桜雨
今年も桜の季節に雨が降った。毎年の悪天候はこの街特有のもの。そして昔から変わらないこの公園の桜は満開だった。古びたビニール傘を差して、君をあの桜の下で待つ。舞い散る花びらとしずくたちは静かに、そして儚げにその一瞬を彩る。地面には水たまりと桜色、そして波。落ちてきた桜色を静かに手のひらで受け止める。そして、君と初めて出会った日もこんな雨の舞う日だったねと、独り思い返す。
朝から雪に見舞われる四月。窓の外に気を取られていたら自分の順番が来た。
「深海ユウです、よろしくお願いします」
入学式前のホームルームでの自己紹介を雑に済ませる。この名字になり、もうじき五年になるが一向に好きになれない。他の人は自己紹介に入部希望の部活の発表を付け足すなどしている。付け足す意味がわからないが。
ホームルームが終了し体育館への移動が始まる。廊下は寒い。窓の外で桜を散らす雪は、まだ止みそうになかった。
昼から始まった高校生活初日が終わり、雪だというのに穏やかな昼時の天乃市をひとりで歩いていた。
家までの道から少し外れて、大きな河川の土手に出る。昔からそこにある公園も大きな一本桜で彩られていた。雪は積もらずに溶けて水たまりを作り出していた。
誰も居ないと思っていたが人がいる。同じ高校の制服、肩より少し伸びた髪を優しい風になびかせていた。後ろ姿だけで、彼女が品性の整った人間であることが感じ取れた。声を聴かないことにはクラスメイトか否かの判別はつかないが、教室にこれほどの気品の持ち主は思い当たらなかった。恐らく別のクラス。
彼女は桜の樹を見上げている。彼女の邪魔にならぬよう、引き上げようとしたその時に声をかけられた。
「あなたは桜、好きですか?」
例の彼女がこちらを見つめている。
「好きであり嫌いでもある、かな。憂鬱になる。あなたは?」
「私は波風カナです。これからよろしくおねがいします。あなたも同じ学校ですよね?」
「えっと、名前ではく、桜が好きかどうか聞いたんだ」
「あっ、これは失礼しました。私は好きですよ、桜」
「俺は深海ユウだ」
彼女の家は逆方向らしく、この桜を見るために寄り道をしていたらしい。寒いので早めに解散したかった。できることならば、これ以上彼女と関わりを持つことも避けたかった。
「深海さんはこの街の人、ですか?」
「そうだが」とだけ答える。公園には俺たち以外の人はいない。雪が降っているのだから当然である。
悪天候にも関わらず花見をしている俺たちが異質なのだ。異常であることには慣れていたが彼女が異常扱いを受けることは不憫だと思った。彼女はなにか話があったのだろうが。
「詳しいことはまた後日にしましょうか。今日は冷えるみたいですからね」
彼女に杞憂は見透かされていた。
「ではまた明日、学校でお会いしましょう。深海さん」
「あっ、波風さんは何組――」
その刹那に風が駆け抜け、二色の吹雪を生み出した。彼女の傘を攫った。あっ、と彼女の漏れた声がかき消される。茂みが受け止めた傘を拾って彼女に返す。
「ありがとうございます深海さん。傘でお怪我はされませんでしたか?」
「問題ない」
彼女は「私はA組ですよ」とだけ答えた。「自分はB組だ」と伝える。
「失礼ですが深海さんは、ご自分の名前が好きではなさそうにみえますね」
「何故そう思う?」
「私が名前をお呼びするときに、顔に」
「そのとおり。好きじゃないよ、この名前。今の家は引き取られた先で、厄介者扱いしかされていないからね。好きになんかなれない」
もっとも、昔の名前も大差ないが。
「いつか自分の名前が好きになれるといいですね」
なれたら苦労しない、とは言えなかった。
「波風さんは、自分の名前は好き?」
「私は好きですよ。両親が私のために考えてくれた、大切な名前です。ただ――」
「ただ?」彼女に聞き返すが彼女の応答は数十秒遅れて返ってきた。
「私にはこれじゃない、本当の名前があるはずなんです。私も両親も知らない名前が」
彼女は一年前に記憶喪失の状態で保護され、今の波風家に世話になっているとのことだった。身元を確かめる術はないらしい。
「俺の猫、正確には違うんだがそいつも一年前に脱走していて、行方がわからないんだ。なにか関係が あるのかもな」
慰めにもならない言葉のつもりだった。だが、己のエゴで始めたことだ。最後までエゴを貫くことは間違いではないだろう。
「俺も手伝うよ。波風さんの失くした記憶を取り戻そう」
「手伝うように仕向けたみたいで、すみません。でもいいんですか?」
「いいんだ。それに――」
もう一度風が、吹き抜けていく。大量の花びらが舞った。
「これから何があっても忘れられないような楽しい思い出を、作っていけばいいんじゃないかな」
「そうだね」と彼女は笑って答えた。桜色がひとつ、ふたつと増えた。
彼女は電話番号とメールアドレスの交換を申し出て来たが、携帯電話は所持していない旨を伝えた。彼女の髪の上には二色の小さな雪があったが、彼女は最後までそれに気づかなかった。