深海
久遠劫の桜の樹に手をかざす。本体は桜の樹そのままなので直接手で触れてはいけない。姉さんは感じられなかった。それでも姉さんの存在を切り離して吸収することは簡単にできた。サクラが中にいるときとはまた違ったものが感じられた。少しだけ違う温かみの中に、ほんの少しのうしろめたさを抱える。
「これも避けられないか」
「なに語ってんの」
サリヱは砂の上にへたりこんだまま動こうとしない。これが罠だということはわかる。
「次はサリヱの番だ。お前の因子を回収する」
手の平を彼女の顔の前に広げる。一秒もかからないうちにサリヱは光の粒に分解されていき手の平の中へ吸い込まれていく。声を出す間もなく彼女は綺麗に消えていなくなる。
見慣れた水辺。ここは矢米川の土手だとわかった。この感覚は以前にもあったものだ。しかし多少の記憶の混濁が見られ、直前のことを思い出せなくなる。
ここは矢米川河川敷。天乃リバーステーションという船着き場。いつになってもここは好きになれない。離れたくて天端の方を振り返る。こんなことをするのはあいつしかいない。
「お前がやっているんだな」
いつか人影を見た水門の上の道。そこにサリヱがいた。この景色は皆彼女が固有特殊能力によるものだと理解していた。現実の世界であれば歩くとそれなりに時間がかかる距離だが、ここは幻の世界。本来の主導権は全てサリヱが握っているが、少しずつサリヱから因子を奪いつつあるためか、俺もこの世界では自由がある程度だが効くようになっていた。ヒロトさんがやったように瞬間移動も可能だった。
「最後の抵抗か」サリヱの近くまで飛んでみる。特に反動などはないようだった。
「こんなの間違ってるよ。プリズマはせっかく生まれてきた人類の先なんでしょ。それを消そうって」
「だとしてもまだ早い。この地上にはまだ必要ない。上灘マイも一応絶滅派だぞ」
「それはカホコさんだって」
「あいつはそんなこと興味なかったんだよ。あいつがやろうとしていたのは上灘マイを人間に戻すことだぞ」
その方法は実際知らない。プリズマとは勝手が違うのだろう。
「いうなれば上灘マイは不完全すぎる光り人だ。本当に人間になることができるのかはもうわからない。いずれにせよそのあとのことは本人に任せるつもりで一切考えていないに等しい」
「......」
サリヱは沈黙していた。しかし口を開いた。
「私はそういうことよくわからないけど、ユウがやろうとしてることは良いことだと思えない」
その返答は予測していた。しかしサリヱの抵抗までは読めなかった。読めていたとしても、俺は平静を保てていただろうか。
「あの人たちにも、そう言い切れるの?」
サリヱの指差した俺の後ろに、男と女が並んで立っていた。幾度も写真で見た二人だった。写真だけしか見れなかった二人だった。桜瀬夫妻の二人がいた。
「洒落たことをする」
呆れてそれ以上のことは言えなかった。二人は一言も発さずに虚空を見つめている。その顔に生気はない。サリヱが自身の記憶をベースにイメージで補強しながらヴィジョンをみせているに過ぎない。ここではサリヱの意のままに空間は捻じ曲げられ時間は歪む。誰を作り出すも自由自在というわけである。
それにしても悪趣味。二人はサリヱが作るにしては割と精巧である。
「俺の記憶を覗いたか」
今のサリヱは俺の身体の中にいたときのサクラと同じ状態と言っていい。
「見れるんだから、悪い?」
「別に俺の親はマイとカホコじゃない。深海でもない。この二人でもない。俺に親はいない」
「前まで桜瀬こそ俺の家だ、みたいな感じじゃなかったの」
「お前は何もわかってない。これ以上は無駄だな」
分解と吸収を加速させる。主導権は俺に移行し、サリヱの作り出した幻の世界は維持できなくなる。世界の端の方から綻び始める。
「お別れだ、プリズマのサリヱ......」
「ちょっと待って、私もユウの計画に付き合うって。なんだってやるから、だからやめてよこんなこと。私から取らないで!」
「ごめん......」
「謝らないでよ。なんで謝るの、あの子のこと私よりも好きなんでしょ。彼女の為なんでしょ、やろうとしてること」
全てが誰かのためということは決してありない。人はどこかで打算を含む。善意の中に必ず自分以外を思うようにしたいという欲が潜む。幻の天乃は消えていく。俺が天乃であの三人たちと同じことをすればこうなるのだなと不意に思い浮かぶ。
「姉さんを引き受けたから、ちゃんと家には帰るよ。あの二人の元へ返さなきゃいけない。帰るんだけどさ......、本当は帰りたくないんだよ、俺は、天乃に......」
「帰りたくないって......」
「夏休みに三人で映画一緒に作ってさ。こんなことは初めてで、本当に楽しかったんだ。ジュンと塩浦の誕生日会も一緒にやったな。合宿もやって学校に寝泊まりして、初めて皆で同じ釜の飯を食べた。あいつらは本当に出来た人だよ。本当に本当に、本当に素敵な人間なんだ。だからさ、嫌でも思い知らされるんだよ......。俺がもう死んでいるってことを」
自分が口にした言葉を正しく認識できないことが人にはあるという。思いがけず出た言葉、脳の障害。様々な原因があるのだろう。俺のこれは、一体なにか?
