出港
俺は想定外の事態に弱い。アドリブは昔から苦手であった。そしてサプライズというものも、苦手である。それを今まさに感じていた。
事務所を出て帰路についていた俺は、アパートの目前で黒服の集団に拉致られた。犯人には目星がついている。押し込められたワンボックスカーに見覚えのあるロゴがあった。須澄グループのものだった。黒服、須澄グループの使用人達の話では、詳しい話は明日になればわかるらしい。そして安曇さんには話を通してあるらしい。完全に騙されていたわけだ。ソレイユを出る直前のトモユがやけに女優のオーラを纏っているように見えた理由をようやく理解していた。
押し込められ連れてこられた先はジュン達が今夜乗り込むクルーズ客船の停泊していた港だった。天乃から遠く離れた地にやってきていた。初県外がこれでいいのだろうか?
「早速乗船お願いいたします。出港までは多少の制限がつきます」
どうやら拒否権も存在しないらしい。初めて乗る大型船に、多少は心が踊っていたがそれすらかき消された。渋々舟の中に入ると、通された部屋までに寄り道はなく、缶詰を強要される。もしも携帯電話を所持していたら、通報すれば助かるのだろうか。初めて悔いた。
部屋は上から三番目のグレードで、明らかに一人用のスイートではなかった。改めて須澄グループの財力を思い知った。今後トモユへの言動は見直すべきだった。
時刻はまだ日付が変わる前、もう少しでその他の乗船客がやってくる頃だろうか。部屋に運ばれてきた夕飯は豪華なものではなく、質素なものであり、いまいち豪華船旅感はいまいち感じない。時間差で運ばれてきた、私服の着替えを見たときには喉を詰まらせそうになったことは言うまでもない。
適当にシャワーを済ませてベッドに突っ伏していた。普段から自室ですることなど限られている。しかし普段と環境がまるで違い、異様に落ち着かない。窓の外は暗くほとんど何も見えない。寝るにしても眠くない。一人でいることが恐ろしく退屈であることを、久し振りに学習していた。
気がつけばベッドで眠りについていた。いつの間にか港は出ていた。初出港を寝過ごしたことによる精神的ダメージはもう考えたくなかった。
部屋のドアの下の隙間から投げ込まれたであろうカードを拾い上げる。トモユの名前と共に綴られていた言葉は良い船旅の祈願とサプライズの謝罪だった。船内で出会うことはほぼないだろうが、それでも心は休まった。備え付けのミニテーブルの上にはいつの間にかルームキーが置かれていた。どうせならば一度に済ませればよいのに、なぜカードとタイミングがずれているのだろうか。ルームキーが置かれているということは、自由に行動してもよいと解釈し、部屋を出る。
想像通り船内の通路はどこも狭い。すれ違う人はほとんどがスタッフだったが、一部は狭さになれていないようだった。客の数が多いのだろうか、普段は関わらない人間も駆り出されているのだろう。時刻は日付が変わって午前の四時前だった。この時期ならば日の出はこれからだろう。めったにできない体験だ、逃す手はない。目指すは船首側のデッキだ。
外はまだ暗く、スタッフに気を付けるように言われた。風もそこそこ強く吹いている。初めての潮風を体中で受け止めて、この星の息吹を咀嚼する。天乃にいては感じられなかった海の上にいるのだ。一人でなければ羞恥で海に飛び込みたくなっていただろう。
それも数分で冷めてしまった。することが何もないのだ。時間の潰し方がここまで下手だった事実は胸に刺さったまま抜けない。どうせなら一本釣りされたほうがましだった。
地平線はほのかに白くなっている。次第に赤みを帯び始め、夜明けを告げようとしている。
「おはようございます」
ふいに話しかけられて身体がびくつく。手すりを握っていたうえに風が強くなければ危なかった。この声に驚くのは、そろそろ終わりにしたかった。
「お、おはようございます。あなたも朝日を?」
