融雪
四月十五日土曜日、天乃市は快晴、絶好の野球日和。彼ら三人は天乃市北西部に位置する岩占地区の市民球場にて、アマチュア野球の試合。俺は探偵事務所向かいの喫茶店にて、行方不明の猫について話を聞くことになっていた。探偵事務所ではなく向かいの喫茶店「ソレイユ」を落ち合う場所に指定したのは先方だった。先方はこちらに連絡するよりも前に、ソレイユに話を通していた。マスターは先方の要望を聞いており、土日は一か月分貸し切りにするつもりだったと話していた。事を急ぐべきだと考えていた俺は今日を選んだ。
彼らの試合とのブッキングは避けたかった。トモユとの約束も反故にしてしまった。彼女には別途埋め合わせが必要だろう。
ジュンにとっては避けて通れないものであり、部外者が介入するべきではないのだ。
「試合に出れない!?」
月曜日の教室、塩浦の声が響く。俺と塩浦は同じクラスで波風は隣のクラスだが、休み時間には波風が俺たちのクラスに、入り浸るのが日常になりつつあった。俺と塩浦の席はそれぞれ連番であり、前方の塩浦の椅子に波風が座り、背中からもたれかかる形で塩浦が覆いかぶさる。今朝も肌寒いので恐らく二人には温かいのだろう。
朝早い時間なので教室に他の人はいなかった。
「試合に出るんじゃなかったの!? え、なんで出れないの!?」
今までにない動揺を見せていた。
「その件なんですが」
「俺から話すよ」
波風を遮り、事の詳細を説明する。
「一年前から行方不明の猫を探していて、詳細を知ってるかもしれない人と連絡が取れて、向こうの都合との兼ね合いで、土曜日になったと。それで、試合に出られないっていうこと?」
「ああ。というか、試合に出られるかどうかはわからないと、事前に伝えていなかったか?」
「まぁ、練習に付き合うと言っていたね。試合に出ないとは思わなかったけど。まさか」
塩浦は自分よりも小柄な波風に密着している。どことなくジュンと同じ扱いのよう。見ようによっては波風に当たっているようにも見える。
「場所は? 終わったら優勝トロフィー持って邪魔する」
「商店街の喫茶店、ソレイユだ。あの”ケーキが美味しいところ”だ」
波風は一瞬瞳を輝かせた。
「だが来るな。ただ、終わったら打ち上げに是非とマスターが。チームのみんなにも伝えてあるそうだが、聞いているか?」
いつかの日に波風が気になっていた喫茶店だ。優勝したら奢ってあげたほうがいいだろう。
「聞いてないよ。それならそうと」
「この際なので一応聞きますけど、、エリちゃんは右目を怪我した白い猫に心当たりありませんか?」
「いいや、見たことないと思う」
少しの間記憶を辿り塩浦は答えた。
「その猫は、首輪はなしで、人懐っこかったから飼い猫だと思ったんだが。心当たりがないなら別にいい」
傷は明らかに付けられていたうえに、時間が経過していないものだったので、脱走前の状態ならばただの白い猫であるはず。この前提が間違っていた場合、俺のこの一年は無駄だったわけだが。
「私も心当たりないかな。ジュンちゃんの家もないと思うよ」
塩浦エリの父は猫アレルギー、月島ジュンの父は猫嫌いで飼育を禁じられているのだそう。
「私の家とジュンちゃんの家、家族ぐるみの付き合いってほどじゃないけど、それなりに親交ある方だから」
誰もそこまで聞いていない。
「私の両親も心当たりはないと言っていました」
「ああ、ありがとう。わざわざ聞いてくれたのか」
「ジュンちゃんには私から伝えておこうか?」
「俺から伝える」
ジュンは心底失望した顔をしていた。俺が読み取ることができた情報はそれだけだった。
ソレイユで人を待つ。店には俺とマスターしかいない。専属のパティシエがいるのだが今日はいないらしい。
覚悟と諦めは等しくなかった。探し回った時間と、連絡を貰ってから過ぎた時間が等しいのだ。情報を脳が拒絶する結果として、記憶を失うことがあると聞く。あれから1年が経っているのだ。それを受け止めるだけの覚悟を、あのカウンターの中のコーヒーができあがるまでに、拵えることができないのならば、今から試合に走ったほうがきっとマシだ。
「気持ちはわかるけが、落ち着きな」
マスターがコーヒーを持ってきてくれた。サービス扱いに感謝し、頂く。口をつけようとしたそのとき、店のドアが開く音がした。夫婦にみえる二人組だった。男性は女性を支えているようにみえた。
マスターは気を利かせたのか、二人分のコーヒーを出した後に店の奥に消えていった。店の中はクラシックが流れており、常人であれば少しの睡魔と踊っていただろう。
「自分は深海ユウです。岬探偵事務所に猫探しの依頼をしたものです。今は分け合って自分が調査をしています」
「君が深海君......。はじめまして、息子が世話になっています。月島ジュンの父親の俊介です。こちらは妻の万奈美です。私は妻の付き添いで来ました」
目的の人物は、月島ジュンの実の母親だった。どことなく顔も似ているので不思議ではなかった。お父さんは現職の刑事だった。もしかしたら岬さんとどこかで出会っているのかもしれない。
万奈美さんは専業主婦だという。店に入ってきてから彼女の様子がおかしかった。俺の反応が伝わったのか、俊介さんがゆっくりと口を開く。
