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光り人の街  作者: 鳴海 秀一
42/73

側面

 鈴懸高校では一年生の間だけ水泳の授業がある。天乃市のあるS県では高校からは水泳の授業のないところがほとんどである。鈴懸高校では姉の事故があってから復活したらしい。

 「ユウ、ボーっとしてないでよ」

 「深海さん、熱中症ですか?」

 七月を待ち焦がれる空から降り注ぐ日差しは俺をのぞき込む波風の顔を輝かせていた。ホースから流れ出た水飛沫は、その顔で陽を反射していた。


 昨日さばみそ、波風の中の例の人物に言われていたことを反芻していた。

 「波風カナが好きだと自覚すること」

 これに一体どのような絡繰りがあり、俺が今一番しなくてはならないことなのだろうか。そもそも、あの言い草だと、既に俺が波風カナに対する好意を、少なからず抱いているということではないか。そしてそれがごく普通のあたりまえの様ではないか。

 今日はまだ波風と顔を合わせていない。同じクラスでないというのは益になることもある。昼休みの弁当の試食会にも行かなかった。

 「久し振りだね、昼休みにユウがここに来るの」

 図書委員のサリヱが貸し出しカウンターの中から声をかけてくる。

 「そういうお前と話すのも久し振りだぞ」

 「そうかもしれないけど、毎日顔は見てるじゃん」

 「ん? 俺は必要以上に他人の顔は見ないぞ」

 「あ、あ~っと」

 「お前この前から調子おかしくないか?」

 サリヱは土手で別れてからまともに会話がなかった。それよりも今こうして言葉を交わしていることの方が奇怪に感じられた。

 「この前は無事に帰れたか?」

 「この前......、あの日ね。問題なかったよ。せっかく来てくれたのにごめん」

 「未だによくわかっていないが、気に障るようなことを済まなかった」

 「そんなことないよ。私ね......」

 予鈴が鳴り、サリヱの言葉を遮る。サリヱは口を止める。予鈴が鳴り終わっても彼女は何も言わない。

 「何か言いかけてなかったか」

 「ううん、それより授業遅れちゃうよ?」

 「戻るのはお前と一緒でいいだろ」

 「わかった、ちょっと待ってて」

 サリヱはパソコンを処理してカウンターから出てくる。廊下に出たサリヱは変わらず華奢にみえた。

 「ん、どうかしたの?」

 「いいや、なんでも」

 彼女を追いかけて教室へ急いだ。歩き出してすぐに呼び止められる。

 「深海、今日の放課後空いてるよな?」

 福山先生だった。

 「空いてますが、何か?」

 「プール掃除を手伝ってくれないか? 水泳部の顧問の先生が怪我で負傷しててな」

 そうして今に至る。俺のクラスも波風のクラスも今日は水泳の授業はない。よって体操服である。水まきホースは文字通り彼女らに主導権が握られた。持っていたホースを塩浦のデッキブラシと取り替えて、波風が駆け寄ってくる。

 「深海さんと話をするのがとても久しぶりな気がします」

 「ちょこちょこ学校に来なかったりしたからな。確かにそうかも」

 「どこか具合でも悪いのですか?」

 「いやそういう訳じゃない。俺は不良生徒だから、かな」

 「それって理由になるんですか?」

 「ならないと思う」

 波風は笑う。学校なんて何も拘る必要はなく、行く必要も俺にはない。それでも移行と思えるようになって良かったと今なら言えそうな気がしていた。

 「四月の頃はあまり学校が楽しくなかったけど、今は楽しいと思う」

 「嬉しいこと言ってくれるじゃない、ねえカナちゃん」

 「盗み聞きするなっ」

 「振り回したら危ないですよ」

  「波風カナが好きだと自覚すること」先日さばみそに言われた言葉を思い返す。波風カナが好きかどうかはまだわからない。 

 そのとき何かの強い気配を背中に感じて振り返る。水の抜かれたプールには俺達の他に誰もいない。校舎の方を見る。誰かがそこにいた気配は感じるが人の姿はなかった。冷たい水が顔にかかり、時を忘れる。


 プール掃除を終えて三人と別れる。俺は下校せずに校舎に残っていた。昼間の福山先生の頼み事はプール掃除だけではなかった。むしろこちらが厄介な難題であると直感していた。それは、専門外故に。

