甘味
昨日とは違い、店の奥の二人席に座っている俺と須澄トモユは、かつて溝沼ソウスケと南トモユとして針ヶ木劇団の劇団員だった。
「その前に、私が先輩の何に怒ってるのか言い当てて見せてよ。外れてたら文字通り話にならないんだから」
「君に何も言わずに劇団を辞めたこと」
「本当は他にもあるけど、間違いじゃないからいいよ。続けて?」
「トモユは、俺が辞めた理由の見当がついているか?」
「別についてないよ。どうして?」
「今まで何も聞いてこなかったから、見当がついているものだと」
「聞いても答えてくれそうになかったから聞かないことにしてたの。あまり思い出したくないことだろうし」
「その割には復帰を催促してきていたが?」
「いやー、先輩は顔もいいからさ。見ちゃったらまたソウスケになってほしくなるんだよね。不思議と」
「俺だってプリズマだぞ。顔面に価値はない」
「別に顔だけじゃないけどね。声もいいじゃん」
「声を褒められたのは初めてだな」
「そういえば声変わりしてないよね? まだなの?」
「多少は変わったよ。でも多分これ以上は変わらないな」
「渋いカンジの先輩も見てみたいけどな」
「話を戻す。見当はついていないものとして続ける」
「ごめん。私は先輩に甘えすぎてたかなって。台詞を忘れたのは私の落ち度なのに、先輩に全部押し付けた形になっちゃったから」
「当時は流石に驚いたよ。『ヒカリビト』は成功に終わったんだし気にすることじゃないだろ」
「そのせいで先輩が私から主役を盗ったって、ないこと言われたりしてたじゃん」
「別にそれは辞めた理由じゃないよ。もっと前から辞めるつもりだった」
「それって、いつぐらいからなの?」
あかねえが出してくれたコップの水を静かに流し込む。水は既に温くなっていたが、その冷たさはかえって気持ちのいいものだった。
「『ヒカリビト』のオーディションを受けたときだ」
「そんなに前から......?」
「辞める時期は決めていなかったが、この舞台が終わったら辞めると決めたのは、そのときだったよ」
「ど、どうして?」
「トモユは入団オーディションのときのこと、覚えているか?」
「よく覚えてるよ。先輩が初めて声をかけてくれたのが、そのときだったから。先輩は?」
「俺もよく覚えているよ。なにせ、本物の才能に出会った日だから」
「本物?」
「須澄トモユという天才に出会ってしまったから」
とっくに食べ終えていたパフェのスプーンを持て余していたトモユの手からそれが落ちていく。テーブルと音を立てるまでの間は永遠よりも長く刹那よりも短かった。
「い、今なんて言ったの? もっかい」
「拒否する、拒否します」
「ちょっと、それはないでしょ。謝罪のつもりでこっちは聞いてたのに、ねえ」
いつの間にかカウンターの中のあかねえは姿を消していた。空気を読むのは結構なことですが、一応営業時間だと思うのですが。
「というか、なんでそれが辞める理由になるのよ」
「舞台の上じゃなくて、観客席から観てみたかった。それまでの俺はあれでも結構自分に演劇の才能があると思っていた。でもそれが幻想だとあのとき理解した」
甘味の香りがずっとしていた。パフェが無くなった後にも匂いの感覚が頭から離れない。喫茶店だというのにコーヒーの匂いがしていない。これから先、生クリームの香りを鼻に感じる度に、今日のこの時間を思い出してしまうのだろうか。トモユは、これからの人生で、今日のことを思い出すことが、はたしてあるのだろうか。
「初めて君に出会ったあの日から、俺は君のファンだったんだと思う」
でなければホームページを、こまめにチェックしたりしていない。
「舞台じゃ先輩には敵わないから、せめて野球では先輩に勝ちたかったんだ。きっと失くしてた自信を取り戻したかったんだと思う。でも、先輩に褒められただけで解決しちゃうなんて、私ってホント単純なんだな」