「深海君は白い猫を探していると聞きました。その猫のとこで、妻が心当たりがあるみたいなんです。ですが、妻は数年前から精神的に不安定な状態でして」
合点がいった。先週の練習でジュンの到着が遅れたことにも関係があったのだろう。
「俊介さんは、猫のことはご存じなかったんですか」
「ええ。妻から聞くまで全く知りませんでした。恥ずかしながら」
猫探しの情報を開示しても反応が今の今までなかったのもそのためだったのだろう。見れる状況になかったのだ。届いていないのであれば、無理もなかった。
「今日会わなければならない人がいる、と聞いたときは驚きました。まともな状態ではなかった妻が、いきなり人と会うと言い出したので」
ならば、俺は報いなければならなかった。
「万奈美さん、話せそうですか? 筆談でも私は構いませんよ」
俊介さんは店の外で待っている。万奈美さんが話す決心をしたが、俊介さんには席を外してほしいと告げたので何も言わずに退席していった。そして、いつの間にか裏口から外に出ていったマスターと立ち話を始めていた。
「深海君は、塩浦エリちゃんとも知り合いなんですよね?」
「ええ、順番は彼女のほうが先でした」
やはり、彼女も関係あるのだ。主に母親が。
「エリちゃんのお母さんのことは、知っていますか?」
「自分はそこまで知りませんが、塩浦レミーは名の知れた歌姫であり、亡くなったいまでも多くのファンがいる、と聞いています」
俺は少しだけ塩浦レミーについて調べていた。彼女はイギリス人の父と日本人の母を持つハーフであり、身寄りのない子どもたちへの支援や施設の手伝いをするなどの、慈善活動を積極的に行っていた。そこで後に夫となる塩浦惣一郎と出会う。第一子を授かるが、今か十年前に事故で亡くなっていた。
「私と彼女、実は君と同じでスズカケの卒業生なんです。在校中から才能を見出されていた彼女はとても遠い存在だった。だけどいつも私を見捨てたりしなかった。なんでああいう素敵な人から先にいなくなっちゃうんだろうって、彼女のことを考えるたびに思うんです。あ、すみません。ひとりで長々と」
「構いませんよ。それに自分もその気持ち、わかる気がします。自分にとって大切な人ほど先にいなくなってしまう。そして残された自分の不甲斐なさを嫌でも突きつけられてしまう」
コーヒーを一口流し込む。深いコールタールのようなブラックだった。俺はしょっぱくあることを期待していた。熱が口を僅かに温める。
「その彼女とはお互いに結婚してからも連絡を取り合っていたんですけど、ある日突然自らの死期を悟ったようなことを言い始めたんです。娘をよろしく、って」
万奈美さんもコーヒーを口にした。死期を悟ったような行動をとる。この街においてそれはあるたった一つの結果を指し示すものだ。しかし、それを知る人間は僅かしかいない。
「そして、彼女からの頼みの中に、深海君の探していたという、猫がいました。間違いないかと思います。雪のように白くて、清らかでした」
動悸が速くなるのを感じた。身体はこわばる。
「彼女は、子どもたちだけじゃなくて捨てられた野良猫たちの面倒も見ていました。なのに私は自分の子供に母親を演じることすらできなくなっていました。彼女とは比べ物に鳴っりません」
猫を探してるときに聞いたことがある。かつて避妊手術等の諸費用を全額負担していた婦人がいたと。名前も知らない彼女に倣って、私たちも保護をしていると、話を聞いた人たちは話してくれた。その婦人が塩浦のお母さんだったのだ。
「それで、その猫たちはそれから」
「話して、構わないということですね?」
引き下がる最後の機会だった。深海ユウよ、今がその時だ。
「続けてください。覚悟はできています」
空のカップに残された温もりを確かめて手を離す。
「私も自分ができることをしていたつもりでした。あの日が来るまでは」
「レミちゃんに教えてもらっていた場所で、頼まれていた猫たちの様子を、みに行きました。他の猫よりも具合が悪そうにしていた猫がいました。それが私と例の白い猫の出会いでした」
彼女は逞しく見えた。
「外傷はなさそうだったから、中の問題だと思って、急いで病院に連れていこうとしました。でもその途中でその子は脱走してしまいました。それからしばらくしたら、家の前で、冷たくなっていました」
俺はなぜか急に紅茶が飲みたくなっていた。
「自分は、あの猫がいなくなってから、探し回って一度みつけることができました。ですが、暴走したトラックに撥ねられて生死の境を彷徨いました。自分はあの猫が助けてくれたのだと思っています。あなたとレミさんが猫の味方で本当によかった。でなければ俺はもうこの世にはいなかったでしょう」
店の外から俊介さんに声をかける。マスターも一緒に戻ってくる。
「大体の話は聞き終わりました。詳しくはお母さんからも聞いてほしいのですが、私はお母さんの勇気ある行動で、自分の探していた猫は助けられていました。それがわかっただけも十分です」
そのとき、店の電話が鳴る。外にいたマスターが受け取るが、どうやら相手は俺を指名しているらしい。
「深海さん、無理なお願いなのはわかっています。助けてください」