20②-⑨:その資格を使うことを、誰が咎める?
「クロエ…」
「お兄様」
クロエは胸に抱きついているテスファンの頭を、愛おしげに撫でる。
テスファンは、妻と親友の2人に同時に裏切られたことでふさぎこみ、クロエの部屋へと入り浸るようになっていた。そして、2人の関係は、最早兄と妹の範疇を逸脱していた。
「クロエ、お前だけは僕の事を裏切らないよな…?」
ベッドの上、テスファンは不安げに、救いを求めるかのように、クロエを見る。
そんなテスファンに、クロエはにこりと微笑み頷く。
「ええ、もちろんですわ、お兄様」
「クロエ…クロエ…」
テスファンは、素肌のクロエを求めるがままに掻き抱く。
そんなテスファンを受け入れながら、クロエはにんまりと笑う。
―うまくいったわ
ジュリアン―私から愛する男を奪った女を陥れ、やっとこうして、テスファンを手に入れることができたのだ。
クロエはサーベルンに囚われた11の年から、サーベルンの王子や家臣に虐げられ、犯されていた。そして、望まぬ妊娠をしては堕ろされ、血反吐を吐くような辛い思いをしていた。
それでもクロエは、愛するテスファンが、いつかきっと自分を救いに来てくれることだけを心の支えに、生きてきたのだ。
だが、そんな地獄の毎日の中で知った、テスファンが他の女と結婚したという事実。クロエは、頭を石で殴られたかのようなショックを受けた。
―お兄様は、私の事を忘れてしまったの?
―どうして?私は、あんなにもお兄様の事を愛していたのに…待っていたのに!
それからクロエは生きる気力を無くし、毎日人形のように、ただただサーベルンの者達にいたぶられていた。
そして、それから10年程が経ち、ヘルシナータはサーベルンの支配から解放され、クロエは救出された。
クロエ救出の知らせを聞いたリトミナ国王―テスファンは、クロエに面会を求めた。
何を今更と、やさぐれた気持ちでクロエは、テスファンに会いに行った。
「クロエ!会いたかった!」
顔を合わせるなり、テスファンはクロエを抱きしめた。
「ごめん、僕のせいで苦労をさせて…!!」
テスファンは泣きながら何度も謝り、クロエの頭を掻き撫でた。懐かしい暖かさで包まれ、クロエは先程までの気分などすっかり忘れ、我知らず泣いていた。
「お兄様!!会いたかった!」
そして、クロエもテスファンの背に腕を回し、抱きついた。何度もお兄様と呼びながら、愛おしい男の温もりを求めた。そして、自身がやっとサーベルンの支配から解放されたという実感を、噛みしめていた。
「クロエ、一緒に暮らそう。これからは一生僕の傍から離さない」
「お兄様…」
自身の瞳を見つめるテスファンを見つめ返し、クロエは思う。テスファンは、こんなにも自分の事を思ってくれていたのだ。そんな彼が、私の事を忘れて、他の女と結婚などするはずがない。
―きっと、お兄様はあの女の力が必要で、仕方なく結婚したのだ
だから、クロエはそのまま口付けようと、テスファンに唇を寄せた。しかし、テスファンはふいっと顔を背けてしまう。
「…すまない。僕は妻を愛しているんだ。君の事は昔から、妹のように大切で。だから、その、婚約はすまないが、履行はできない…」
「そんな…」
すまなさそうに頭を下げるテスファンを、クロエは絶望のままに見た。
「だけど、君の面倒は一生見る。もう寂しい思いも、辛い思いもさせない」
「……」
クロエは、テスファンが力強く言ったその言葉に、頷くことができなかった。
頷かれなかったことで、ばつが悪そうに目を逸らすテスファンを見ながら、クロエは思う。
―諦める?
