半端
火曜日、波風による弁当会が開催された。昼休みの屋上で、二人だけの秘密会。
「今日はお弁当の定番、唐揚げです」
「いただきます」
色のついた衣は多少の湿り気があるものの、味はしっかりと感じられる。濃いめの味付けがされていた。その味も特におかしい点はない。火も十分に通っている。何も問題点などなかった。むしろこのレベルの唐揚げを作れるというのに何が不安なのだろうか。
「ちゃんと唐揚げじゃないか。美味しい逆に聞くが何が不満なんだ」
「い、いえ。特に不満などは......」
弁当会は、波風が倒れる前に決まった話である。原因は倒れる前にそのヒントがあるのではないか。
普段の波風を回想してみた。自分は何をやらせてもそつなくこなす、完璧人間のように見えていた。それだけに近寄りがたい印象も少しあった。彼女のクラスのでの様子は僅かしか知らない。リュウジとはほとんど会話をしないのでそこからの情報もなかった。
彼の場合はもっぱら南トモユの話題しか出てこない。表向きはやんごとなき事情により配役交代のあった「ヒカリビト」にてアクシデントを感じさせない完璧な演技を彼は常に高く評価していた。本人がその場にいなかったのは惜しかった。
「深海さん?」
「ああ、何でもない」
波風カナは、野球も運動自体が得意ではないとのことだったが、送球、拾球も問題なくこなせていた。寧ろ懸念点はほとんどが塩浦にあったほどだった。
学業はクラスが違うのであまり自分は知らないが、中学三年の時点で受験高校を変更し鈴懸高校を選択したことは聞いていた。彼女は本来であれば鈴懸よりもレベルの低い高校を受験する予定だったが、二度目の記憶喪失によりレベルの高い鈴懸を選んだとも言っていた。以前の志望校は知らないが、二度目の記憶喪失は程度が酷かったようで、中学の授業についていくのがやっとな程だったとも本人は語っていた。以上の話を総合して、彼女の地頭の良さはかなり高いと言えるだろう。
では一体何が原因だというのだろうか。
「正直何がそんなに心配なのかわからない。もっと自信をもっていいくらいだ」
「自信ですか」
波風の顔が曇ったのを俺は見逃さなかった。
「ちょっと昔話をしてもいいですか」
下を向いていた顔をもたげ、顔を隠す長さの髪を重力に任せて空を見る波風。
「深海君は、『エストガラオ』というゲームを知っていますか?」
「名前だけなら聞いたことがある。数年前に流行っていた家庭用ゲームだったか」
別売りのハードで遊べるRPGものだったか。
「そうです。そのゲームは、とある理由で廃れたんですけど、その理由、わかりますか?」
わからなかった。
「その市場に流通していたものの大半は海賊版だったからです。そもそもの生産数が少なく、追加生産も追いつかないと思われていたので発覚したようです。その問題が発覚したのが、ちょうど今から一年ほど前。私が、二回目の記憶喪失の後に学校に復帰した時期です。当然、クラスには馴染めませんでした。数年以上知能が幼くなった人間を受け入れるほど、できた人間はあそこにはいませんでした。あれから教室に足を運ぶことは無くなりました。あとは卒業までずっと保健室登校でした。私を『カイゾク』と陰で呼ぶ人間と共同生活は不可能でした」
「記憶喪失の波風と、海賊版、つまりはデッドコピーのエストガラオを洒落たつもりの誹謗というわけか。悪質だな」
「ほとんど知らない人間なので、在学中はどうでもよかったんです。でも、卒業してからが一番辛かったですね。卒業アルバムに、その人間たちと笑顔の自分が写ってるんですから」
「写真は嫌いにならなかったのか」
「カメラマンに悪気はないでしょう。それ以上に、中学の同級生は、もう顔も見たくありませんね」
波風は普段は穏やかに微笑んでいることが多い。それこそ彼女の抱えているものの大きさと重さを微塵も感じさせない。それだけに今の波風は、別人を相手しているかのような感覚さえあった。
「私を幻滅するかもしれませんが、今でも本心では、私は貴方たちに心を許していないかもしれません」
最後の唐揚げをこれ見よがしに口へ放り込む。
「もしかしたら、それに毒を仕込んでいるかもしれないのに、よく食べる気になりましたね。話聞いていました?」
「聞いてたさ。気にせず続けてくれ」
呆れたような、安堵にもみえる表情を一瞬だけ見せ、波風は続ける。
「シンプルに言うと、私は信じることができないんですよ。自分も、他人も。自分を信じられないから、味見を深海君に頼みました。他人を信じられないから、心のどこかで距離を取ろうとしている自分に気づいて、自分が嫌いになる」
「俺はてっきりその逆だと思っていた。味見もそうだが、自分の記憶のことも俺に全部任せてくれた。会って間もないのに、信用しすぎじゃないかと思っていたくらいだった。それは、信じられるようになってきたってことじゃないのか」
「だと、そうだといいけれど」
「鈴懸にしたのも、そういう理由です」
「ここにきて、良かったと思うか?」
「ええ。深海君、エリちゃんやジュン君と一緒だと毎日楽しいです」
「ならよかった」
「深海さんは自分で料理をしますか」
「いや、ほとんどしない。安曇さんが料理上手だから余計に。安曇さんに先生を頼めるか聞いておこうか?」
「是非ともお願いします」
自分も他人も信じられなくなっていた波風が、俺を含め信じられる人を見つけられていることは、彼女自身の寛解といえるのだろうか。信頼の定義は人それぞれであろうから、この予測ですら意味をなさないものであることは理解していた。
「ごちそうさまでした。しかし本当に美味しいぞ、この唐揚げ。店を開いてもいいくらいだ」
「お世辞として受け取っておきますね。でも、ありがとうございます」
先ほどのように空を見上げていた波風は眩しさに細めていた眼で俺を見る。こんな彼女は初めてだった。そして俺は彼女の笑顔に旧懐を感じ始めていた。
昼休みの終わりかけ、屋上から撤収する。思っていた以上に唐揚げを食べてしまったらしく動きが鈍くなる。慣れないことはするものではない。
「深海さん、あの、これを見てください」
先に椅子を片付けようとしていた波風が背もたれの裏側を向けて見せる。
「このサイン、以前サリヱちゃんに見せてもらった絵のサインと似ていませんか?」
彼女の示した箇所には黒のマジックで「S・K」と書かれていた。それは確かにサリヱと鑑賞した絵のものと一致していた。
「これは、どういうことでしょうか。あの絵と同じサインですよね」
「このサインの主が、何かの思い出として、この椅子に自身のサインを残した、とかじゃないか?」
「もっと複雑な事情がありそうですよ」
彼女は俺の座っていた椅子の背後に回り込んでいた。立ち上がり同じように背もたれを見る。「MINAIMADAKA」と書かれていた。
「ミナイマダカ......」
「今高美波さんのサインじゃないでしょうか?」
「あの、リュウジも探しているカメラマンの?」
彼女もここの出だというのか?
「S・Kさんと今高さんって同級生だったりしたんでしょうか?」
「なんか、出来過ぎじゃないか?」
「他の椅子にも、サインがあるみたいですよ」
五つの椅子全てにサインが残されており、「kahoko」「TAMA」「S・K」「MINAIMADAKA」「H」が各々の個性を滲ませていた。
「何かの参考になりますかね?」
「前から気づいてただろ」
「何のことですか?」
「まあいい。これはこれで前に進んだ」
「それなら、よかったです」
波風カナは食えない。