理解
いつものように、彼女は受付にそこにいるのが創世からの当たり前かのように存在していた。肩より長い髪はより彼女の存在を美術品のように思わせる。
「お待たせ。さっきはすまなかった」
「いつもあの人たちとあんな感じなの? 私はついていけそうにないや」
「無理をするものでもないさ」
「一緒にいた中学生の男の子もいつもの顔なの?」
「ああ、塩浦の彼氏さ。諦めろよ?」
「私は年下に興味ない」
「なら結構」
「と、ところで。私に用って何なの?」
受付から立ち上がり一般の座席へ場所を移す。図書室には俺とサリヱの二人だけだった。
「それで、私に用って?」
「上灘舟次郎について、君はどこまで把握しているのか今一度聞いておきたくて」
「それに答えるのはいいのだけれど、私の質問に答えてからにしてほしいな」
「意外だな。君が他人に興味を持つとは」
「ユウだからよ。ユウだから興味があるの」
「それで、君の質問とは?」
「ユウは、桜瀬の家にいたのよね?」
「ああ、十年もいなかったがな」
「家族になるのに時間は関係ないわ」
「似たようなこと、二人にも言われたな」
「私の質問は一つだけ」
サリヱの瞳は長い前髪に隠れながらも一直線に俺を捕らえて離さない。深い底へ吸い込まれる瞳をしていた。
「あなたは何故、深海の姓を名乗っているの?」
「そんなに奇妙か」
「単純に疑問に思ったのよ。この前の話を聞く限りじゃ、桜瀬家の人を深く信頼しているようだし、逆に深海家は全くと言っていいほど話題に出さない。まあそもそも他人との会話が多くないみたいだけど。深海家の屋敷に住んでいないみたいだし、深海家はいい噂なんて一つも聞かない。なのにユウはずっと深海の姓のまま。あの家を立てなきゃいけない理由があるならまた別なんだろうけど。私からすればあんな家、立てる必要を感じないよ」
「お前の言う通りだ。深海の家はハッキリ言ってクズさ」
「具体例って、出せる?」
「一人娘が大事なのさ、あの家は」
「今って、一人暮らしなの?」
「父さん、桜瀬栄一の知り合いが管理しているアパートに世話になっている。身の回りの世話も、一部」
「親父さんは偉大なのね」
「偉大過ぎて逆に自分が霞むがな」
「そんなユウは、どのユウでいたいの?」
「少なくとも、桜瀬は名乗れない。あれは、俺が名乗っていい名前じゃない」
「妥協案が深海だということ?」
「どうせここを出れば誰も俺を覚えていなくなる。それまでの間、何を名乗ろうが記号でしかない」
「どうしてそう言い切れるの? ユウは以前よりも他人と接触しているよね?」
「顔を合わせない人間など、すぐに記憶から消えていなくなるさ」
「私はそうは思わないよ。ユウも本心ではそうは思っていなんじゃないの?」
反証を俺はすでに知っていた。桜瀬栄一はその死後五年が過ぎようとしている今でもこの街にその名前を残している。この五年間でこの街は大きく変わった。首都消滅後も残っていた企業のほとんどはこの街を去り、住民は減少の一途を辿っている。変化は篩である。熱心な桜瀬栄一の信奉者がこの街に残り続けている。
商店街に店を構えているものは全て何らかの形で過去に桜瀬栄一、桜瀬恵と関わっている。波風が入院していた病院も、安曇さんも、関係があった。俺が商店街の多くの人間に良くしてもらっているのも、桜瀬栄一の影響である。野球の試合に融通が利いたのも、喫茶ソレイユを前払いでほぼ不自由なく使えるのもそうである。全てが俺のものではない。
「俺はさ、何があったっていう”情報”は忘れないが、”思い出”はどうしても覚えていられないんだよ。だから人の記憶にも残れないのかもな」
桜瀬の家にいたころの思い出はすでにほとんどが思い出せなくなっていた。質の悪いことにこの前のように夢には見る。そのせいで夢か思い出か、自分では区別がつけられなくなっていた。
「それって......」
「俺は、俺達はそういう風にできているんだ。治すことも元に戻す方法もない」
「ユウ?」
「ああ悪かった。今のは関係ない」
「ユウの話が本当なら、本当なら尚更ユウは出会った人たちを、忘れちゃだめだよ絶対に。たとえ情報だけでも、全てを忘れるより全然いいよ。その人たちがユウを忘れても、ユウが覚えているその人たちは、ユウに力と勇気をくれる人たちだよ」
「そういうものだろうか」
「そういうなの。そのうち私がユウを忘れても、ユウは私のこと絶対に忘れないでね」
「サリヱ......」
「まあ、私がユウを忘れないのが一番なんだろうけど。忘れたくないなぁ......」
「サリヱは、しぶとく覚えていそうな気がする」
「それって褒めてるの?」
「どうかな」
「それで、ユウは桜瀬を名乗らないの?」
「答えはまだだせない」
サリヱに言われて気づいた。きっと桜瀬家への理解が足りていないのだ。姉のことを知りたがったように、二人についても俺はまだ何も知らないに等しいのだ。死んでから理解を求めることは滑稽かもしれないが、それ以外にはなかった。
「きっと、今はまだ答えを出しちゃいけない」
余裕はなかった。焦りが俺を支配していた。呑気に思い出巡りをしている場合ではない。やらなければならないことは多いのだ。
「サリヱ、俺からの質問だ」
「舟次郎さんのことね。実は私も全然知らないのよ。知っているのは十五年前にこの高校にいたことと、美術部部員だったってことくらい」
「当時の教師はもう一人もいないのか」
「福山先生がそうだよ。十五年前からずっと鈴懸にいるんだって」
一度福山先生から話を聞いた方が良いかもしれない。
「福山先生は美術部の顧問だったよな」
「そうだけど、最近は部活自体ないんだよね。放課後に用事があるとかで」
「毎日か?」
「多分それはないと思う。私だって委員会があるから毎日部活って訳じゃないからね」
「もったいぶった割に収穫なしか」
「何か言った?」
「いや何も」
「今度、部活があるときに連絡をくれないか。美術室で俺も先生を待つ」
「わかった」
サリヱとも連絡先の交換をした。
「携帯、持ってたんだ」
「つい最近からな。おかしいか?」
「ううん、変わったなって」
「なんだよそれ」
四月からの俺はそれまででは想像もつかなかっただろう。自分自身変化を感じていた。すべての始まりは、波風と出会ったことだろうか。きっとそれは俺だけではなく、彼女と出会ったジュンやエリすらも大きな変化を感じているのだろう。
それまで二人の間にあった遠慮は、結果的に取り除かれることとなった。それは俺が関わっただけでなく二人の努力の結果である。俺はその過程で一年以上追いかけていた猫に辿り着くことができた。
波風との出会いが、少しでも早ければと思わないと言えば嘘である。我々に時間を思い通りにする手段は存在しない。どれだけ悔しく思ったところで、どうにもならない。桜瀬夫妻の死亡も、桜瀬ミユキの死亡も、サクラとの出会いも、それが最善なタイミングだったのだと慰めることしか手段はないのである。全ては必然の上に成り立っているのだから。故に俺は波風カナとの出会いが好転となっているように、彼女の俺との出会いが好転となるように努める必要があるのだ。これ以上、プリズマによって悲しむ人を生み出さないためにも、まずは彼女からだ。