20-④:気遣いの『き』
少女を北の地から連れ出した3人は、サーベルンに支配された王国ヘルシナータから脱出した王子テスファンと、その乳兄弟である従者、そしてリザント一帯を治めていた長の息子だった。
当時のリザントの長は、命からがらヘルシナータから逃げてきた亡国の王子を、哀れに思って屋敷に匿っていた。
その逃亡生活の中で王子は、『山の神の娘』と言う特殊な存在が北の地に居ることを、リザントに居たジュリエの民たちから聞いた。そして、王国を取り戻すために、サーベルンに雪辱を晴らすために、その者を利用出来ないかと思いついたのだ。
だから、王子は従者と、通訳に長の息子を引き連れ、北の地へと来た。そして、ジュリエの民たちとある程度友好を深めて油断をさせたところで、神の娘を閉じ込めている場所を聞きだし、その誘拐を実行したのである。
そのような事情があり、少女は王子―テスファンに、リザントの長の屋敷にまで連れてこられた。
そして少女は、屋敷に入れられるなり、何が何だかわからないままに長く伸びた髪を短く切られ、更にぼろぼろの服を引きはがされ、湯船に突っ込まれた。
「まずは清潔にしないとな」
テスファンは腕まくりをし直すと、泡立てたスポンジでごしごしと少女の背をこすり始める。
「殿下、着替えなどをお持ちしました」
浴室への入り口に、黒髪の従者―クルト・ジルベリテが、タオルと着替えを持って現れる。
「あぶ、あふっ…!ちょっと君達!私、女なの忘れてない!?」
少女は、湯船で泡に溺れそうになりながらも、必死でテスファンの手から逃れようとする。
「うるさいな、チビ。大人しくしてくれないと、洗えないじゃないか」
しかし、少女は、湯船に強引に突っ込まれ直され、ごしごしと頭を洗われる。
「うっ、うう」
少女は諦めて、しおしおと泣き始めた。ひどい。いくら見た目が子供でも、もう妙齢の女性以上の年月を生きているというのに。
「今度は泣き始めたぞ、このチビ」
テスファンは不思議そうに言う。そんなテスファンを見て、クルトは呆れながら言う。
「泡が目に染みたんじゃありません?殿下が優しく洗わないから」
「そうか?これでも丁寧に洗っている方だぞ?」
「よく言いますよ。荒っぽすぎて見ていられません」
「ええ、そうか?僕昔、兄貴と風呂に入った時は、こんな感じで入らされていたんだけど。…それにしても、言葉が通じないってホント不便だな。さっきから何叫んでるのか、さっぱりわからん」
少女は、男2人が何を話しているのかは分からなかったが、彼らが女性である自分に対して、気遣いのきの文字すら思いついていないだろうことは雰囲気から察した。そして、彼らが、自分をどこまでも子供扱いしていることも。
だから、少女は、体を洗われている間中、しくしくと泣き続けていた。
やがて、少女は服を着せられ、休む間もなくどこか別の部屋へと連れて行かれる。そこにはテーブルの上に、食事の乗った皿が所狭しと置かれていた。
「食え。そのチビの体じゃ、ロクに飯食わせてもらってないんだろ?」
「……」
少女は、何と言われたか分からなかったが、食べて良いというようなことを言ったに違いないと察する。ただ、もし間違っていたら、手を付けてから怒られそうだから、どうしたものかと戸惑う。
『食べて良い、って彼は言っているんです』
「…!」
ふと肩に手を置かれて、少女がはっと後ろを見ると、灰色髪の男―ジーク・エーメリーがいた。
『私の妻が、腕によりをかけて作った料理です。おいしいですよ?ただ、北の地の料理とは味付けなどが違うと思いますから、お口に合わなかったら申し訳ありませんが…』
ジークはにこにこと、少女に話しかける。その笑顔に少女はちょっとだけ落ち着いて、こくんと頷いた。
『さあさあ、座って』
その言葉に、背の低い少女はよっこらせ、と若干背伸びしながら椅子に座った。しかし、足が床に付かないので、椅子を前へと引けない。
「しゃあねえ、チビだな」
テスファンは、そんな少女の椅子を後ろから「ほれ」と押す。
「さっさと食え」
「……」
しかし、少女はその言葉を聞いていない。目の前の豪華絢爛とした料理(長らく料理と言う料理を見たことが無かったから、そう見えたのだが)に、完全に気を取られていたためだ。
少女は、料理を前にごくりごくりと何度も涎を飲み込んでいたが、しまいには追い付かず、よだれが口の端からあふれ出した。
「お前、ほんとにガキだなあ」
そんな少女を見て、テスファンは呆れつつ言う。
『ふふふ、さあ食べなさい。全部食べてくださいね。遠慮はいりませんよ』
と、ジークが言い終わる前に、少女は目の前にあったスープの器を両手で持って、一気に傾けた。そして、すべてを飲み干すと、少女は「くうう!」と言った後、「ぷはあ」と一息ついた。
「…お前、風呂上がりに酒を飲むおっさんかよ」
そんなテスファンの突っ込みに、少女は全く気付かない。百年越えに味わう人間らしい味が臓腑に染みわたる感覚に、体が震えるほどの感動を味わっていた真っ最中だったからだ。
―おいしい!おいしいおいしい!おいしいいぃいいいぃぃ!!
少女は内心でただただおいしいとばかり叫び、わき目もふらずに、料理をばくばくと食べ続けたのだった。