「シンプルってことは、余計がないんだから、素敵なことだろ」
「もっと早くに言ってくれてたらよかったのにな。それは先輩には酷か」
ようやく俺も先に進めそうな気がしていた。今まではずっと足踏みをしていたけれど、ようやく先に行けそうな気が。
「やっぱいいことあったんだ。先輩を見てればわかるよ」
「そんなにわかりやすいか?」
「前よりずっとね。新しい女ね?」
「そういうのはよくわからないって言ってるだろ」
「そうだったね。今はそういうことにしておく」
「おいおい」
「ずっと前に聞いたんだけど、候補生の中で私に気づいていたのは先輩だけだった、って。あれ、本当だったんだね」
「斎藤さんか......。それは本当かもしれない」
「私が、本番の数日前に自分のセリフをド忘れしちゃって、みんなや先輩に迷惑かけたから。私に一番怒ってるのは先輩だとずっと思ってた」
「忘れたのが自分の役だけだったからこそ、役交代だけで済んだからな。所謂不幸中の幸い」
「先輩の女装が見られたのは確かに不幸中の幸いかも」
「流石にもう女装はできないな」
「先輩、意外と中性的な顔たちだから、なんでもいけそう」
「そういうトモユは昔から声真似がとても上手かったよな。最初は本当に驚いた」
「みんなをびっくりさせるのは本当に楽しかったな」
深海ユウには今一度「気」が必要だった。もう一歩だけ先へ進むために。
「トモユは、舞台に戻りたいか?」
「あんなこと言った後にそれを聞くのは、卑怯じゃない?」
「すまん」
「まあ、先輩がそう言ってくれたから、戻らなきゃ、って思う。先輩がいなかったら、私はこの世界に入っていなかったし。その先輩が私の才能を保証してくれるなら、信じてみたい」
「それが聞けただけで十分だ」
コップの水を飲み干す。
「わ、私からもいい?」
「なんだ?」
「私も先輩の好きなところ、せっかくだから伝えておくね」
「よせよ」
「説得力、かな。本当にそこにそれまでの人生を生きてきた人がいるかのような、演技の説得力があるんだよね。もうそれは演技というより──」
トモユが暴走し始めたのと同時にあかねえがカウンターに戻ってきたのを確認した。彼女に追加の甘味を所望する。
「あ、そういえば先輩が言ってた三人だかの旅行の件、あれって──」
「ん? なんだ、その話」
「覚えてないの? 試合前最後に会ったときに言ってたじゃん。三人分旅行と私の願いを賭けて一球勝負って決めたじゃん」
「そうだったか、それなら試合の景品で足りるから忘れてくれないか」
「足りてるならいいけど後から欲しくなったら、早めに言ってね。あの船ならいくらでも須澄グループは口出しできるから」
「都合いいときだけ金持ちになるよな」
「お金は使わなきゃ意味ないからね」
トモユが去ったソレイユは別世界のように静まり返っていた。
「すごい賑やかだったね」
「トモユは昔からああだから」
「いや、ふたりともだよ」
「そう?」
「そうそう。彼女は私のお菓子についてなにか言ってた?」
「絶賛していたよ。とても喜んでいた。甘いもの好きだとは知っていたけど、想像以上に反応するものだから驚いた」
「当然でしょ、この喫茶店の看板パティシエの私は、人を笑顔にする天才だからね。それくらい朝飯前よ」
「あいつ、ソレイユのスイーツをずっと食べたいって言ってたから、今日はありがとう。また来るよ。会計はいくら?」
「会計って?」
「ん?」
「面倒だからこれから発生した分だけここから引いてくれって、結構な額の前払いしてたじゃん。昨日の分だってそこから引かせてもらったよ?」
「ああ、そうだった。今日の分でも足りてる?」
「まだまだたくさんあるよ? 逆に引き出す?」
「いや、いいよ。そのままで」
「OK~」
「じゃあまた来るよ」
「いつでもいらっしゃい~」
ソレイユは既にコーヒーの香りが埋め尽くしており、甘い香りはその存在すら感じさせなかった。