愛おしい男を前に、クロエは自身に問う。しかし、心の奥底の自身は、首を横に振った。
―いいえ。私は今まで地獄の底で苦労してきた。だから、今度は幸せになる権利があるはず
クロエは、自分が幸せになって当前だと思った。そして、そのためには、何をやっても許される気さえした。
―だから、奪ってやる
あの女から、お兄様の身も心も。
そして、私が血を吐くような苦労をしている間、お兄様に尽され大切にされていたあの女の、その幸せも地位も全部奪い取ってやる。そうしなければ、気が済まない。
クロエは、テスファンの心をリアンから離れさせ、自身に向けさせることを画策した。そのために、クロエはいつもテスファンの傍にいて、彼の心のままに寄り添う存在として、その信頼を得た。そして、平民出身のリアンの至らないところを周囲に見せ、自身の出来の良さを見せつけることで、リアンの評価を下げ、自身は周囲の人心を得た。
そうして、簡単に面白いように事が進んだ。
唯一、クロエが目障りに思っていたのはクルトだった。彼だけは、いつも警戒するかのように、自身を見ていたからだ。そして、テスファンにたびたび、自身の事を信用するなと進言していたからである。
だから、クロエは、クルトはもちろん、リアンも一緒に始末する方法を思いついた。
丁度良いことに、テスファンに相手にされなくなったリアンは、クルトと共に居ることが多くなったから、2人の不貞の噂を流したのだ。
更にクロエは、2人の情事の現場をつくりあげた。自身の手駒たちに、クルトを襲わせ、そしてリアンに眠り薬を持ったのだ。リアンの好物なんてものは、自身を信用しきっているテスファンから、簡単に聞きだすことができた。
そうして、クロエは、テスファンに完全に彼ら2人への信頼を失わせた。そして、クロエが思ったとおり、心の拠り所を失ったテスファンは、自身の存在だけを頼るようになった。
さらに、傷心したテスファンからは、クロエはリアンの正体も知ることができた。
本当は人の皮をかぶった化け物だという正体を。
テスファンはリアンが差別されることを避けるため、彼女は珍しい魔法を使える存在と言うこと以外、公表していなかった。そして、今となっても尚、テスファンはリアンの正体について、王家から人心が離れていかないようにするため、口を閉ざしていた。
だが、クロエには、何度もこぼすようになった。やはり野獣は、雄なら誰にでも尻を振るのだと。
―どうりで、年の割に若く見えたはずだわ
リアンの歳はクロエと同じという事になっていた。しかし、クロエは、リアンが二十代前半ぐらいにしか見えないことを、初めて会った時から不思議に思っていた。
だが、テスファンに仔細を聞けば、100年以上は生きている者という事だった。
―これも、良い材料になるわ
リアンを、完全に城から追い出すための。
本当ならクロエは、不倫について周りに言い触らし、リアンの名誉を傷つけた上で追い出すことができた。しかし、黙っておくようにとのテスファンの指示に、クロエは仕方なく黙っていた。
それに現在のリトミナは、サーベルンの支配と脅威から人々を解放した英雄、戦の女神たるリアンへの、人民の信奉で成り立っていると言っても良いからだ。
―だけど、もう少しすれば
クロエは思う。リトミナの国家の地盤が安定したら、王妃の不倫と正体を、皆に公表してやるのだ。そして、リアンの地位はもちろん、その血を受け継ぐ息子シリルの地位も居場所も、完全に奪い取ってやるのだ。
そうして、自身がこの国の王妃となり、いつかできるであろうテスファンと自身の子供を、王位継承者とするのだ。
クロエはそこまで思った時、胸の内が少しだけちくりと傷んだのを感じた。しかし、それは本当に少しだけだ。
一瞬後には、その痛みなどすっかり忘れていた。
―私は今まで過酷な苦労ばかりしてきた。だからこそ、今度はそれと同じだけ、幸せになれるはず。いいえ、ならなきゃいけない
サーベルンの国教、イゼルダ教の教義の中に、そう言う話が合った。改宗を迫られ無理やり教えられた教義ではあったが、クロエはその話だけは妙に納得できて、世の中の真理だと信じて疑わなかった。
―私は今まで世界で一番不幸だった。毎日毎日、人間扱いされずいたぶられて、嬲られていた
―だから、私はこれから、人間として世界で一番幸せになる資格がある。その資格を使うことを、誰が咎める?誰も咎められるはずがないじゃない
だから、リアンの幸せも、リアンが創り上げた国も、すべて奪い尽くす。そのことを誰も、神でさえ、私を責めはできないだろう。
それを悪いと言うのなら、私ではなく、神様が悪いに違いない。私にあんな酷い運命を与えたのだから。
クロエは不敵にほほ笑むと、疲れて眠ってしまったテスファンの頬を、愛おしむかのように撫でた。