で使うには広くて二人で使うには狭く感じた。
「なあ、サクラ。考えたんだけど、俺はきっと君に人間でいてほしいと思っていたんだと思う。だから人間の身体を与えたし、”白い世界”へ到達したから君はタイムリミットを超えて肉体を持ったままなんだと思う。でも、君は違ったんだよな」
「私は、猫のままでよかったと思う。でも、また会えたときには人だった。それは凄く嬉しかったよ。人間でいるのも悪くないって思った。ユウと言葉を交わせるし、ハルカちゃんは一緒にいて面白いし、ジュン君もエリちゃんも優しくしてくれて。でも、私はやっぱり猫に戻らなくちゃいけないよ。私がやらなくちゃいけないのは、思い出作りじゃない。光り人のいない世界を実現させることだから」
サクラの意思は固かった。いや、俺の意志がイレギュラーなのだ。
「もしも、人間でいられるうちにやらなきゃいけないことがあるとしたら、きっともう、一つしかない思う」
「サクラ......」
「あの日、傷だらけだった私を助けてくれて本当に嬉しかった。一年以上私のことを探してくれてありがとう。会えてよかった」
上映会は無事に終了した。今見れば直したい箇所はあげればきりがない。しかし完成したときにはこれ以上はないと確信していたのだ。これもまた......。
「ガン・デルタ、最高だったよ」
またこの家は光に包まれる。そしてサクラは人から猫になった。一年前と同じ白くてきれいな毛並みに薄いピンクの肉球。間違いなく俺が一年間探し続けていたサクラそのものだった。
抱き上げて一年前に出来なかった最後の抱擁をする。
「ありがとう、サクラ。君にしてもらった色んなこと。これから一個ずつ返していくよ。本当にありがとう」
これから先、どんなことがあろうと、俺と共にあった一匹の白い猫のことを、俺は忘れてはならない。
「おいで、サクラ」
サクラは今度こそ俺の中に入っていく。少しはしゃぎ過ぎたのだろう。これから暫くサクラは眠りにつく。次にいつ目覚めるかはわからない。それでも俺はサクラと約束したとおりに計画を進めるしかない。
たった一人の家の中。一年前と同じ桜の香りがした。一枚の花びらが宙を舞っていた。手の平で受け止めた花びらは手の平の中へ消えていった。




