20③-③:夢は夢。
「…ルチルはどこへ行ったの?」
ある日の事だった。リアンが洗濯から戻って見れば、家の中にルチルが見当たらない。心配になったリアンは、テーブルで本を読んでいたクルトに聞く。
「ルチルなら、ランドルフさんの娘さんの所へ遊びに行きたいと言うので、さっきシリルが送って行きましたよ」
「そう、よかった」
リアンはほっと息をつくと、自分も椅子を引きクルトの隣に座った。
「全く。ちょっと前までハイハイしていたのに、今じゃちょこまか動きまわるようになっちゃって。少しでも目を離せば、どこへ行くか分かったもんじゃなくて、ひやひやさせられっぱなしだよ。この前なんて、危うく井戸の中に落ちそうになってたんだよ…ったくもう」
「それは危ない。気づけて良かったですよ」
「シリルだって、小さい頃は同じようだったんだから。それが今や、あんなにしっかり者になったんだって思うと、子供の成長ってすごいなあって思うし、何だかそれだけ時間が経っちゃったんだなあってしみじみしちゃうよ」
リアンは頬杖をつき、遠い目をした。クルトは、急に妻が老け込んだことを言い始めたと、面白い心地になる。
「シリルもいつかは独り立ちして、ルチルもいつかはお嫁さんに行っちゃうんだねえ。なんだかさみしいなあ」
「寂しいけれど、それから後は2人きりで暮らせますよ」
クルトは愛おしそうにリアンを見つめ、リアンの横髪をすっと撫でた。
「毎日夫婦水入らずの生活ができるなんて、素敵な事じゃないですか。それに、可愛い孫たちが、私たちの所に遊びに来てくれるかもしれません。寂しさよりも、楽しいことが増えるかもしれませんよ」
「ふふ、孫かあ」
リアンは、老後の話なんてまだまだ早い気がすると思うが、それを想像するのは楽しかった。
クルトと二人っきりの、のほほんとした暮らし。子供達と離れるのはまだまだ寂しいと思うが、その先の将来も楽しみだ。
「ん…?」
しかし、ふと、リアンは妙な心地に襲われた。いいや、妙ではなく、その心地を感じさせる正体はわかっているのだ。しかし、久方ぶりに感じるそれに、リアンは戸惑いを隠せなかった。
「…リアン」
クルトも気づいた風だ。二人はそっと椅子から立ち上がる。リアンは手に氷の剣を出現させ、クルトは戸棚に隠していた剣を手に取る。
家の周囲に感じているそれは、複数のあからさまな殺気だった。相手は息を潜めているつもりなのだろうが、殺気を隠す鍛錬を積んだことの無い人間なのか、ばればれだった。
「殺気なんて感じるのは久しぶりだよ」
リアンはぼそりとつぶやく。サーベルンとの対峙の毎日では、刺客が送り込まれることは頻繁にあった。だから、昔は殺気を感じとることはしょっちゅうであった。
だが、現在の生活の中で殺気を感じることなど、今の今までなかった。
―まさか、テスが僕たちの居場所を嗅ぎつけたのでは?
