ネジ巻き男
「ネジを見ませんでしたか」
日曜の午後、声をかけられた。私は家で、庭の花に水をやっていた。
塀の向こうに見知らぬ男が立っている。灰色の制帽を被り、ごくごく事務的な顔をしていた。
「ネジ?」
「はい、ネジです」
私は首を傾げた。
ネジ? 聞き間違いだろうか。
「ゼンマイを回すための、指で掴んで回す、あのネジですよ」
ようやく合点した。どうやら聞き間違いではなかったらしい。
私は長く伸ばしたホースを放り出し、蛇口を捻りに行った。
塀の前に戻ってきても、男達は相変わらずの顔で立っていた。人数は、三人に増えている。後ろを見ると、白いバンが停まっていた。
「よく分からないのですが、その、どのようなネジですか? 何か、こう、パーツを落されたのですか?」
男は後ろにいる仲間と、何ごとか話していた。
からかわれているのだろうか。それにしては男の表情は真面目で、身なりもきちんとしている。灰色のツナギ姿も、ガスか電気の修理員といった風情である。
「すぐに済みます。ご主人のお庭を、拝見してもよろしいでしょうか?」
男達の態度は、断るのがはばかられるほど、真に迫っていた。少なくとも、単なるいたずらではなさそうだ。断る理由を考えるのもおっくうだ。
「とても大事なことなのです」
「分かりました」
私は頷いた。
塀のないところで彼らの姿を見ると、私はあることに気が付いた。胸の辺りに不思議な言葉がプリントされているのだ。丁度、会社の文字が入るような位置に。
『あなたがネジに気づく時』、とだけ書かれていた。
首をひねる。キャッチコピーにしても、不思議な言葉だからだ。
「あの、何か?」
「いえ。さぁ、どうぞ」
庭へ招き入れると、三人の男達は、花壇の中や、物置の近くなどをしばらくの間探していた。
六月の空気は蒸し暑い。男達は汗をかきながらも、懸命に何かを探していた。
「あったぞ!」
奥の花壇で声があがった。
近寄っていって、驚いた。
地面から、本当に銀色のネジが生えているのだ。
「……あの、これは?」
静かに、と男達は仕草で示した。
男達はネジに耳を澄ませている。ネジはゆっくりと回転していた。カリカリ、カリカリとダイアルを刻む音が地面から聞こえてくる。
「いいな」
「何回、回す?」
「三回半だな」
男達はしばらく議論した後、うずくまる。一人が慎重な手つきでネジに触った。
物凄く錆びた音がした。神経を逆なでする音だ。
ネジが巻かれていく。一回、二回、三回。
「よし」
慎重な手つきで、ネジを持った男は指を放した。男の額には汗が浮いていた。
「これでお終いです。ご協力ありがとうございました」
男達は爽やかな笑みで礼を言った。
「あの、これは?」
「ネジです」
「そうだろうとは思いますが……何のネジです?」
「さぁ。この世はネジだらけですので、これが何のネジなのかは、分かりませんね」
三人の中で、一番若い一人が言った。彼はごくごく真面目に、ネジの写真を撮ったり、何かをメモにとったりしていた。
「ただ、遅くなったネジは巻かないと」
「今回はぎりぎりでした。ご協力に感謝します」
「本当に助かりました」
三人は帽子を取って、礼をした。私が何かを言うより前に、乗ってきたバンに戻っていく。
「何だったんだ」
振り返ると、そこにすでにネジはなかった。
白昼夢だろうか? だが駐車場の地面には、濡れた土を踏んだ男達の足跡が残されている。
首を振って、ため息を吐く。私は花壇に水をやる作業に戻った。
男達の足跡は、いつまでも駐車場に残っていた。
その日以来、変化が訪れた。
「まただ」
私は呟いてしまう。駅のホーム。事務所のトイレ。果ては、電信柱の横。私は次々とネジを見つけるようになってしまった。
銀色で、親指ほどのサイズのネジ。見かける度に、それらはゆっくりと回っていた。
このネジは、今までもあったのだろうか。
だとすれば、どうして今まで見逃していたのだろう。
最初は無視していた。目の錯覚だと言い聞かせて。だが、こうも多いと、意識しないのは不可能だ。
もんもんとしたまま、過ごすしかない。誰かに聞こうとしても、ためらってしまう。
私は狂ってしまったのだろうか。
「あっ」
そんな日が続いた、ある朝だ。私は偶然、灰色のツナギを目にした。あの時の人間かもしれない。
慌てて追いかける。灰色のツナギは角を曲がった。
ツナギが消えた小道に入って、私は目を見開いた。
電柱、塀、看板、自動販売機。
ありとあらゆる場所に、ネジが刺さっている。
ネジはギイギイと軋んだ音を立てながら、緩慢に回っている。恐ろしかったのが、どれも、寸分違わず同じ回り方をしていたからだ。咲き乱れる銀色のネジが、真っ赤な朝日に照り輝いている。
世界は、こんなにもネジだらけだったのか?
ネジは耳障りな音を立てながら回っている。その音が、私の耳にしがみついて離れない。赤い陽が目に刺さるようだ。
走った。
家に帰り、ドアを閉めた。
ギイギイという音は、家の中からも聞こえる。育てていた花壇からもだ。そして――
「帰ったの?」
家族が私を出迎える。妻の額からも、銀色のネジが生えていた。
「忘れ物? あなたのんびりしてるから」
叫ぶことさえできず、私は部屋に逃げ込んだ。
ネジの音は追いかけてくる。どうしてだろう。後ろにある鏡を覗いて、やっとわかった。
私の背中にも、ネジが生えていた。
背中で緩やかに回転するネジを見て、私はもう戻れないほど狂ったことに気が付いた。
後日、私の元に、灰色のツナギが届けられた。
ツナギの背中側にも、文字がプリントされていた。
『あなたがネジに気づく時』
その続きは、こうだ。
『あなたがネジに気づく時、ネジもまたあなたに気づいている』
『ようこそ、私達の世界へ』
私は灰色のツナギに袖を通した。私のネジを巻いたのは、一体誰なのだろう。
そんなことを考えながら、ネジが回る音を求めて、住宅街を彷徨う。どこかにあの日の庭のように、他と遅れたネジがあるはずだ。
やがてバンが迎えに来た。