大切な物との距離は何光年?
本文には2つの作品を引用しています
「いなくなれ、群青」河野裕
本文の七草は上記作品の登場人物です。なお、本文で彼に共感できた。という表記がありますが、彼の思いすべてでなく言葉に解釈を加えて共感できたという意味である
「星の王子さま」サンテグジュペリ
君が空を見上げたならそこにはたくさんの星があるだろう。もちろん場所によって肉眼で見ることのできる星の数に誤差はあるが、地球上どこにいても私の頭上にはほぼ無限の星がある。
さて、広い宇宙にはピストルスターという星がある。最近まで人類の観測した最も大きな星とされていた星であるが、さまざまな理由から一般人に見ることはできない。
見ることができないのを残念がる人、なかには、見えないなら意味がないと思う人もいるだろう。
しかし、この星が大好きな七草はそれがいいと、僕の知らないとこで、でも、たしかに輝いてることがいいと言うのだ。
私は彼に共感できた。そこを話したい。
まず、見えてしまったら、憧れることができないからだ。いくら素晴らしいものも見えていること以上の評価は与えられない。案外しょうもないこともあるのだから。
それに、見えているところで壊れてしまったらと思うとどうしようもない。無責任だけれども、きっとどこかで輝いてることを夢想していたい。
これは何も星に限らないだろう。自分の大切な好きなもの(形のある物も無いものも)にはとても憧れを持つ。それを一度手にすれば理想との相違点を見てしまい想いは風化して、呆気ない評価をつけることに、また、形が変わり、壊してしまうだろう。
大切なものは手に入れるものではなく、手に入れたいと願うべきものである。(尤もその願いはこの上なく残酷ではあるが)
「星の王子さま」のぼくと王子さまが別れ王子さまが星に帰るシーンで王子さまはぼくに この宇宙のどこかの僕の星で笑っていると言う。 どこに自分の星があるのかを教えなかったのはそういうことだろう。 大切なものは目に見えないと言ったのはキツネだったろうか
簡単に手に入れるものは本当に大切な物ではなく(手に入れたと勘違いしていることが多いだろう)手に入らないからと言って諦めるのであればそれも本当に大切な物でない。やはり、傷ついてもがいて結果何も残らないとしても追い求めることのできる物が本当に大切な物であろう。それを私は本物と呼んでみようか
読んでいただきありがとうございます
前書きにあるように2つの作品を引用したのですが、この2つにはとても影響されたと思います。星の王子さまは多くの人がご存知でしょう。まだ読んでない人は是非、大人でも楽しめると思います。「いなくなれ、群青」は作者の河野裕さんの名前を知っているひとが多いのでは?映画とアニメになったサクラダリセットの作者さんです。
いなくなれ、群青はなにかのランキングで上位にあり、手にとるととてもはまりました。階段島シリーズで全四巻でています。とくに高校生におすすめです。本文で紹介した七草くんがピストルスターを好きというのが、とても素敵な比喩になっているのです。