波風カナは静かにうなずいていた。このシチュエーションは非常にまずかった。なぜ会話を拡げようとしたのか自分でもわからない。乗船していないはずの人間がいるのだ。アドリブに弱い自分をここでも呪った。
「ええ。貴方もお早いんですね」
できるだけ、できるだけ初対面のふりをする。自然に、ぎこちなさを抑えて会話を続ける。かえって怪しまれては意味がない。他人のふりをすればいいのだ。簡単なことだ、この溝沼ソウスケにとっては朝飯前なのだ。
「私は波風カナといいます。貴方のお名前は?」
「じ、自分は――青海。吉野青海というものです」
「いつまで他人のふりをするんですか、深海さん」
ばれていた。
「そのお名前は、持ちネタなんですか?」
「いやその......即興です。すみませんでした」
「どうして謝るんですか」
「騙すようなことをして申し訳ないな、と思いまして」
「でしたら謝るのは私の方ですよ。深海さんが今ここにいるのは、私の我儘なんですから」
「と、言うと」
「やっぱり、深海さんがいないのは可笑しいと思いまして、サプライズといえば聞こえはいいですけれど、嫌でしたよね」
「嫌というほどではないかな。天乃から出るのは初めてだったし。これでも結構興奮している」
「私の”借り”にしておいてくださればいいのですが」
「そういうのは苦手でね。今回のことは忘れておくよ」
言った後に地雷を踏んだ気がして波風を見る。
「ありがとうございます」
「これでも、君には感謝しているんだ。君と出会わなかったら、きっとサクラの一件も決着がつかなったような気がしている。事実、その先に答えがあったわけだし」
「私は、何もしていませんよ」
「何もしていなくても、いるだけでいいこともあるのさ」
「そういうものでしょうか」
「俺にとってのサクラのような」
「ん? なんですか?」
「いや、何でもない。お、そろそろ日の出じゃないか?」
遥か遠くの地平線の向こうから、光が差し込み始める。それまで空を制していた暗闇を塗り潰していく。西には淡い彩りの雲。周囲に遮蔽物がない朝焼けの西の空が、これほど綺麗なものだとは思っていなかった。瞳を奪われる。
「綺麗な朝日ですね」
「ああ、綺麗だ」
この景色だけでも拉致られた甲斐があったのかもしれない。蒼とも紫ともピンクとも言い切れない色素の混ざり合った空は時間と共に空色へと姿を変えていく。
「日の出、見ないんですか?」
「いや、こっちの空も好きだから。日の出も好きだけど」
「この時間帯を、マジックアワーと呼んだりするんですよね」
「もう少し前の時間帯じゃなかったか? 薄明とかそっちのほうが適切な気もするけれど。どちらにせよ、今のこの瞬間に、名前なんて付けたくないかな」
「そうですね。とても素敵な時間です」
「そういえば、二人は起こさなかったのか」
「お二人とも、朝は弱いから気にしないでくれと、昨日のうちに言われてしまいました。深海さんなら、きっとデッキにいると思っていました」
「お察しの通り朝は強いほうだが、船尾と船首の賭けに勝ったのか。ギャンブルの才能があるのかもな」
「ギャンブルはしませんよ。運は普通なので。深海さんならきっと船首だろうなと」
「強いじゃないか」
「私には賭けるものがありませんよ。深海さんはギャンブルしたいんですか?」
「する価値がないな。賭けられるものはいくらでもあるが、どうせ俺は勝つ」
「プリズマの能力ですか?」
「そもそもしたくないがな」
「余興ならば問題ないかもしれませんね」
「そうかもな」
「ところで、本当になんで船首側だと思ったんだ?」
小さく微笑んで彼女が答えた。
「私が深海さんだったら、船首に行くと思ったからです。簡単なことですよ」
新しい一日の始まりを告げる潮風と生まれたばかりの太陽だけが、俺達を包み込んでいた。今の俺がしている賭けのことは、勿論彼女は知らない。一生知らないほうが幸せなことなのだ。だとしても、この「名前のない瞬間」だけは否定したくなかった。