20-③:北の地にて
「おい、餌を持ってきたぞ」
男の呼びかけと共に、暗い洞窟に肉が放り込まれる。すると、洞窟の奥で黒い影が起き上り、のそのそと投げ込まれた肉に近づく。
それは少女だった。年の頃は、14.5歳。だが、少女は、それよりもはるかに長い年月を生きていた。
―いつもいつも、生肉ばかり。私をケモノあつかいして
少女は肉を拾い上げると、かぷりと齧った。飽きた血の味が口に広がり、少女は深いため息をついた。
―最後に、人間らしい食事をしたのはいつだったろうか
少女は思い出そうとした。しかし、詳細には思い出せなかった。だけど、それは軽く100年以上は前の事だ。
少女は肉を食べ終えると、けだるそうに立ち上がり、洞窟の入り口へと向かう。そこには鉄格子が張られていて、それ以上前には進めなかった。
―こんなもの、簡単に壊せるけど
魔法を使えば、いともたやすく壊せるだろう。しかし、少女は、外を見ながら『だけど』と思う。
少女は、吸収魔法という得体のしれない魔法を使うというだけで、幼い頃から気味悪がられていた。さらに言えば、食事からも魔力を奪うことができるという点で、魔物にもよく似ていたから、魔物化した人間だとも言われていた。
ジュリエの民の間では、『神の涙』という、神が産みだしたという伝説のある石が、人や動物を化け物―魔物にすると知られていた。そして、その石を、ナギ山が火山灰として吐き出しているという事もよく知られていた。だから、少女はその火山灰のせいで魔物化した人間なのだろうと、皆から思われていた。
ただ、通常なら、魔物化すると容姿が変貌して理性を失うはずなのに、少女は普通の人間の姿と理性を保っていたから、なおさら皆は怖れた。ある者は『神の涙』に適合した者だと言い、ある者は本当は化け物の姿をしているのに、人間に化けて良からぬことを考えているのだと怖れた。
そうして、同じ部族の者からはもちろん、家族からもつまはじきにされていた少女。それは、少女がいつまでも若く同じ姿だったことで決定的となった。
少女の周りの者は皆、理屈では説明できない彼女の存在を、ナギ山の邪神の寵愛を受けた娘―山の神の娘と呼んで怖れた。
そしてある日、少女は、家族や他の皆に取り押さえられ、ナギ山にほど近い山の洞窟に、閉じ込められた。
―だから、この檻を壊して外へ出たところで、居場所などないのだ
日を数えるのも途中で面倒くさくなって、今があれから何年たったのかは分からない。だが、最初に自身を閉じ込めた者達は、とうに死んでいるはずだ。しかし、未だにその者達の子孫が、自身を閉じ込め続けているのだ。
だから、そんな者達が居る世界に出たところで、自分に生きていける場所などない。
―そんなに私が怖いのなら、さっさと殺してくれればいいのに
少女は、永遠に続くかのような孤独の中で、何度もそう思った。だが皆は、自身の事を、ナギ山が生み出した地上最悪の災厄―この世に仇なす忌子に違いないと恐れてはいても、神のたたりを恐れて殺そうとはしなかった。ただでさえ、体が腐る奇病や魔物を生み出してきた―災厄を世界にまき散らしてきたナギ山の神は、少女が殺されたとなると、たたりとしてすさまじい災厄を呼ぶに違いないと思われていたからだ。
だから、今も数日に一度、かつて少女が属していた部族の者は、少女に食事を与えに来てはすぐに逃げ帰るのだ。
―まあ無理だろうけど
少女も、何度か自分で死のうとしたこともあったが、その度に失敗していた。
少女の体は、特殊だった。例え、大きな怪我をしても、丸一日経てば治る。
少女は幼い頃に、父親から崖の下へと捨てられたことがあったが、翌朝気がついた時には血だらけだったものの無傷だった。その代わりに、自身周辺の大地が異様に干からびていたから、少女はどうやら魔力を吸収して回復したことを知った。そして、その一件で、なおさら皆から怖れられることになったのだ。
なので少女は、いつ来るかもわからない―もしかしたらこないかも知れない―自然死を待ちながら、大人しく閉じ込められておこうと思っていた。
そんなある日だった。
―がっしゃあああん!!
