姉弟
しばらくの図書室通いと並行し、市の中央にある市立図書館本館、高校のPC室を活用して、例の水難事故について自発的に調べ上げていた。このように昼休みはまっとうな理由で姿を晦ませられるので、波風カナ回避には大いに役立った。わざわざ岬探偵事務所ではなく、高校のPCを使用する選択は、サクラの一件を終えたころから意識していた。いつまでも、あの事務所を使うわけにもいかなかった。福山先生を通して、昼休みであれば自由に使えるようにしてもらっていた。元々、希望者には申請のみで提供していたらしく、すんなりと手続きは通った。探偵事務所は時期を見て撤退準備を考え始めていた。
結論には割とすぐにたどり着けた。調べたことを俺は後悔していた。人が亡くなっているのだ。好奇心で行動すればその罰を受ける。当たり前のことだ。真相を探さずにいられないのは、与えられた名前の宿命か、それとも。
「そんなにショッキングだった?」
「ああ。何と言えばいいのか、わからないが」
図書委員の彼女に会うために図書室へと足を運んでいた。いつもと変わらずに彼女はいた。カウンターや座席、場所は様々だが行けばほぼ必ずいてくれた彼女は心強かった。
「サリヱは、中学から一緒だったよな」
「うん。小学校は別々。クラスは今年で初めて一緒。それがどうかした?」
「まずはそこからだな」
「関係あるの?」
業務の終わったサリヱを商店街へ連れ出す。この話のためだけに、喫茶ソレイユを貸し切りにしていた。今日はあかねえはおらず、マスターだけが店内にいた。マスターの淹れたホットのコーヒーを堪能するサリヱは、様々な意味で新鮮だった。
「ユウの奢りでいいの?」
「ああ。この後何か予定があったか?」
「何にもないよ。ユウのペースで、続けて?」
「ありがとう」
今から遡ること三十年前、首都消滅が発生した。都の中にできたとある実験都市のオープニングセレモニー、それが爆心地だった。ここまでは店頭に並ぶような一般誌に何事もなく掲載される内容である。小中の卒業アルバムにも載っていた。
「この天乃市もその余波を喰らった。復興に精力的に参加する若者の姿あり。それが、俺の育ての親の桜瀬栄一だった」
「今って、深海だよね?」
「桜瀬栄一は五年前に死亡しているよ。深海家は引き取り先だ」
当時十八歳だった桜瀬栄一は、その活動の中で一人の女性と出会う。後に妻となる恵だった。そしてその約四年後、二人の間に娘が生まれる。
「娘は九歳のときに死亡している。それが例の水難事故だ」
「ちょっと待って、それってつまり」
「俺の義理の姉というだ」
表現が適当かどうかは些細な問題だった。受け止め難い事実の方が、厄介なことこの上ない。
「元々桜瀬家には娘さんがいて、その娘さんが亡くなったときには、既にユウがいたってこと?」
「そこは若干ズレがある。水難事故は十六年前の四月、俺が桜瀬家に迎え入れられたのはその一年後だ」
「そこまで、わかってるんだ」
「俺を直接、桜瀬家に通した人間がいるからな。彼から少しは聞いていた」
何故藤井さんがこのことを黙っていたのか、俺はそれがわからなかった。藤井さんだけではない。父さんも母さんも、生きている間に娘の存在を一言も言わなかった。今思い返せば、桜瀬邸のなかで、厳重に施錠された一室があり、その部屋に俺は一度も入ったことがなかった。あの部屋こそが彼女の自室だったのだろう。
サリヱに話せることは全て話し終えた。わざわざ喫茶店を貸切るほどでもなかっただろうか。リスクを考慮すればこれが最善だと判断した上での選択なので、問題は何もないが。
「桜瀬ミユキ。彼女が生きていたら、どれほどよかったことか」
「ミユキさん......」
「今日はありがとう。コーヒーは好きなだけ飲んでくれていいから、ゆっくりしていってくれ」
「どういうお客様なの? 年パス?」
「まあ、そんなところだ。今日はいないが、ここの菓子職人のスイーツ、また今度機会があれば、それも」
「嬉しいけど、私甘いの苦手なんだよね」
彼女はブラックコーヒーしか飲んでいなかった。彼女はそう言いながら、帰りの支度を始めていた。
「また学校でだな」
「ユウが、興味を持って自分で調べることを悪いことだと思わないし、それは全然いいんだけどさ。あんまり無茶しないでね?」
漫画ならば、完全に知っている側の台詞を残していったサリヱは、ミステリアスだった。