「そんなに驚くか......」
「えっ......」
サリヱは理解できていなかった。俺がこの一年以上理解したがらなかった難問でもある。そう簡単に理解されても困るというもの。
「なあサリヱ、俺はお前にだけは最後までプリズマでいてほしかった。でもプリズマのままじゃ、同じ悲劇を繰り返すだけだとは思わないか。マイはただ未来だけを、カホコはただ過去だけを見ていた。でも改編の糧になる光り人の力は人の記憶から生まれるものだ。人の記憶は昨日があって初めて存在し、それそのものが明日を夢見るためには必要なものだ。だが、それは今日があってこそだとは思わないか? きっと三つを求める人にこそ、光り人の力は相応しい。君たち普通のプリズマでは望む世界の改編は不可能だ。俺達にしかできない。そしてそのためにはどうしても君の因子が必要になった。君の因子は俺が貰う。だが君の記憶だけはそのまま残す。もう人の記憶を消すのは御免だからな」
幻の、綻びの中の天乃は俺の知っている天乃とは違う天乃であるというのに、ずっと前に見たことがあるような気がした。
これではない本物の天乃にはジュンがいて、塩浦がいて、ハルカがいる。今はサクラもいる。自分の中でずっと前から蓋をしていたこの黒いものは、もう決して消えることのないものだ。例え死んでいなかったとしても、人間ではない、人間でいたことのない偽物は、はたしてそれでも生きているといえるのだろうか?
「きっと、俺は、これは管をつながれたままの死にかけの身体か、霊安室で冷たくなっている骸が、その生涯の最後に見ている夢なんだ」
「夢なら、夢なら楽しくなきゃ意味ないよ」
俺は返す言葉のないまま、サリヱはこの世界から消えていた。自分が作った世界の始末くらいしてほしい。しかしすでにこの世界も俺が掌握している形になる。この幻の世界の先にある世界。これこそヒロトさんの言っていた”あの世界”。あたり一面は真っ白でありなにも存在しない。世界全てが撮影用の白い布と言っていい。まるであの世である。
「”白い世界”とでも言うべきか」
独り言は飲み込まれて消える、はずだった。
「センスは相変わらずないね」
無風の世界で靡く髪の毛、四月よりは短い丈のスカート、私服の白いブラウスに添えられた胸元の小さいリボン、ハルカだった。
「ど、どうして......」
右の人差し指を俺の鼻先に押し当ててハルカは答える。
「誰かさんの帰りをずっと待ってて、そしたら過労で倒れちゃってね。日帰りで済んだけど入院しちゃって。そこで、聞いちゃったんだよね......」
「聞いたって、ま、まさか......」
「そう。入院したのはこの前私が入院したのと同じ病院。そしてユウが一年前の事故で運ばれて、そして......、一度死んだ病院」
「俺の話を聞いたのか......」
「そしたら、急に今まで忘れてたこと、断片的に教えてもらったりしてたけど全部は思い出せなかったことも、今なら全部思い出せるよ。あの日のことも」
白い世界はそのままプロジェクターを映すスクリーンに変化した。あの日の記録を映し出す。俺たちは、五年前からを振り返る。
「あの日。波風カナは死ぬために土手にいた。でもサクラちゃんを探していたユウは、サクラちゃんを助けるために、暴走したトラックに撥ねられた。私が駆けつけて、その瞬間に失くしてた記憶が戻った。私は水之上ハルカで、その四年前の三月には一度出会ってて、その三カ月後にまた会う約束だったよね」
「丁度舞台『ヒカリビト』の公演日が近かった。俺は観劇のチケットを渡そうとしていたんだ。そこでカホコの実験によって暴走したトモユによって記憶喪失になった。単純にカホコの光り人の力が強すぎてハルカとトモユ、二人の記憶が影響を受けたんだろう。その結果としてハルカは記憶喪失になり波風家へ。トモユは自身の役の台詞を忘れたために公演直前で配役の変更が行われた」