「…?!」
洞窟の入り口にあった鉄格子が破壊された。
少女が一体なんだろうと思いながら、恐る恐る入口へと向かうと、そこには人影が3つあった。
「いたぞ」
3人の真ん中にいた男が声をあげたので、少女はびくっとその場にうずくまった。
怖かったのは、大人の男が3人もいた事もあるが、彼らが皆、見たこともない容姿の者達だったからだ。
彼らは、見たことの無い様式の服を着ていて、見たことの無い茶色や黒色、灰色の髪を持っていた。そして、見たことの無い、茶色や黒色、緑色の瞳をしていた。
少女は、この地からはるか南に行けば、そこにもまた人間の住む土地があり、そこにはそう言った容姿をした人々が住んでいると、知識としては知っていた。
たが、実際にその地へ行ったことはおろか、その人々に会った事も無い少女にとって、得体のしれない異国人は恐怖を抱かせる者以外の何者でもなかった。
「お前が、神の娘か」
「…?」
真ん中にいた茶色い髪の男は、そう言った。しかし、少女は、その男が何と言っているのか、まったく分からなかった。と言うのは、男が話していたのは、聞いたことの無い言語だったからである。
首をかしげる少女を見て、男はそのことに気づき、横に居た灰色髪の男を向いた。
「通訳しろ、ジーク」
すると、灰色髪の男は茶髪の男が話す言葉を、少女にとっては当たり前の言語に直して話しはじめる。
『僕の名前は、テスファン・フィランツィル=ショロワーズだ。お前の名前は?』
「わ、私の名前は…」
少女は、問いに答えようとしたが、はたと気づく。自身の名前は一体なんだっただろうか。長らく『バケモノ』や『魔物』とばかり呼ばれていたため、少女は自身の名前を思い出せなかった。
『どうした?』
「名前…おぼえてないです…」
少女は申し訳なさそうに、小さくなった。訳された少女の言葉を聞いた茶色髪の男は、不思議そうに首をかしげて、言った。
『……自分の名前なのに?』
少女が何も言えずにうつむくと、茶髪の男はあきれまじりの息をついた。だから、少女はなんだか恥ずかしくなって、かああと頬を赤くした。
『名前はもういい。とにかく、僕たちと一緒に来てもらおうか』
「え…」
少女は、茶髪の男のセリフに戸惑った。この人たちと、一緒に行く?一体どこへ?
少女が問い返そうとしたその時、何だか外が騒がしくなり、黒髪の男がはっと顔を上げる。
「殿下!いけません、奴らが来たようです!」
「…くそ、もう気づかれたか」
茶髪の男は忌々しく舌打ちをすると、少女の腕を掴んだ。そして、震え始める少女にかまわず、立ち上がらせると、そのまま走らせようとする。
だが、長年ほとんど動いていない少女の足は細く、走るほどの力は無かった。
「しょうがないな」
「ふぇ?!」
急に視界が回ったかと思うと、体が浮いていた。気がつくと少女は、茶髪の男に抱き上げられていた。
「ちょ、と?!」
少女は気恥ずかしさに足をばたつかせるが、茶髪の男は構わず、従者2人を連れて洞窟の外へと走り出す。
「あ…」
少女は、何百年ぶりかの外の空気に感動する間もなく、山裾の、幾つもの人影に気づいた。
それは、自身を閉じ込めている者達だった。自身が外に出たことを知られれば、あの者達に何をされるか分からない。少女は急に恐ろしくなった…と、ぐわりと体が浮遊感に襲われる。
「ひ、えええ…!?!!」
浮遊感が収まった時、少女は、いつの間にか自分達が空高く浮いていることに気づいた。
「ひいいいい!!」
少女ははるか下に見える、大地を見てがたがたと震えた。この高さから落ちれば間違いなく死ぬ。魔方陣は足場としてちゃんとあるのだが、その隙間からは鮮やかに下界が見えているのだ。少女は危うく漏らしそうになった。だけど、抱き上げられている以上粗相はできないという意地が、ぎりぎりのところで漏れるのを防いだ。
「なんだ、怖いのか?ちゃんと魔法は使ってるから、落ちやしないよ」
自身の体に抱きつく少女を見て、茶髪の男は「よしよし」とあやすかのように体を揺らした。だが、高所で体を揺らす等という行為は、余計に少女の恐怖をあおるものだということに、男は気づいていない風だった。
「だから、大丈夫だって言ってんだろ?何が怖いんだ?」