サリヱには話さなかった事実がひとつだけ存在した。彼女には関係がなく、また自分でもこれをどうしてよいものか、答えが出せていなかった。この事故に関しては俺は部外者でしかない。掘り返すこと自体憚られるべきなのだ。父さんと母さんが俺に隠し通していたことなのだ。それが答えでしかなかった。
安曇さんのアパートへと戻ることも億劫になっていた。ただ、他の場所へ行った先で、彼女らに遭遇することは更に避けたかった。どうすることもできない感情を抱えたまま帰宅してしまった。安曇さんはいつものように彼女の部屋にいた。毎日顔を出しているこの部屋も、今日だけはどこか遠くの誰かも知らない、別人の部屋のように感じた。
「おかえりなさい。コーヒーの匂いがするね。ソレイユに寄ってきてたの?」
「うん。ちょっとね」
「何か食べたいものある?」
「ううん、今日はそういう訳じゃないんだ。ただ、ちょっとあって、舞いってるというか」
「サクラちゃんのこと?」
「それはもう終わったよ。その、父さんと母さんのことで」
「栄一さんと恵さん?」
目立つ表情の変化はなかった。安曇さんもやはり全てを知っているのだろう。夕飯の準備を止めて、テーブルについた安曇さんはいつも以上に、不気味なほどに落ち着いていた。
「安曇さんは、二人に実の娘がいたことを、知っていたの?」
一呼吸おいて答えが返ってきた。
「知っていたよ。私は直接会ったことはないけれど」
「やっぱり知ってるよね」
「調べたの?」
「桜瀬ミユキの死亡事故について、そうとは知らなかったから、偶然だった」
「納得いってないんでしょう?」
「俺を拾った理由がわからない。実の娘の存在を隠して、俺を――――」
「自分で確かめてみる?」
安曇さんは立ち上がり、寝室へと消えていった。しばらくして彼女が戻ってくると、ひとつの鍵を俺に差し出した。古い鍵だった。見たところ、一般的なシリンダー錠用の鍵だった。
「これは?」
「実は、ずっと前から藤井君に渡されてたんだ。時が来たら渡すように、って」
「藤井さんが、これを。どこの鍵かは、言わなくてもわかるだろうって言ってたよ」
自分の中で、心当たりといえば一つしかなかった。桜瀬邸の中で、俺が唯一入れなかった、鍵の部屋。思えば、その部屋こそが、桜瀬ミユキの自室としか思えない。過去に何度か父さんと母さんが、鍵の部屋へ入っていくのを目撃したことがあった。中で何をしていたのかはわからなかった。だが、そのときにもこの鍵を使用していたような記憶がある。右手の中にある鍵は、当時のそれとほぼ一致する。しかし何かが引っ掛かっていた。
「ねえ、預かっていたのって、これだけ? 紐もタグもついてないけれど、一緒になにか装飾が付いていなかった?」
「私はそのままの状態で預かってたよ。ストラップなんかは無かったよ」
「そう......。これ、返すよ」
「え?」
「今はまだ、確かめる気になれない。それに、自分のことは後回しでも問題ないから」
「私、前に言ったよね。タイミングの話。覚えてる?」
「必然ってやつでしょう?」
「そう。今、ユウちゃんは、きっかけはどうであれ、自分で調べようと思って、実際に調べて、ミユキちゃんのことを知った。そしてその時に必要になる鍵を私が渡した。全てのことは、なるようにしかならない。それを捻じ曲げようとしたら、罰が返ってくるだけだよ」
「安曇さん......」
「その問題の部屋に行くかどうかは、追々決めたらいいんじゃない? それとは別に、その鍵は、今これからのユウちゃんに絶対に必要だと私は思うよ」
「わかった。この鍵は確かに受け取るよ。今まで預かっててくれて、ありがとう」
「説得が下手でごめんね。昔から、こうだから」
「――安曇さんって、昔に何かあったの?」
「何もない人なんて、いないよ。辛いことも楽しいことも、人それぞれの形や量を経験して、誰として同じ経験はできないけれど、誰かを慈しもうとする。それが人だからね」
「それは、父さんの受け売りじゃないんでしょ?」
「そう、私の言葉。どうかな?」
「かっこいいと思うよ」
満足げな安曇さんは厨房に戻っていく。
「安曇さん、今から一人分追加って、できる?」
「もちろん」
「ありがとう。俺も手伝うよ」
安曇さんと厨房に立つのは久し振りだった。夕飯の甘口のカレーは彼女の元々の得意料理だった。