20③-①:平穏な幸せ
リアンとシリルが城を飛び出して、数年が経った。
「おとうさん、お兄ちゃん、ごはんだよ」
3歳になったばかりのリアンの娘―ルチルが、畑を耕しているクルトとシリルを呼ぶ。
「分かりました。今行きますよ」
クルトは額の汗を服の袖で拭うと、「はやくぅ」と急かすルチルの元へと向かう。
「お兄ちゃんも早く、さめるよ」
「はいはい」
シリルも最近口うるさくなったルチルに苦笑いしながら、畑から出る。
「はやくはやく」とルチルが2人の服を引く先には、ぽつん、ぽつんと家が立ち並んでいた。そのうちの一つの小さな家の扉をルチルが開けると、中からエプロン姿のリアンがにこにこと出てくる。
「ただいま、お母さん」
「ただいま、リアン」
「お帰り、シリル、クルト。お昼ご飯できてるから、ちゃんと手を洗ってから食べてね」
リアンは、ふふと幸せそうに笑った。
「お母さん、この串焼き、前よりおいしくなってる!」
シリルが串焼きを片手に、感動したように言う。
「リアン、本当においしいですね。また腕を上げられましたか」
クルトもリアンを褒める。リアンは照れて、ポリポリと灰色のカツラ越しに頭を掻いた。
「えへへ、ちょっと工夫してみたんだよ、わかった?」
リアン達は、ジークの知り合いのいる山間の村に、身を隠して生活をしていた。そして、その場所はリトミナの隣国―大陸の中央あたりの、スティア、メラコなどの小国が集まる地域の中にある国であった。
リアン達は城を脱出した後、クルトを鉱山から救出し、その足でリザントのジークの元を訪れた。ジークは驚きながらも、リアン達の事情を理解してくれ、匿ってくれた。
ジークはリアンが頼る知り合いとして、一番テスファンに予測されやすい相手であったため、リアンは本当は頼るのを避けたかった。だが、クルトが鉱山での強制労働のせいで瀕死の状態にあったために、すぐにでも治療が必要で、頼らざるを得ない状況だったのだ。
そして、実際、ジークの屋敷に匿われてから2日後には、王国の者達が来た。そして、『逃亡中の犯罪者の捜索』との名目で、ジークの屋敷中をひっくり返す勢いで3人を探した。
ジークはその事を見越していて、先に離れの地下室に、3人を匿っていた。そして、テスファンの手の者が来た時も、3人はそのために事なきを得た。
隠し扉の先にあったその地下室は、がらくただらけの埃くさい部屋で、リアンはクルトの体に障らないかと冷や冷やとしていた。だが、見つからないためには仕方がないと、我慢して生活していた。
そして、クルトの体も癒え、落ち着いた頃に、ジークのつてでこの村で住むことに―ただの一家族として、身を潜めて生活することになったのだ。
「お母さん、今日、お向かいのターナーさんから、トマトもらったよ。『うちではこんなに食べないから、どうぞ』って」
シリルは、さっき自分が持って帰ってきた籠を指差し言う。
「やっぱり。そのトマト、うちが作ったものにしちゃ大きいなって思ってたんだ。今度会ったらお礼を言わなきゃね。今日の晩御飯は、それを使ってスープにでもしようかな」
リアンはクルトに「ね?」と言うと、串焼きを一口齧った。
「ルチル、トマトきらい…」
口をへの字に曲げるルチル。そんなルチルの茶色いお下げ頭を、その隣に座っていたクルトが苦笑いしながら撫でる。
「ルチル、好き嫌いはいけませんよ」
「…うん」
しょぼーんとした顔をするルチルを、リアンは可笑しな心地で見る。
テスファンと共にいた昔に比べ、ほとんど起伏のない平凡な日々。
だが、戦や国の情勢の事、そして自身を排除しようとする存在の事などの、余計なことを考える必要がなく、のんびりと家族と共に生活できる日々だった。
近所に住む人々も優しく、部外者であるリアン達を大きな心で受け入れてくれた。リアン達に野菜の作り方などを教えてくれたり、都会へと遊びに行く際には誘ってくれたり。
彼らは、自身の居場所はテスファンの元にしかないと、頑なだったリアンの心を溶かしていった。
―シリルの言葉を信じてよかった
リアンは思う。あの時、シリルが説得してくれなかったら、今も自身は幽閉されたまま、こんな幸せを知ることもなく鬱々とした生活を送っていたに違いない。そして、きっとルチルも産まれる前に、殺されていたに違いない。
リアンは心の底からシリルに感謝すると共に、母をも超えるその成長を誇らしげに思った。
王子だったシリルも、今や田舎暮らしにすっかり溶け込み口調も砕けた。それに、クルトの方も未だに丁寧な口調のままだが、当初に比べればだいぶ砕けた方だった。
この村に来た頃は、リアンはクルトに、自分やシリルの事を名前で呼ばせるのに苦労した。周囲に自分たちが夫婦と思わせるためには必要な事だったのに、「王妃たるあなた様と王子たるシリル様を呼び捨てで呼ぶなど、そんな失礼な事はできません」と頑なに呼ぼうとしなかったからだ。リアンがシリルと二人がかりで半日説得して、やっと頷いてくれたのだ。
当初はぎこちなかったが、クルトは、今では当たり前のように2人の事を名前で呼んでいた。
「「「ごちそうさまでした」」」
「おそまつさまです」
今日もいつも通り、昼食の時間が終わる。そして、リアンはいつも通り、食器を片づけにかかろうとした。
しかし、今日は違った。