だから、余計に震えはじめた少女を、不思議そうに茶髪の男は見る。
「殿下、空にいるとは言え、いつまでもここにいるのは危険です。さっさとこんな土地、離れましょう」
黒髪の男が、急かすように言う。その言葉に茶髪の男が下を見れば、追手が魔法を使ってこちらの方へと飛んできていた。
「そうだな。まあ、別に僕に追いつける訳もないから、安心しろ」
「だけど、寒いですし、さっさと帰りましょうよ」
灰色髪の男が、腕を抱いて震えて見せる。茶髪の男は「それもそうだな」と頷くと、ダンと魔方陣を踏んだ。それと同時に薄い障壁が、4人の周囲に展開された。かと思うと、すさまじいスピードで、魔方陣が4人を乗せて進み始めた。
「ひいいい!」
びゅんびゅんと後方へ飛んでいく山脈の景色が恐ろしく、少女は再び茶髪の男にしがみついた。
「だから、大丈夫だって。ちゃんと周りを覆ってるんだから。いちいちうるさいチビだな」
茶髪の男は、あきれまじりのため息をついた。そんな男に、黒髪の男は「言葉が通じていないから、仕方がないですよ」と言う。
「そうだったな…。意思疎通できなきゃ色々と面倒くさいから、リザントに着いたらこっちの言葉を勉強させなきゃな。ということで、ジーク頼む」
「分かりました。村の子供に読み書きを教えていますから、教えるのは得意ですよ。お任せください」
灰色髪の男はにこりと頷く。
―ばしゅん、ぼしゅん
「…!!」
その音に、少女は、はっと後ろを向いた。追手の者達が放った魔法が、自身たちを覆う結界にぶつかったのだ。
「しぶといですね。結構な距離を飛んだと思うのですが、まだ付いてきているとは」
黒髪の男は彼らを見つつ、苦々しい表情をした。
「大丈夫だ。あんなしょぼくれた魔法に、僕の魔法が破れる訳がないから」
「だけど、リザントまでは殿下が全力で飛んで、後2日もかかりますよ。どこかで休憩しないといけないのにできないとなったら、たまったものじゃありませんよ」
「大丈夫だって、心配性だなあクルトは。あんな並の魔力しかない奴らが、僕が疲れるまで付いてこれるかっての。でも、暇つぶしに片をつけておくか」
茶髪の男は、魔方陣を止めると、結界を解いた。そこを狙って、追手たちが一斉に魔法を放とうとする。
「ウザいっての、さっさと消えろ」
茶髪の男は、少女を片手に抱きなおすと、開いた手を振った。すると、火球がいくつも産みだされ、追っ手たちに向かって放たれた。
追手たちは火球を避けたが、その火球はそのまま追手たちを追跡し始める。追手たちはあわててその火球に魔法を放ち迎撃するが、びくともしない。
追手たちは悲鳴を上げて逃げ始めたが、やがて皆火球に追いつかれ、焼け焦げて墜落していった。
「これで一件落着だ」
自慢げに胸を張る男の腕の中で、少女はほっと息をつく。もしも彼らに追いつかれたら、自分の意思ではないにしても洞窟から外へと連れ出されてしまった事で、酷い目に合される気がして、ひやひやとしていたからだ。
「じゃあ、帰りましょうか」
「ああ」
灰色髪の男に頷くと、茶髪の男は魔方陣を進めた。今度はゆっくりと、南に向かう。
南に向かうにつれ、下に見える景色は、次第に緑が増えていく。それに伴い、少女はなんだかほっとするような心地がしていた。やっと、雪だらけのあの地から逃れられたのが、目に見えて実感できたからだ。そして、
―暖かい
心にゆとりが生まれるにつれて、少女は自身を包む温かさに、身を任せるのが心地よくなってきていた。
人の肌の温もりを、こんなに傍で感じたのは何時ぶりだろうか。それは自身が5歳の時、母に負ぶさられていた時ぶりだろう。その母も、自身が魔法を発現するなり、触れてすらくれなくなったけれど。
「…なんだ、こいつ。さっきまできゃあきゃあ喚いていたのに、今度は居眠りしそうになってるぞ。呑気なものだな」
自身に抱きつく力が弱まったことで、茶髪の男は、少女がうつらうつらと船を漕いでいることに気づいた。
「疲れているんでしょう?休憩に降りるまでの間は、寝かせてあげましょう」
灰色髪の男が、ふふっと微笑みながら言う。
「図太い奴だな、王子の腕の中で寝るなんて。まあ軽いから許すけど」
茶髪の男―テスファンはそう言いつつ、少女を抱きなおしたのだった。