「撥ねられたユウを見たとき、ユウだって気づいて、どうにかしなきゃって。そうしたら」
ハルカはここで光り人として覚醒した。
「これって、自然なものじゃないよね?」
「きっとマイさんがやったことだろうね。あの人はかなり近くで気配を消しながら俺達を観察していたんだ。針ヶ木劇団、桜瀬家、そして君も」
ハルカの覚醒こそマイが願ってやまなかったことだろう。
「確かに、マイさんは君を普通の光り人として覚醒させたかったようだね。肉体を持ったまま覚醒した”完全な光り人”に」
「ジュン君のお母さんとは違うってってこと?」
「ああ、それこそ人が本来辿る進化の道だ」
ハルカは五年前、十年前とも変わらない。無風のはずのこの世界で靡く髪こそ、彼女の特異な存在を立証していた。
「でも一つ大きな誤算が生じた。君はさらにその先へ至った」
「真の光り人なんだね、私」
「その力を無意識か、それとも理解したうえでか、君は俺の身体を必死に治そうとした」
「その間にユウは私から力を吸収し、治療よりも私が今後この力を理由に狙われることを危惧してその存在を記憶ごと封印した」
「それに加えてマイさんが打ち込んだ因子も分解して貰っていた。もう君が覚醒することはないと思っていた。でも再び覚醒した」
「私が本当に聞きたいのはここだよ。なんで、なんで私はうまくやったはずなのに、なのにユウが......」
「本当は君には打ち明けないつもりだった。だけどもう君は俺よりも上位の存在だ。やろうと思えばなんだってできる。それに君が知りたいと願うなら、それは叶うべきだ」
「それじゃあ教えて、ユウ」
今最愛の人を、俺は傷つける。決して消えない傷を彼女にこれからつける。今までも幾度と彼女を傷つけた。これはそのどれよりも重い。
「傷を治す途中で、ハルカは”真の光り人”に覚醒した。それに伴い光り人の力も変質した。変質した光り人の力は、効果が発揮されるまでに時間を要する。つまり、俺は間に合わなかった。だがその骸は動き出し、今ここにいる。ハルカの目の前に」
彼女の瞳は溢れる雫を抑えられない。ただ抱きしめることしかできなかった。
「俺は生き返ったのかな? 死んだままなのかな? その答えはもうきっと出せない。出したくないんだ」
きっとただの光り人の力では死んでいただろう。狭間にいるというのは主観でしかなく、誰がどう見たところで俺は生きていると認識されるだろう。ならばそれでいいと俺は言いたい。ただし彼女の前ではそうもいかない。
自らが苦しみの中にありながら、手にした力のその意味も知らないうちに惜しむことなどせずに、ただただ死なせたくないと願った彼女の想いの力で俺はここにいるのだ。誰がその願いを、無下にできようか。願いの結果が望んだものと違っていたら、嘘をつけばいい。貴方の願いは叶いました。その一言で彼女は笑顔になるだろう。だが、それで本当に守れるものは一体なんだ?
再び動き出した骸は必死に嘘をつき続ける。嘘の演技には自信があった。隠し通すことは造作もない。しかし彼女は真相の扉に両の手をかけた。彼女を欺き続けるよりも、知りたいと願った真相を話したかっただけかもしれない。きっとこれは甘えでもあるのだ。彼女ならば今の俺を受け入れてくれるという他人への期待。
深い水の底に俺はいる。その俺を確かに引き上げる人がいる。触れる身体は、手は、唇は熱を持つ。水の底にはない熱を。口づけで俺にくれたその一息で俺は光り揺れる空を見るところまで浮上してきた。貰った一息はこのためにあるのだと強く確信し、繋がれた腕を振りほどいて熱を持つ人を水面へと押し上げる。二人で沈んではいけない。沈むのは俺一人だけでいいのだ。