シリルは立ち上がると、早速と言った風にルチルの所へと向かう。
「ルチル、お兄ちゃんと一緒に、お外で遊ぼう?」
「え~、ルチル、おうちで一人であそぶ」
「いいから」
「ええ~」
シリルは、しぶるルチルをひょいと抱き上げると、そそくさと外へ出て行く。
「?」
何だろう。リアンは、なんだか妙な様子だなと思う。そして、「なんか変だったよね?」と、テーブルに残っているクルトを見た。
すると、クルトは、テーブルの下で手を揉んでそわそわとしていた。『ん?』と、リアンは不思議に思う。
「あの…リアン」
「何?」
歯切れが悪い。リアンは、何か言いにくいことでも言いたいのだろうか、と思う。
「その、あの、その…」
「何?」
リアンは、はっきり言ってよ、と視線で促した。すると、クルトは思い切ったかのように立ち上がる。
リアンは驚いて後ずさるが、そんなリアンの手をとり、クルトは言った。
「その、私と、本当の夫婦になって欲しいです」
「……」
真面目な顔で、クルトはリアンを見つめる。冗談で言っているとはとても思えなかった。
「あ、あの、僕…」
「私はあなたとシリル、ルチルの事を愛しています。あなた達を私の手で守りたい。幸せにしたい」
クルトは、ぎゅっとリアンの手を握る。
「え…あの…僕…」
リアンは突然の事に、おろおろと戸惑うばかりであった。
「…!」
そんなリアンをクルトはぎゅっと抱きしめた。リアンは驚きに身を固くして、ただただクルトの腕の中にいた。
「…実は、もっと前からこうしたかった。……あなたとのことが城で噂になって、陛下に問い詰められた時、私は否定しました。そして、陛下に、もっとあなた達と共にいるように言ったのです。…ですが、その時、私は、陛下に嫉妬している自身に気づいたのです。陛下に、リアンとシリルの元に戻って欲しくない。このままずっと、あなた達への足取りが途絶えればいいと、心のどこかで願っていたのです」
「酷い男ですよね」とクルトは自嘲気味に言う。
「ですが、それほど、あなた達2人と共にいる時間が幸せだった。まるで本当の家族を持ったかのように、幸せだった。…私は5歳の時に母を亡くして、厳格な祖父と父に育てられていましたから、暖かい家庭といったものを知らなかった。だけど、あなたたちと共にいることで、それを知ることができた…その幸せを知ることができたんです。…そして、私は思ったんです。この幸せを無くさないために、あなたたちとあなた達のこれからの幸せを、ずっと守っていきたいと」
「…」
クルトはリアンから体を離す。そして、リアンを見つめると、リアンの頭にそっと手をやり灰色の鬘を取った。そして、その下から現れた銀髪を愛おしそうに撫でると、その髪を耳にかける。
「突然で戸惑うのは分かっています。だから、返事は急ぎません。あなただって、陛下の事を忘れた訳ではないでしょう。いくら、ああなったからとはいえ、陛下への思いを吹っ切れない部分もあると思います。だから、時間をかけて、ゆっくりと考えてください。私との将来の事を」
「……」
リアンは何も言えず、ただただクルトを見た。そんなリアンを可愛らしく思い、クルトは小さくほほ笑むと、リアンの頬に軽くキスを落とした。
「…っ」
リアンは慌てて飛びずさると、頬に手を当てて顔を赤くした。クルトはくすくすと笑うと、「じゃあ、農作業に戻りますんで」とリアンに鬘を被せなおし、外へと出て行ってしまう。
「……」
クルトがいなくなった後、リアンは力が抜けたかのように、先程までクルトが座っていた椅子に座った。
「クルトが、僕の事を…」
リアンは、まだ熱い頬を手で押さえながら、呆然とつぶやいた。
「…僕は、どうしたらいいの…?」
クルトは、共にリトミナを建てた大切な仲間だ。そして、クロエに辛い目に遭わされている間、ずっと自身やシリルを支えてくれた大切な存在だ。
それに、この村で暮らすようになってからは、周囲の人々を欺くために子供達にクルトを「お父さん」と呼ばせていたのだが、今やシリルは心の底からクルトを父と思い、呼んでいるようだった。ルチルは物心つく前から傍にいるクルトを、自分の父親だと全く疑ったことが無い。
「……」
リアンは思う。子供たちの事を考えても、このまま本物の家族になっても良いのではないだろうか。
「…テス」
ただ、唯一リアンの心を引きとめるのは、かつての優しかった頃の夫だった。ああなったとはいえ、クルトの言うとおり、リアンはテスファンへの思いを断ち切れてはいない。
それに、もしかしたら、まだ自分の事をほんの少しでも思ってくれているかもしれないと、期待している部分もあった。
しかし、冷静になって考えてみれば、テスファンが未だに自身を愛している確率は、全くないと思えた。自身を城から追い出さなかったのも、わずかばかりの思いやりが残っていたからではなく、ただ国の事を考えて追い出さなかっただけに違いないからだ。
それに、リアンは今や、自身の事はもちろん子供たちの事まで思ってくれているクルトを、他の女を大事にする夫よりも、愛おしく大切な存在に思っていた。
「…テス、さよなら」
ぽつんとリアンはつぶやく。それに返事する者は誰もいない。だが、何だかそれで、心の中の、今までリアンを締め付けていた枷が一つだけ、音を立てて外れた気がした。