リアンは不安に思う。だが、こんな未熟な輩を、自分たちの追跡のためにテスファンが送り込むはずがない。
―なら、一体何者なのだ
2人は目くばせをし合うと、リアンは裏口、クルトは玄関へと向かう。そして、2人は同時に勢いよく、扉を開けた。
「「ぎゃ!!」」
リアンの思ったとおり、開けた扉にぶつかり、誰かが勢いよくひっくり返る。玄関の方でも同様の悲鳴が上がったので、同じことになっているだろうと容易に想像がついた。
だが次の瞬間、リアンは地面に転げた男の顔をみて、息を飲んだ。
「…ターナーさん…?」
それはこの村の男だった。よく余った作物を持ってきてくれる人だった。
しかし、男があわてて落したピッチフォークを拾い上げ、リアンに向けた所を見るに、彼は今や自身の味方ではないことはすぐに理解できた。
ただ、そう理解はできても、目の前の光景を現実だと信じることはできなかった。
「…なんで、そんなものを僕に向けるの…?」
リアンは、男―ターナーを半ば呆然とした心地で見る。すると、ターナーはガタガタと震えながら、勇気を振り絞ったかのように叫んだ。
「…ば、バケモノ!よくもオレらを今まで騙してくれたな!退治してやる!」
「え…」
バケモノ。それは、長らく聞かなかった、自身の代名詞である単語だった。
「お前、人の姿をした魔物なんだろ?!人のふりをして、村の皆を食べる機会をうかがっていたんだろ?!」
どうして、そのことをこの男は知っているのだろうか。唖然としながらリアンが辺りを見ると、そこには4.5人の見知った顔の者たちが、鎌や鍬、棍棒を手にリアンを畏怖と憎悪の入り混じった目で見ていた。
「コーネルさんの知り合いだって言うから、快く受け入れてやったのに。正体がバケモノだったなんて」
「こんなバケモノに優しくして、肥え太らせてしまったなんて、私たちとんだお馬鹿さんだったわ」
「しかもバケモノの子供まで増やすところだったぜ」
「…」
リアンは何も言えずに立ち尽くす。
「殺してやる」
女がそう言うなり、手に持っていた鎌をリアンに向けて投げつけた。リアンはただただ呆然と、それが自身の顔めがけて飛んでくるのを、目で追っていた。
「リアン!!」
後ろから駆けてきたクルトが、鎌を咄嗟に魔法ではじく。そして、リアンの腕を引き、風魔法で空へと舞いあがった。その時、リアンの灰色の鬘が取れて、舞い落ちた。「見ろ、聞いた通りの銀髪だ!」と、男がリアンを指差し叫ぶ。
「クルト、お前、人間のくせにバケモノをかばうのか!?」
「そりゃそうだろうよ。あいつ、あの女がバケモノだと知ってて、結婚したんだろ。バケモノに心を喰われちまったに違いねえ」
「なら、あいつも殺せ!」
村人たちが、宙にいるリアン達に口々に叫ぶ。
「……」
「今はこの場を離れましょう」
クルトは、ショックを受けているリアンの肩を抱き、魔法を操りその場から離れていく。村人たちの罵声が追いかけてくるが、スピードを上げるとやがてそれも消えた。
「どうして…あのことが」
「誰かがきっとその事を教えたんです。そして、そのことを知っている者と言えば…」
クルトは忌々しげに唇を噛んだ。リアンもクルトの言おうとした先を理解して、頷いた。
「テスだ…」
リアンの正体の事を知っている人間は、テスファンとクルトと、ジークしかいないはず。ジークは、この事を誰かに漏らすとは、とても思えない。
それに、この国からの北の地までの距離的に、自身の事を知るジュリエの民達が漏らしたとは考えにくい。リザントにいた民の者達が漏らしたとしても、リザントもここからはかなり離れた距離になる。
となれば、村人たちに教えたのは、自身の事を探しているだろう、テスファンとしか考えられない。
「この村に僕たちがいることに気づいて…」
リアンも苦々しげに、唇を噛む。
「ええ。そして陛下は、この村の者に、あなたの事を教えたに違いありません。…とにかく、シリルとルチルが危ない。早く助けに行きましょう」
クルトは、ルチルが遊びに行ったはずのランドルフの家へと急ぐ。ものの数分もしないうちに、その家は見えてきた。だが、目に入ってきた光景に、リアンは息を飲む。
その家の前には、村人たちが輪となって誰かを取り囲んでいる。その誰かとは、傷だらけでぐったりと倒れるシリルだった。
「シリル!!」
「バケモノが来たぞ!!」
リアンが来るのに気付いた村人たちが、一斉にリアンに向かって鎌や石、そしてピッチフォークを投げる。
「お前らあああ!」
バケモノと呼ばれ動揺していたリアンだが、子供を傷つけられたとなると許せなかった。例え、相手が前日まで仲の良かった者達であっても、もう容赦などしない。
リアンは、投げつけられたものを皆、風でお返しした。村人たちは、自分が投げたものを体に受けて悲鳴を上げ、風に吹き飛ばされる。
「シリル!!」
リアンは地面に舞い降りると、倒れるシリルに駆け寄る。抱き起こすと、小さく呻きながら目を開けた。
「シリル!」
「お母さん…る、ルチルが…」
「ルチルがどうしたの!?」
「ルチルとはこのガキの事かい?」
―いつか必ず消えてしまう。