 いつものように厚いカーテンで閉められた美術室は、画材の匂いが以前よりも感じられなかった。それは彼女の抱える問題を端的に説明していた。半袖のサリヱは笑う。

 「言っちゃうと、スランプってやつなのよ」

 「全く描けないのか」

 あらかじめ自動販売機で買っておいた缶ジュースをサリヱに手渡す。好みは知らない、オーダーも聞いていない。自動販売機の中でミネラルウォーターを除いて一番安いやつを選んだに過ぎない。

 「いいの? おごってくれるの?」

 妙な照れくささを覚える。無言のまま押し付けて受け取れと、身振りで伝える。

 「ここほんとは飲食禁止だったと思うんだけどな。でも私はリンゴジュース好きだから許そう」

 「微かに焼き菓子の匂いがするぞ。それにごみ箱に菓子の類の包装が、たまに」

 「言われてみればそんな匂いするかも」

 栓を開ける音が部屋に響く。甘いリンゴの香りが鼻を刺激する。飲み始めは中身をこぼさぬようにゆっくりと缶を傾ける。

 「そろそろ本題に入るか。スランプの原因はあるのか」

 「自覚はないよ。多分原因とかはないと思う」

 「ある日いきなり」

 「そう。そもそも高校に上がってからはまともに」

 「相談に乗っておいて申し訳ないが、俺は普段から絵を描いたりする訳じゃない。あまり力になれそうにない」

 「それは知ってる。こういう場合、自分以外の他人ってあんまり頼りにならないんだよね。自分の絵と自分の活動の問題だから」

 「スランプといえば、絵を描き続けていないとスランプはやってこない、なんて言うよな」

 「絵をちゃんと描いてたらそうかもね」と、彼女は首を先程よりも大きく動かす。静かな室内に液体の流れる音が消えていく。

 「絵を描く以外は、普段何かしているのか?」

 「あんまり何もしてないかな」

 「吸収作業は何も?」

 「何も」

 芸術作品を生み出す人種は他者の作品に限らず、世界のありとあらゆるものから着想を受け、吸収することが重要とはいつかどこかで聞いた話であった。

 「サリヱは例の美術部OBの絵に惹かれて絵を描くようになったんだよな?」

 「その舟次郎先輩、私も個人的に探してるんだけど、所在がわからなくて」

 まるで、実際に会えば全て解決すると確信しているような口ぶり。

 「あれ、そのOBのことはどこで知ったんだっけか」

 「私のお母さんが持ってた、コンクールの展覧会のパンフレットだよ。お母さんはここの出じゃないけど」

 「それ、いつのなんて言うコンクールか、今わかるか?」

 流石にファンを自称するだけはある。スラスラと彼女の口から語られる、必要以上の情報に耳を傾けながら目的の情報をメモに書き留める。

 「やってることが刑事みたい」

 「どちらかというと探偵じゃないのか」

 実際にはそこは重要ではない。

 「調べても何も出てこないと思うよ。私だって調べたんだから」

 「ちょっと気になることがあるからな」

 サリヱの調査能力がいかほどかは把握していない。しかし一度調べたうえで何も手掛かりなし。ということはこのOBが名前を変えているとしか、考えられなかった。それなりに年数が経過しているとはいえ、首都消滅により赤の他人に成り済ます人間も、それなりにいたと聞く。それは近年でも変わらずである。そのようなノウハウが蓄えられた結果、とでもいうのか。

 いずれにせよそんなことは些細なことだった。素性を隠す人間など思い当たる節しかなかった。この件はそうかからないうちに結論が出るだろう。今憂慮すべきは結論が出たところで、サリヱには一切の影響がないかもしれないことだった。寧ろ逆効果となるかもしれない予感が俺にはあった。

 「舟次郎先輩のことは一旦俺に任せてくれないか。その間、少しでもサリヱは自分の作品と向き合ってほしい」

 「作品の方はいいけど、負担にならない?」

 「俺だってサリヱの絵を観たいんだ。これくらいなんてことない」

 「そういうの、言ってて恥ずかしくならないの?」

 「歯が浮くとは、自分でも思うよ」

 思っていることを口に出しているだけである。故に恥などは感じない。深海ユウとはそういうシステムである。

 「こっちはそれなりに恥ずかしいんだけど......」

 最後の一飲みを終えられた空き缶は固く彼女の両の手で包み込まれていた。

 「プレッシャーに感じていたら、申し訳ない」

 恥知らずだった。

 「あっでも、嫌じゃないからねそういう風に言ってもらえるのって、すごく嬉しい。ありがとう」

 空いていたことに気づかなかった窓から風が吹き込んでいた。揺れるカーテンと夕陽。そして、俺の知らなかったサリヱが笑っていた。


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